特集「大学・高等教育の あり方を問う」 18歳人口急減期における大学教育の質の保証 早田 幸政(大学基準協会)  今日のわが国における経済構造、産業構造は、競争原理に支配される熾烈な環境・条件のもとで、今後、どのような変革がなされていくか不透明感を増す状況にある。こうした厳しい今日の経済的、社会的情勢の下、わが国高等教育機関は、学術研究の一層の発展に貢献するという基本的使命を果たしつつ、その「生き残り」をかけて、自らの教育方針に適った学生を獲得し彼らに良質の教育を提供すべく、改善・改革を繰り返しながら自身の組織・活動の充実・強化を図っていくことが強く求められている。  周知のように、1992年度を境とする18歳人口の急増減に対応させつつ、高等教育の適正な量的規模を確保するための調整的定員管理システムとして、1985年度より、国立大学から順次、「期限を限った定員増」(いわゆる「臨時的定員」)が導入されていった。この臨時的定員は、国立大学については1999年度までに、公・私立大学についても2004年度までに解消されることがすでに行政決定されている。但し、そこでは、公・私立大学の場合、最大5割まで恒常定員化していくことも、併せ認められている。  こうしたことから、18歳人口の急増減に、ある意味で「伸縮自在」に対応させるために設けられたはずの臨時的定員が、結果的に5割を限度に恒常化が認められることとなったことで、当初の予想を上回る高等教育の量的規模で18歳人口急減期の乗り切りを余儀なくされた全ての大学にとって、トータルな視点から、わが国高等教育の質の保証のあり方を考えていくことが、重要課題となってきた。換言すれば、公・私立大学において臨時的定員の5割恒常化が認められることとなったことと相俟って、国立大学を含む全ての大学は、わが国高等教育機関全体の学生収容力が急速に上昇する一方で、実入学者数の継続的減少が予想されるという厳しい環境の中で、従来にも増して、受け入れ学生の資質・能力に充分見合った教育を行うとともに、その教育研究水準の維持・向上に邁進していくという、一見相反する二つの責務の履行を通じ、自らの体質を強化していく必要性に迫られることとなったのである。  こうした問題意識に基づき、本稿では、まず、高等教育の質の保証のあり方について示された大学審議会の提言や意見を簡単に見ていく。次いで、高等教育の質の保証にとって有効と一般に見倣されてきた幾つかの保証装置について概観した後、その中でも特に、今後その重要性が増していくと考えられる「学生の学習成果のアセスメント」の問題に照準を当て、その特質の検討を行う。  なお、本稿において、意見に亘る部分は、全て筆者の個人的見解であることを予めお断りしておきたい。 1.大学審議会の諸答申に見る高等教育の質的保証  高等教育の改善方策については、すでに1971年6月の中央教育審議会答申や、1984年6月の大学設置審議会・大学設置計画分科会「昭和61年度以降の高等教育の計画的整備について(報告)」などにおいて幾つかの見解が示されたほか、1984年8月に設置された臨時教育審議会も、大学設置基準の改正問題を中心に様々な提言を行った。しかしながら、高等教育の質の保証の問題が自覚的に追求され、その論議が「教育評価」の問題へと次第に発展・展開していく様相を呈していったのは、18歳人口急減期における「高等教育のあり方」を視野に収めながら、高等教育全体の制度改正の方向を審議してきた大学審議会においてであった。そこで、本章では、大学審議会がこれまでに示した、大学教育の質の保証の問題に関する諸種の考え方を瞥見し問題の所在の確認を行うこととする。  大学審議会の諸答申の中で、大学教育の質の保証の問題について、最初に具体的提言を行ったのは、1991年2月の「大学教育の改善について(答申)」であった。周知のように、そこでは、大学全体の質の向上を図ることを目的に、自己点検・評価やアクレディテーション・システムの導入に関わる提言がなされた。また、大学教育固有の質の充実方策としてFD(ファカルティ・ディベロップメント)の実施やシラバスの作成・公表の必要性、単位制の運用面での改善を含む「学生の学習を適切に評価」するための方途の確立の必要性、などの点について指摘がなされた。特に単位制の問題については、「大学の単位制度は、学生がいかなる授業科目を選択しようとも、授業時間数を基礎に算出した単位が同じであれば、学習内容・成果も同程度に評価」されねばならないとの認識に基づき、学生がその教育に相応しい内容を修得したかどうかを大学の責任ある判断で認定することの重要性が強調された。そして、これらの指摘を基礎に、「大学の自己点検・評価項目(例)」中に、「各授業科目ごとの授業計画(シラバス)の作成状況」、「教授方法の工夫・研究のための取り組み」、「教員の教育活動に対する評価の工夫(学生による授業評価等)」、「成績評価、単位認定の在り方・基準」を掲げ、各大学に対し、自己点検・評価を行うにあたりこうした諸点に留意するよう要請した。  1993年度から2000年度までの高等教育整備の方向性について提言した1991年5月の大学審議会「平成5年度以降の高等教育の計画的整備について(答申)」も、大学教育の質的充実の問題について、上記の1991年2月の大学審議会答申の趣旨に則り、各大学等が、学生の学習の充実のため、組織的・体系的に教育機能の充実・強化に努めるべきこと、学生の学習の適切な評価に意を払うべきこと、などを強調した。  また、2000年度から2004年度までを対象期間として高等教育整備の方向性を示した1997年1月の大学審議会「平成12年度以降の高等教育の将来構想について(答申)」は、高等教育の質の保証の問題について、これまで以上に踏み込んだ提言を行った。すなわちそこでは、a.高等教育の普及に伴う学生の能力・適正の多様化に伴い、高等教育の質の向上が一層重要な課題となっていること、b.高等教育の「質」の捉え方として、入学する学生の質、入学後の教育の質、卒業する学生の能力水準、研究水準などが想定されること、特に、卒業生の質の確保にあたっては、卒業認定の厳格化が求められること、c.高等教育の「質」のあり方についてはこれを一律に考えるべきでなく、各高等教育機関がその各々の「理念・目標」に基づき、それぞれに質的向上に努める必要があること、d.大学審議会として、高等教育機関における教育研究の評価のあり方についてさらに検討していく必要があること、などの点が明らかにされた。  そしてさらに、1997年12月の大学審議会「高等教育の一層の改善について(答申)」は、国民の高等教育需要の高まりや18歳人口の減少等の要因に基づく学生の多様化や卒後の進路の多様化なども踏まえ、大学教育の質の保証問題について、「教育評価」のあり方等も視野に収めながら、次のような具体的な提言を行った。すなわちそこでは、a.各大学等における教育活動の評価は、当該大学の教育目標の達成度や学生の学習効果の把握、当該大学の教育機能の充実に向けた方策の検討等のために重要な役割を果たすこと、b.教育活動の評価は、各大学等の「理念・目標」に応じ、「大学等の組織としての教育活動の評価」と「個々の教員の教育活動の評価」の両面から行われるべきこと、c.大学等の組織としての教育活動の改善を図る上で、卒業生やその属する職場からの評価並びに社会からの評価などが効果的で、個々の教員の教育活動の改善を図る上で、各教員自身による評価のほか、学生による授業評価や同僚教員による授業評価などが効果的であること、d.各大学が実際に教育活動の評価を行う際には、その「理念・目標」をいかに実現するかという観点から、各大学等の判断により、「大学等の組織としての教育活動の評価」と「個々の教員の教育活動の評価」の両面に亘り、適切な項目が設定されるべきこと、e.教育活動に対する評価結果を教育改善に適切に結びつけていくため、評価結果の個々の教員へのフィードバック・システムや個々の教員による改善への取り組みを大学等が組織的に支援する体制を整備するとともに、評価結果を学生や社会に積極的に発信し、その意見を汲み取る中で教育活動や教育評価方法の一層の改善を図っていくべきこと、f.大学等における教育研究の質の一層の向上のためには、「大学にふさわしい客観的評価システム」の確立が不可欠で、今後さらに、大学審議会として、その評価手法や考え方等について検討を進めること、等の諸点が明らかにされた。  このように、大学審議会は、自己点検・評価を基軸とする大学評価システムの構築の方途を模索していく中で、一貫して、教育活動に対する評価の重要性を指摘してきた。特に、1997年1月の「平成12年度以降の高等教育の将来構想について(答申)」と、それに続く同年12月の「高等教育の一層の改善について(答申)」は、18歳人口急減に伴う「一層厳しい競争的な環境」の中で、各大学が多様な資質・能力の学生に対し有為に教育活動を展開していく上で、大学が組織的に「教育評価」に取り組んでいくことが不可欠であるとの認識を示した。  ただここで若干気にかかるのは、こうした大学審議会答申が、教育研究に関わる高等教育機関相互の役割分担の必要性を暗黙裡に認める中で、教育評価の有為性の指摘を行ったというようにも読みとれる点である。1997年12月の前記・大学審議会答申は、高等教育への広範な要請に対しては、「高等教育全体を一つのシステム」として捉えた上で、そうした要請に応えていくという視点が必要であること、各大学がその理念・目標を明らかにしていく中で、教育研究分野の特質に応じ、大学院など他の高等教育機関との関係に配慮しつつ、高等教育全体の中での当該大学の位置づけを明確する必要があること、こうした大学の「在り方」として、「研究指向の大学」、「専門的な職業能力の養成に力点を置く大学」、「総合的な教養教育の提供を重視する大学」、「地域社会への生涯学習機関の提供に力を注ぐ大学」などのものが考えられること、等の点を明らかにした。こうした記述を見る限り、答申は、「教育評価」に対するスタンスやその活動への努力の傾注度に、大学の類型に応じ、各大学毎に自ら差異が生じることを肯定しつつ、「教育評価」の継続的実施が、結果として、それぞれの大学の種類・性格の固定化につながることを容認しているようにも見受けられる。  もとより上記答申の主眼は、高等教育を取り巻く厳しい環境を背景に、各大学自らが確立した理念・目標に沿って、組織を編成し活動を展開していく上で、教育評価が重要であることの指摘をしたもので、それ自体、大学の種別化を意図したものではないことは理解できる。しかしながら、今後のわが国の「高等教育システム」とそれを構成する各高等教育機関固有の教育研究のあり方が、「教育評価」の問題と密接に運動させながら論じられるとき、教育内容・方法の改善・向上を最終目標とする「教育評価」の本来の価値が歪曲され、それがわが国大学の「種別化→序列化」を固定化させる方向で作用しかねないことが、ここでは危惧されるのである。 2.大学教育の質の保証装置としての「学生の学習成果のアセスメント」  大学における「教育」は、広義には、公的な社会的組織体である大学によって営まれる「高度の高等教育」全体が含まれるものと考えられるが、ここでは、さしあたり、カリキュラムの編成・展開とそれに直接的責任を担う教員による学生への教育指導のあり方に焦点を絞って、この問題を考えていきたい。  わが国において、大学教育の質の保証をするための有効手段として、その自覚すると否とにかかわらず、従来より多くの人々によって認識されてきたものが、文部省認可にかかる学生(収容)定員の存在を前提とした厳格な能力判定に基づく「入学者選抜試験」であった。しかしながら、18歳人口の減少を背景とした、大学への実入学者の継続的漸減とそれに伴うわが国大学全体の学生収容力が急速に上昇していくことが不可避となる状況の下で、相対的に見て、厳格な入学者選抜を通じ大学教育の質を確保していくことが次第に困難になりつつある。  これにかわって、今日、大学が組織的に自己点検・評価活動を推進していく中で、あるいは、学内の教育研究上の基本組織を中心に従来のカリキュラムの見直しを図っていく中で、その大学・学部・学科等における教育内容・方法を検証し教育の質を確保しようとする動きが急速に顕在化しつつある。それは、一種の「教育評価」活動と言ってよいであろう。すでに見てきたように、1997年12月の大学審議会答申は教育活動に対する評価を、「大学等の組織」と「個々の教員」からの二つの側面から捉えようとした。  これを見方をかえて、「教員が営む教育活動そのものに対する評価」と「学生の学習成果の検証を通して行う教育活動の評価」という視点から、教育評価の問題を考えることも可能であろう。ここでは、18歳人口急減期に突入したわが国大学が多様な資質・能力の学生を受け入れていくことが余儀なくされていく中で、各大学に、適切な内容・レベルの高等教育を展開していくという社会的責任が増大し、学生の学習成果の検証を通じて教育の内容・方法の改善を図ることがこれからの高等教育界の大きな課題となるという仮説のもとに、上記の区分に基づいて、この問題を考えていくこととする。  大学における「教育評価」の中の「教員が営む教育活動そのものに対する評価」の範疇には、シラバスの作成・公表とこのシラバスを前提とした学生による授業評価、同僚教員による授業参観を通じた評価、卒業生を含む社会からの評価、上記の営みを広く包含した形で進められる教員団による教育内容・方法の改善へ向けた組織的取り組み、などが含まれる。一方、「学生の学習成果の検証を通して行う教育活動の評価」の範疇に含まれるものの例としては、授業への学生の対応やレポート・試験等によって行う単位認定などを通じた評価、入学時と在学時それに卒業時における学生の学力の比較検証、卒業生の進路動向の検証、といったものを挙げることができる。  ところで、「評価の先進国」とも言われるアメリカで、今日、脚光を浴びつつある大学評価の手法の一つに、「学生の学習成果のアセスメント」がある。この評価手法は、アメリカに存在するアクレディテーション団体の中で最も長い伝統と広大な管轄区域を持つ北中部地区基準協会(North Central Association of College and Schools、以下、NCAと略称する)が、その加盟各大学に対し実施を強力に求めているもので、いまやその動きは、NCA管轄区域にとどまらず他の全米の大学にも大きな影響を及ぼしつつある。次にその評価手法の既要を簡単に紹介する。  アメリカのアクレディテーション・プロセスにおいては、アクレディテーションを受けようとする大学は、自身の掲げる目的・教育目標の実現に向けて充分に組織化された人的、財的、物的資源を有効に活用していることを証明することが必要とされている。特にNCAは、アクレディテーションの核心をなすのは「大学の有効性(overall institutional effectiveness)」の評価に関する部分であるとの立場にたって、1989年10月に発した同協会の政策声明以来、「教育目標の到達状況をアセスメントするという営為」の実行を通じ、大学の掲げる目的・目標の到達状況の証明を加盟各大学に対して求めてきた。そして、1996年2月に新たに発せられた「学生の学習成果のアセスメント」に関する政策声明は、学内的にそうしたアセスメント・プログラムが確立されそれが効果的に運用されていることを以て、NCAが保持する五つのアクレディテーション基準中の二つの基準、すなわち「大学は、その掲げる教育上の目的とその他の目的の遂行途上にあること」(基準3)、「大学は、その掲げる目的の実現に向け、また教育上の有効性を高めるため、恒常的に活動すべきこと」(基準4)の両基準を充たしていることの基本的指標とする旨公言した。  NCAが、大学評価活動との関連において、各大学に実施を求めたこの「学生の学習成果のアセスメント」には、次のような特徴が認められる。  第一は、大学は自身の掲げる目的・教育目標の実現に向け組織を編成し活動をしていくべきであるとの前提の下、それぞれの大学はその目的・教育目標への到達状況を明らかにする上で、必要かつ充分なアセスメント・プログラムの開発・確立が求められるとする点である。換言すれば、そこでは、各大学はその掲げる「目的」等の違いに応じ、それぞれ固有のアセスメント・プログラムを確立し、多様な手段を駆使しながら具体的なアセスメントを行うことの重要性が指摘されているのである。  第二は、こうしたアセスメント・プログラムの中では、必ず、大学が学生に期待する「学習目標」の明確化が図られることが必要とされるとともに、そのプログラムそのものが、学生の学習活動の実体を明らかにするようなデータ収集を可能ならしめ、そのデータの分析を通して得られた結果が、学生の学習活動の一層の改善に資するようなものとして考案される必要があるとする点である。  第三は、学習成果を「アセスメント」するという営為は、その営為の「成就」自体が目標とされるべきでなく、その大学の掲げる「目的」等の達成状況を評価する上で必要な情報を集めるための「有効手段」として位置づけられるべきであるとする点である。すなわち、ここに言う「アセスメント」とは、学生の学習目標の到達度を含む学習活動全体の現状把握に必要なデータ収集を主たる活動とするもので、こうした「アセスメント」を通じて得られたデータや情報を基礎に、当該大学における教育活動の「評価」がなされ、将来に亘る改善方策が提示されることになるとされるのである。この点について、前述の1989年10月のNCA政策声明は、「卓越したアセスメントとは、大学が自らの改善に直接つながる決定を行い具体的な改善方策を立てる上で必要な情報を提供することのできるものである」で述べている。  第四は、「学生の学習成果のアセスメント」の目的が、教員の教授法の改善と学生の学習成果を一層高めることにあり、こうしたアセスメントこそが、「大学の有効性」の評価の中でも最も基本をなすとする点である。NCAは、大学が社会に対して負う責任の中でも、学生の資質・能力の向上のための教育的配慮を行うことが最も大切であるとの立場から、学生の学習成果をアセスメントする営為を各大学が実行することを以て、こうした社会へのアカンタビリティが履行され、高等教育の本質的価値を社会一般の人々に再認識させる契機とすることができると説くのである。 3.「学生の学習成果のアセスメント」の意義   ――むすびにかえて――  18歳人口の急減に伴う大学等の学生収容力が次第に上昇していくことが必至の状況の下、高等教育の量的規制による質の確保という文教政策が今後とも継続されると否とにかかわらず、そうした政策そのものが次第に有効性を失っていくことが予想されている。こうしたことから、わが国においても、量的規制を中心とする従来の文教政策にかわりうるような大学の質的保証装置の確立・運用が急がれることになろう。殊に、予想される学生の資質・能力の多様化に対応させ、それぞれの大学は、適切な水準・内容の教育を、受け入れ学生に提供するという使命の完遂に向け、自身の教育活動を恒常的に点検・評価し、教育内容・方法の改善・充実を図っていくことが今後一層求められることとなろう。  大学における教育内容・方法の改善の方途としては、今日、FDをはじめとする幾つかの方法の有効性が指摘されている。しかしながら、それぞれの大学における教育活動はその各々の目指す目的・教育目標の実現に向けて進められるものである以上、こうした目的・目標への学生の学習到達度の測定こそが、その大学の「高等教育機関」としての有効性や充実度を検証する上で重要な鍵となるものと思われる。そうした意味から、先に紹介した「学生の学習成果のアセスメント」の普及を目指すNCAの試みは、注目に値するものと言える。  もとより、大学審議会の諸答申においても、このことは「学習成果の評価」の問題として再三に亘って論じられてきてはいる。しかし、注意を要するのは、そこでは、「学習成果の評価」が、主として、単位認定や卒業認定の厳格化を図る中で在学時や卒業時における学生の学力を相当程度の水準に保つことを通じ、当該大学における教育の質を確保するという視点からこの問題が論じられているということである。これに対して、NCAの提唱する「学習成果のアセスメント」は、各大学の掲げる目的・教育目標に学生がその「学習活動」を通じてどの程度近づいたかをアセスメントし、その結果を基礎に、教育内容・方法の評価を行い改善方策を模索する、場合によっては目的・教育目標そのものに再検討を加えること、をその内容としている。すなわち、そこでは、学生の学力の向上度を検証すること以上に、その検証結果をもとに、当該大学の教育内容・方法の改善を図ることがより重視される、換言すれば、「学生の学習成果のアセスメント」は、そこで得られた情報を基礎に、教育内容・方法の改善を図ることを通じ、当該大学の教育の質の確保を目指そうとしているのである。そうした観点から鑑みれば、それは、わが国大学に急速に普及しつつあるFDと、教育内容・方法の改善を指向するという点で共通性が見出せるのみならず、アセスメントの結果得られたデータや情報の効果的な活用を通じ、FDそのものの活動上の有効性もさらに高められていくであろう。  こうした意味から、今日の厳しい競争環境下においてなお、各大学が、学術研究の発展に貢献し、多数の有為な人材を育成するという責任を果たしうるような有効な質の保証装置を構想する上で、今後、「学生の学習成果のアセスメント」への認識がわが国においても次第に高められていくものと思われる。 理学部と農学部の融合学部の現状 高畑 育雄(島根大学生物資源科学部生物科学科)  我々の島根大学は、激しくなる一方の大学改革の中で、まさしく先陣をきった形で3年前既存の2学部を解体して新学部を発足させました。3年前の新学部発足の時の混乱を今になって振り返ってみても、急激な変化に我々が正しく大学のあるべき姿を模索できたかどうか疑問の残るところであります。それを正しく評価できるのはおそらく10年以上の歳月を要すると思われますが、我々の意識の中にはこれまでの経過をふまえて、正しい評価が出る前に新たな改革が押し寄せてくるのではないかとの危惧感があります。このような急激な改革の状況下にあっては、改革そのものが適当なその場しのぎのものになったりある方向に誘導されたりしかねません。ともあれ、島根大学にあっては、理学部と農学部を解体し、新たに総合理工学部と生物資源科学部を発足させました。どちらの学部にあってもこれまでの学問体系ないしは教育理念・学部理念を大きく変えざるを得ない改革であったと言えます。私の所属する理学部生物学科は新たに生物資源科学部生物科学科に衣替えをしました。我々は理学部時代の理念の変更を最小限に押さえようと努力はしましたが、学部学科の単なる名称ではすまされない状況が我々を取り囲んでおります。これは単に生物科学科のみならず、他学科についても同じ事が言えると思われます。私の所属する生物資源科学部は、理学部生物学科と農学部の大部分が融合した新しい構想の学部で、生物・生命・生産・生活を意味する「ライフ」を総合的に科学する学部として発足しました。  その新たな理念は、基礎となる生物学を深化し、バイオテクノロジー、環境の保全と修復、そして持続的生産体系などの新しい科学技術の発展を図り、それらを農林漁業及び新しい生物産業などへ応用することによって、豊かで心地よい地域社会の創設に貢献することとなっています。建前的にはこの様な理念の上にたってそれぞれの学科の理念ができ、それによって各学科の教育理念を作り上げてきたことになります。  カリキュラムもそのような枠組みの中で考えざるを得なかったことも否定できません。このような教育体制の中で、3年目を迎えた現時点での状況と問題点等について考えてみます。 融合学部での生物科学科の現状  工科系学部として誕生した生物資源科学部は新しい学部名称ではありますが、農学系学部の生物資源学部と混同されがちである。農学系学部では、かなりの分野で基礎教育として充実した生物学教育が必要であり、本学部においても、農学教育の基礎教育の一つとしての生物学教育を期待する向きが無いとはいえない。しかし、島根大学の生物資源科学部にある生物科学科における生物学教育は、応用に対する基礎として位置づけられているわけではありません。確かに、カリキュラム上、基礎教育に相当する授業もありますが、現在のところそれは生物教育における基礎教育に他ならず、教える側のスタンスは、自然科学の基礎としての生物学という立場をとっています。生物資源科学部を農科系学部ととらえれば、このことは少し奇妙に感じられるかもしれない。しかし、新学部を発足させた目的は、これまでの理学部・農学部と縁を切り、新しく生命・環境を研究・教育する学部を作ることであり、このような学部の中で、生物科学科は、自然科学としての生物科学を教育・研究することを分担することになったという経緯があります。したがって、現在のところ生物科学科の生物学教育は、生物学ないしは生物科学のための生物学教育のみを行っている。 今後の課題  上に述べた様な状況にあって、教育上の大きな課題は、新学部の理念がどのように実行されるかであると思われる。新学部発足へ向けてのうたい文句の中の1つに農学系学科と理学系学科の「融合」学部という言葉がたびたび登場してきましたが、この「融合」が教育理念の上で具体的にどのようになされたであろうか。教育上、確かに新学部になってカリキュラムの上では大きく変化したが、はたして融合的な教育がなされているかと言えば、必ずしもそうとは言えない。むしろ、各学科・講座とも学科・講座内での変化にとどまっているにすぎないように見える。確かに、先に述べた新学部発足時の経緯から考えるとむしろ当然の結果とも思えるし、学問上そうせざるを得ない点もあるだろう。また融合の必要性に関しても現段階ではさほど感じられないのも事実である。むしろ、性急な無理な融合は今後に禍根を残すことになりかねない。  しかし、一昨年から科研費申請の所属学部・学系・研究所等番号欄に生物資源科学の名称が加わったように、新しい学部としての顔を早急に作りだしていかなければならないことも事実である。我々が生物資源科学部という学部体系の器作りを先導したわけだから、それに入る内容についても我々によって新しく作り出さなくてはならない。このままでは、単に異なる学科の集合体学部ないしは農学部に生物学科がくっついただけとしか認識されなくなってしまうのではなかろうか。外に対して積極的にアピールをし、内においてもカリキュラム上等で各学科に互いに利益をもたらすような融合的なものを作ってゆく努力が必要と思われる。  一方、入ってくる学生はこの新学部ないしはそこに含まれる学科をどの様に見ているのであろうか。旧理学部の生物学科と旧農学部の大部分が融合してできた生物資源科学部が発足して3年が経過し、生物科学科に関して言えば、現在1・2・3年生が新学部生物科学科の学生で4年生が理学部生物学科の学生で構成されている。学生の違いが1・2・3年生と4年生ならびに理学研究科の学生との間であるかないかはまだはっきりとはわからないが、我々教官の意識の変化に比べて明らかに変わってきていることは事実である。我々教官が学部学科名称を形式的にしか捉えていないのに比べ、入学してくる学生は生物資源科学部生物科学科を我々以上に意識的に選択してきているのである。理学部生物学科の学生ではないのである。我々はその変化にそれほど直面していないが、おそらく来年以降新学部生が卒業研究に入ってくると肌で感じるようになるのではなかろうか。これは旧農学部の他学科についても同様であろう。このことが良いか悪いかの問題ではなく、新学部発足の建前論からすれば当然の成り行きであろう。受験生にとってみれば、農学部、生物資源学部、生物資源科学部、理学部といった学部の違いを正確に把握することは難しいかもしれない。生物資源科学部を作った我々にしてみても、この新学部を正確に認識するのは難しく、各人によって大きく異なっているのが実状である。いわんや社会的にはまだ認知されていない学部ではなかろうか。例えば受験生と関わりの強い高等学校の先生や受験産業において、学部分類の中で生物資源科学部というジャンルはまだ確立されていないようである。そのような状況の中では、我々が新学部新学科に強い意識を持たなければその理念さえ失われかねない。新学部発足当初、大学案内などの文章中に、生物資源科学部は農学部を改組したかのような表現があったり、受験雑誌において生物科学科が、農学系学科に組み入れられたりしていた。新学部ないしは新学科の理念を生かすためには、我々大学の発信する情報を常に正確なものにすることが要求されている。  学部内でのカリキュラムに関して、現在、学部内で生物科学科と他学科との間での総合乗り入れ形式はとっていない。これは、専門教育を充実していこうとすると学生数増加に伴う受講生の数に問題が出てくるからである。これ以上の学生数の授業では自分達の学科の学生に対して十分な責任が持てなくなるからである。一方で、これ以上のコマ数を増やすことは、教官の最近の多忙さからすれば無理が生じることになろう。しかし、新学部の理念や入学してくる学生の意識などを考えると、今後は、学部内での融合した授業を取り入れる形を取ることが必要になってくると思われる。新学部の理念を充実させるために、どのような形で学部内で学科間を融合した授業を供給できるかが、今後の課題であろう。 新たな展開をせまられる地方国立大学の社会人教育 清水 修二(福島大学経済学部) はじめに  福島大学には行政社会学部と経済学部に夜間主コースがあり、それぞれ定員30人の社会人特別選抜の枠を設けている。夜間主コースは授業の終了が9時10分になるので担当教員の負担が小さくなく、組合が「夜間主手当」の支給を要求に掲げていることは周知の通りである。しかし私は、演習については自分から望んで夜間主授業の担当を続けている。夜間主コースの授業は社会人と非社会人との混合で、社会人の中には私と年齢の違わない学生がいたりするし、彼らは職種もさまざまで豊富な社会経験をもっている。そのような学生をまじえて討論をするのが大変楽しいのである。大学院においても全く同じである。  社会人学生は勉強する時間が大幅に制約されているので、一時を惜しむ気持ちで大学にやってくる。その緊張感が周囲の一般学生にもいい影響を与える。しかし仕事との両立は時にきわめて困難で、昨年度だけで私の演習の社会人学生が3人ドロップアウトした。「仕事との両立困難」と言ってしまえばそれまでだが、大学の側にそうした困難に対処する十分な条件が必ずしも整っていないという側面があることも否定できない。  生涯教育は高齢化段階に入った日本社会のキーワードの一つになっているが、その「現場」の一つである地方国立大学の社会人教育には多くの困難な課題がある。福島大学の現状を中心にしてそのへんを論じてみたい。 1、生き残り戦略としての生涯教育  政府・文部省は財政構造改革を主動力とする教育改革の一環として、高等教育の大規模な再編成を進めている。「理工系学部のない地方国立大学」である福島大学のような所はなかでも最も弱い立場に置かれており、目下「生き残り」のための奮闘努力に明け暮れている。生き残りの成否を握るキー・ポイントが独自性=アイデンティティの確立という点であって、先端的研究、職業人教育、生涯学習、地域社会貢献といったジャンルの中でどれを自分の大学の売り物にするかを、各大学は否応なしに問われていると言える。いわば格付け会社の評価に戦々恐々とする金融機関のような心理で、各大学が自分自身を格付けすることを迫られている恰好だ。せっかくの生涯教育の充実もこのような受け身の対応から唱えられるのであっては不幸である。  しかし社会人教育はべつに「格の低い」教育ではない。上述のように、私にとっては社会人をまじえた授業は、むしろ充実感あふれるハイレベルの教育環境をもたらしてくれるものである。問題は社会人教育に比重を置いた大学が行政的・財政的に「低い格付け」で扱われる場合であって、そういうことさえなければ、極端な話、個別大学が社会人教育に特化・純化するのも悪いことではないと考えている。  生涯学習としての高等教育には、リカレント教育とリフレッシュ教育の二種類があると言われている。リカレント教育は「社会人が必要に応じて家庭や職場からもう一度学習の場にもどり、生涯にわたって繰り返し学習するシステム」を指し、リフレッシュ教育のほうは「大学院などの高等教育機関が職業人を対象に職業上の知識や技術のリフレッシュや新たな修得のためにおこなう教育」であるとされる。両者は必ずしも常にはっきり区別できるものではないと思われる。いわゆる主婦が教養を高めるために学部に入学するようなのが前者の典型で、現役の学校教員が休職して大学院教育学研究科に入るといったケースが後者の典型になるのだろう。  子どもの数が減り、このままではやがて大学が「希望者全員入学」の段階を迎えるかもしれないと言われているが、そうなってしまっては高等教育の名がすたる。大学の数を減らすか、さもなければ新規高卒学生の入学定員を絞り込んで社会人入学枠を拡大する、あるいは大学院を拡大して新たな段階の高等教育へと展開するかしかない。そして地方国立大学にあっては後者の大学院拡充も、その主たるマーケットはやっぱり社会人である。 2、福島大学の社会人教育  生涯教育のカテゴリーに入りそうな教育活動を福島大学について紹介してみよう。教育学部にあっては、現職教員やPTAを対象とした「教育講座」(いわゆる出前講座)、現職教員のための「教育相談研修講座」、そして上級免許取得をめざす教員への「認定講習」が行われている。また大学院教育学研究科は現職教員入学枠(定員11名)を設けており、これには県教育委員会から定員の2倍程度の教員の推薦があって選抜を行う。入学者は2年間の長期研修を大学で行うことになる。  行政社会学部は、冒頭に触れたとおり夜間主コースに定員30名の社会人特別選抜枠を用意している。大学院地域政策科学研究科にも定員の半数(6名)の社会人特別選抜枠がある。経済学部もだいたい同様だが、大学院における社会人特別選抜が「若干名」となっているほか、修士再履修の入学枠の設けてある点が特異である。修士再履修というのは、社会科学系の大学院ですでに修士号を取得している者ないしその予定の者を、面接試験だけで選抜する制度である。対象者は社会人とは限らないが、現実には有職者が多くなる。  これらのほか、福島大学生涯学習教育研究センターが独自に行っている市民向け公開講座・公開講演会もある。 3、狭隘化するマーケットの問題  行政社会学部と経済学部の夜間主コースにおける社会人教育の現状を取りあげよう。経済学部が短期大学部の改組により夜間主コースを設けてからすでに20年の月日が経過した。1988年には行政社会学部が新設となり、夜間主コースは定員を両学部で2分割することとなる。この間に多数の卒業生を出し、生涯教育と地域社会貢献において果たした役割は高く評価されていいだろう。  しかし両学部とも、社会人教育の現在かかえている最も大きな問題は定員充足の困難である。特に経済学部において連年定員割れの事態が続いている。定員割れの生じる理由はいくつか考えられている。  第1はマーケットそのものの狭隘化である。勤務条件からして大学在籍の比較的容易な職種は公務員である。現に両学部の社会人入学者の大きな割合を公務員が占めてきた。しかし県庁を初めとして、市町村においても公務員の高学歴化がすすみ、高卒公務員というマーケットが小さくなってきた。地方公務員養成に一つの力点を置く行政社会学部の発足したことが、他方における経済学部夜間主コースの地盤沈下の一因となっているといった関係もある。  第2に考えられるのは昨今の経済情勢である。長引く不況で、社員の大学入学を支援する余裕が民間企業に乏しくなっている。官公庁も、このところの行政改革で定員が削減され、コンピュータ導入への対応という面もあって職場の多忙化がすすんでいる。夜9時10分に授業が終わってから再び職場に戻る県庁職員の学生もいるのである。同じ職場の仲間が残業にいそしむ姿を横目にしながら、職場を離れて大学に向かうのは相当に心理的抵抗があるようだ。  第3には通学条件の問題がある。これはかなり大きい。福島大学は20年ほど前に福島市の中心市街地から約8キロ離れた郊外に統合移転した。緑あふれる環境で、たまにはクマも出没するくらい牧歌的な土地柄だが、夜間の通学にはまことに不便である。社会人は自家用車でなければ通学できない。その点でもマーケットが限定されている。  第4に、PR不足が指摘されている。学力試験なしで入学が可能な社会人特別選抜の存在することをどうやって知ったかを社会人学生に尋ねてみると、同じ職場の同僚から聞いたという場合とマスコミを通じて知ったという場合が多い。まだまだ偶然の要素が大きいようである。経済学部は昨年、「社会人大募集!」のポスターを作製して宣伝に打って出、その成果があってか志願者の増加を見た。  ほかにもあるが、主要な問題はまずこんなところである。PRを除けば、いずれも大学としては今さら如何ともしがたい事情であるともいえる。ただ、そうでもないのは入学してからの学習の面である。本来重視しなければならないのはこちらのほうだ。 4、社会人のカリキュラム問題  夜間主コースは、学習水準の面で昼間主コースに「引けをとらない」ことがこれまでは強調されてきた。要卒単位が若干少ないのは、社会人の勉学条件と授業時間割上の制約から余儀なくされた事情だと説明されている。そうして夜間主コースの定員の半分は入試センター試験をくぐってきた一般学生であり、社会人も一般学生と同じカリキュラムで「系統的な学習」をすることになっている。  経済学部の場合は、2学年から3学年への進級のさいに一定数の単位取得を義務づけている。語学や体育、そして共通専門科目のいくつかをクリアしないと進級できないしくみになっているのである。これは無秩序な「単位の乱どり」をさせないための制度なのだが、これが社人会学生の一部にとっては大きな負担になっていることは否定できない。  「負担」という場合に二通りの意味合いがある。第1は「40歳すぎてからの外国語」といった意味での学習の負担である。第2は「いまさらこういうことを勉強したいとは思わないのに」という意味での負担である。いいかえれば、キャリア社会人が高卒直後の学生と同じ共通教育科目を学ぶといったときの、学習ニーズと学習内容との間のギャップの存在である。こうした事情があるときに、上記の「進級バー」が社人会学生にとってきわめて高い障害になることは理解できる。  一口に社会人とはいっても、高校を卒業してから1年ばかりしかたっていない若者もいれば、定年退職後の熟年の人もいる。つまり社会人学生はじつに多様性に富んでいる。この社会人学生の内部にある多様性に、単一のカリキュラムで対応するのはただでさえ大変なことである。まして、非社会人の一般学生と社会人学生に同一のカリキュラム体系を適用し、同じように卒業することを求めることには当然無理がともなう。福島大学では英語の授業に特別なクラスを設けるとかの措置をとる一方、各教員の個別の指導のレベルでもさまざまな工夫がなされているが、社会人向けの独自のカリキュラムを組むところまでは踏み込んでいない。夜間主コースを卒業した社会人が「行ってみてほんとうに良かった」と異口同音に評価してくれれば、職場の後輩が続々とあとに続くといった光景が期待できるのだが、なかなかそう自画自賛もできないのが現実である。 5、社会人教育の将来展望  社会人教育を充実させていく上での最大の検討課題は上述のような教育内容の問題である。一般学生と社会人をコミにした授業形態の有効性は小さくないとはいえ、社会人の多様性や特殊性を無視してただ一緒にやればいいというものではない。しかしここで無視できないのが教員の負担増である。一般教育の全学とりくみ体制や大学院の拡充といった事情のもとで、社会人独自の教育に割けるエネルギーにも限りがある。また、個別の学部でそうした課題に十分こたえることができるかどうかも問題で、社会人学生の絶対数が多くない地方大学で「規模の経済」を追求するためには学部間協力の体制を組むことも必要だ。福島大学ではこれまで部局別に行われてきた社会人教育活動の一元化と、3学部を横断した「生涯学習コース」のアイディアが提起されている。  殿様商売では先の見通しは立たない。新たな生涯教育の要求に答えるためには積極的な市場開拓に打って出なければならない。夜間主だけでなく昼間主コースにも社会人特別選抜枠を設けて、高齢者や女性に門戸を開くのもその一方法である。また高学歴化の進展で学部教育へのニーズが相対的に低下している現在、大学院での社会人教育を拡大することが課題になっている。その一例として話題にのぼっているのは駅前サテライト教室を使った公務員向けの大学院コース(いってみれば公務員MBA)である。近隣の自治体職員にも通学可能な立地条件を整え、講義とグループ討論中心のリフレッシュ教育を行うのである。しかしこれは現在の地域政策科学研究科と経済学研究科とが共同で追求しないと実現できないアイディアであるし、またただでさえ多忙をきわめている職員の、業務負担増の問題もクリアしなければならない。 大学の学費と政府の役割 井上 博夫(岩手大学人文社会科学部)  1970年代以降、国立大学の学費は年々引き上げられ、それに伴うようにして私立大学の学費も上昇を続けてきた。それにもかかわらず、大学における学費とはいったい何に対する費用負担であり、どの程度の負担が適正なのか、政府はこれまで十分な説明を行ってきたとは思われない。そこで本稿では、大学の学費について経済学の視点から考察を試みるとともに、政府が果たすべき役割について検討したい。 1.大学教育と学費の経済的意味  学費とは何かを考えるにあたって、まず大学教育に対する需要とは何かについて見当をつけておく必要があろう。大学教育を経済学的に見た場合、2つのとらえ方があるように思われる。一つは、消費の対象という見方である。つまり学生は効用の極大化を求める消費者として行動し、教育サービスを需要するというものである。いわばコンサートや映画のチケットを買って、これらを楽しむのと同様のサービス消費ととらえる見方である。この場合、学費はサービス消費に対する対価と考えられ、したがって教育にかかる費用は原則として消費者である学生が負担すべきということにもなりうる。しかし、これはどうも現実を十分に説明する議論とは思われない。需要者である学生は、現在時点における効用というよりも、むしろ将来の進路や就職といったことを意識して大学教育を選択する場合が多いと考えられるし、社会の方も大学教育に対して、高度な能力を有する労働力の養成と学問の発展や科学技術の進歩を通じて、社会にその成果が還元されることを期待しているのではなかろうか。  そこで、教育は「人的投資」であるという第二の見方が出てくる。教育は将来便益の増大を目指した現在の投資というわけである。では、「人的投資」の立場からは、教育に対する需要がどのように決定されることになるか。これはいたって単純である。大学に進学するか否かの選択は、学費や進学による機会費用(大学に進学しなければ得られたであろう所得)といった大学進学の費用とその便益(将来所得の増加額の現在価値)を比較して、便益の方が大きければ大学に進学するというものである。投資収益の現在価値を費用と等しくさせる割引率を「内部収益率」と呼ぶが、教育という「投資」もこの「内部収益率」の大小によって決定されるというわけである。  1971年の中教審答申においても、一種の「教育投資論」の観点から「受益者負担の実際額は・・・個人経済的には有利な投資とみなしうる限度内で適当な金額とすべき」として、授業料の値上げが主張された。以後、年々の学費値上げはとどまるところを知らず、この間「内部収益率」は低下を続け、現在では、大学進学が「個人経済的に有利な投資」と見なせるかどうかも怪しくなるに至っているのである。  ところで大学教育の機能が「人的投資」であるとしても、果たしてその便益を享受するのは、教育を受ける学生だけだろうか。「人的投資」によって労働能力が高められたとすれば、便益を享受するのは、第一義的にはその労働力を雇用した企業であろう。そしてさらに、経済の発展や社会の進歩を通じてその便益は社会一般に広がる。また、大学においては教育と研究が一体として営まれており、研究の成果はもともと学生個人に帰属することを予定していない。学生個人が享受する経済的便益は、大学教育によって得られる社会的便益の一部にすぎない。すなわち企業が得た便益のうち、大卒労働者に対して支払われるかも知れない、高卒労働者の生涯賃金を上回る部分だけである。  したがって、もし大学教育に必要な費用が学生が納付する学費のみでまかなわれるとしたら、企業や社会は便益に対する費用を負担しないことになり、それは適正な費用負担のあり方とはいえないだろう。大学教育は外部効果の大きい公共財的性格を有するサービスなのであり、経済学の教えるところによれば、こうした財の場合、その供給を私的財と同様に直接的需要者が支払う価格のみに委ねては、社会的に適正な量と質での供給は確保されないことになるのである。そこで先の中教審答申でも、「個人経済的には有利な投資とみなしうる限度内で」と述べており、大学教育にかかる費用のすべてを授業料でまかなうのが適当だとは考えていなかったようである。  ところが現実には、私立大学に対する経常費補助は減額され、私立大学財政はそのほとんどが学生からの学費でまかなわれている。また国立大学の場合も、年々の学費値上げによって、今や文系学部の学費は私立大学のそれとほとんど大差ないものとなっている。これでは大学教育の質と量の両面において歪みを生じることになろう。 2.家計負担に依存した大学教育  ところでここで一つの疑問が浮かんでくる。学費がこれほどまで高くなり、「内部収益率」も低下しているのに、なぜ大学進学率ないし志願率は傾向的に上昇してきたのだろうかと。  これにはいくつかの説明がありうる。すなわち、文部省は1976年から約10年間にわたって大学入学定員の凍結という供給制限を行ったため、もともと過少供給の状況が生じていた。内部収益率が志願率に反映されるまでには一定のタイム・ラグがある。大学進学の選択は、内部収益率といった経済的要因以外の説明因子が大きな意味を持つ、等々。  今、私はこれらについて検討する準備を持ち合わせていないが、いずれにしても次のことだけは明らかだろう。内部収益率低下の主要な原因が学費の上昇であり、それはすべて家計によって支えられてきたということである。ところで日本では、学費はほとんどの場合、学生本人ではなく親が支出していると思われるので、受益と負担は直接には対応しない。つまり、大学教育の便益を得るのは子供である学生であり(受益者は学生だけでないことは既に述べたが)、その費用を負担するのは学生の親という関係になっている。ここで脳裏に浮かぶのは、「子供の将来ために、やっぱり大学には行かせてやりたい」と、無理をしても(経済性を度外視しても)学費と在学中の生活費を工面する親の姿である。常識的なようだが、機会費用を含めた教育費相当分を子供に遺産として残すのと、大学に進学させるのとどちらが有利かを比較考量する親を想定するよりは、よほど現実に近いのではないかと思われる。  そうだとすれば、日本の大学教育は親たちのけなげな思いに支えられた家計負担によって、かろうじて維持されているともいえる。 3.親の所得による進学機会の格差  だがこうした家計に依存した大学教育は、2つの面で問題を生じる。一つは、研究・教育の質の低下であり、もう一つは親の所得による進学機会の格差である。  進学機会格差について見てみよう。山崎[1996]は、所得階層によって世帯を、低所得層、中所得層、高所得層の3階級に区分したうえで、各階層の選抜度指数(第i階級の選抜度指数=第i階級の大学在学者数シェア/第i階級の大学在学該当年齢人口シェア)を求めて、所得階層別進学機会格差の推移を示し、国公立大学については、70年代後半〜80年代前半にかけて格差が拡大したが、80年代後半には格差が縮小し、80年代末以降は再び格差が拡大していると指摘した。そのうえで、選抜度指数を目的変数にした重回帰分析を行った結果、大学進学に伴う家計の負担度が増すほど、低所得層の選抜度指数が低下する関係にあることを示し、家計の負担度が大学進学機会格差の大きな規定要因になっていると主張している。  また、矢野[1993]は、80年代に生じた教育機会の平等化は、学力による入学選抜が徹底したため(80年代後半には、大学志願者数が入学者数を大幅に上回る状況が続いていた:筆者)、低所得者層の進学率が上昇し、高所得者層の進学率が減少したためであると説明し、合格率の上昇は、学力によって進学・非進学が決まるグループにとって有利になる一方、教育価格の高騰は、収入によって決まるグループにとって不利になると主張している。  両研究は、大学進学の決定が親の所得によって左右され、教育費の上昇は所得による進学機会の格差を拡大させることを示している。そして、現在その格差は拡大傾向にあるということである。どの所得階層の家に生まれたかによって、進学機会が左右されるような社会は公正な社会とはいえない。高等教育を受ける機会が国民に等しく保障されることは、社会の公平性を確保するうえで極めて重要であり、家計に過度に依存した大学教育のあり方は是正されるべきだろう。そのためには、家計が負担する教育費を抜本的に引き下げる政策を講じる必要がある。 4.低い授業料は逆進的な所得再分配か? 奨学金は有効に機能しているか?  だが学費引き下げの主張に対しては、次のような反論が予想される。第1の反論は、大学進学者の親は所得の高い階層に属する場合が多いので、国立学校特別会計への繰入や私立大学に対する補助金の増額によって授業料を引き下げることは、所得の低い層から高い層への所得移転を行うことになるというものである。これは一見正当な議論のように見える。だが、先に見たように家計の負担率が進学機会格差の重要な要因になっているとすれば、大学進学者の親の所得が高いという現状自体が、少なくともその一部は低所得者層が進学機会を奪われた結果だということになる。したがってまず行うべきは、親の所得を原因とする進学機会格差を是正することだろう。  第2の反論は、所得による進学機会格差を是正する必要は一応認めるが、それを学費の引き下げで行えば、高所得層、低所得層に関わりなくその恩恵を受けることになる。したがって、負担を高くしたうえで低所得者層にターゲットを絞った奨学金を給付する方が望ましいというものである。また、人的投資論の議論をすすめれば、教育費は将来所得の増加のために行う現在の投資なのだから、資本市場の完全性(借入資金が適正に調達できる)さえ確保されれば問題はないという論にもなろう。  確かに、奨学金が低所得者層の進学機会を保障する役割を持つことは否定できない。しかし、現在のそれが十分な機能を果たしているかどうかは疑問である。山崎[1996]の実証的研究によれば、奨学金による格差是正効果があるという結論は得られなかったとし、現行の奨学金制度に何らかの問題があると結論づけている。山崎も指摘しているように、現行の奨学金は、水準が低すぎる、貸費制である、奨学生採用の決定が大学入学後である等の理由により、進学か非進学かの決定には十分な効果を及ぼしえていないものと考えられる。 5.家計に依存した大学教育からの脱却を  以上に見たように、私学助成を含む大学関係予算の切りつめと、これに並行した学費の相次ぐ値上げによって、日本の大学教育は過度に家計に依存したものになってしまった。その弊害は、大学における研究・教育の質の確保の困難、及び所得による進学機会格差として現れている。今日の日本では、所得格差の拡大が進むとともに、雇用形態の変化によって大卒労働者の安定的雇用も脅かされつつあり、こうした家計に依存した大学教育の矛盾は一層拡大するおそれがある。大学教育が機能不全に陥らないためにも、そろそろこうした体質から脱却し、大学財政の確立を急ぐべき時ではないだろうか。 <参考文献> 鈴木典夫「経済理論と教育」,福岡教育大学紀要,第45号,1996年 田中寧「戦後日本の大学教育需要の時系列的分析ー内部収益率理論の再考察」,経済経営論叢(京都産業大学),第28巻第4号,1994年 大島和夫「公立大学の学費と公共料金」,神戸外大論叢,第35巻第6号,1985年 山崎健「所得階層別の大学進学機会格差の推移とその規定要因について」,会計検査研究,No.14,1996年 矢野眞和「わが国の教育費と家計の現状」,調査季報(国民金融公庫),第26号,1993年 この討論は、大学審議会等の動向もふまえ、中・長期的視点に立って今後の大学のあり方を検討するため今年2月に設置された「大学改革・研究プロジェクト」でおこなった「大学財政論」勉強会での報告をもとに、筆者に加筆いただいたものです。編集部 大学財政論―今後検討すべき課題との関連で― 伊藤 正直(東京大学大学院経済学研究科)  前回のプロジェクトでも大学財政問題について議論をしたので、今日は、それ以降どういう状況が進行しているのかという点と、それからここで今後検討すべき課題は何かという点、この2点について、今後の検討の素材という意味で若干の話題提供をしたいと思います。  はじめに、前回のプロジェクト、つまり、およそ3年ほど前までの状況認識がどうだったのかについて概括しておきたい。戦後新制国立大学設置以来の、政策担当側の大学財政に関わる基本的な考え方は、建前としてはほぼ一貫して機会均等論であったといえます。学生当り積算校費、教員当り積算校費、校地面積基準支出といった算出基準がそれに対応するものです。こうした機会均等論に替わる、あるいはこれに上積みをする形で、新しい高等教育財政論の理論的根拠を追求しようという動きが登場してきた、大体94〜95年ぐらいからはかなりはっきりとそういう方向にシフトし始めたのではないかということを、前回のプロジェクトのときに検討しました。  具体的にいえば、支出面では、大学間格差を一定程度是認し、格差を前提にした研究・教育費の傾斜的支出を行う。例えば、「先端」的研究、「創造」的研究とされる領域や大学院教育、国際化対応の領域などについては重点的に配分する、さらに従来の経常費支出からプロジェクト支出へ支出の重点をシフトさせる、支出にあたっての実質的決定権を従来の学部(=教授会)から大学トップに徐々にに移管するといった方向です。また、授業料その他の負担面では、従来の均等論に対して実質的受益者負担論がかなり前面に出てくる。種々のサービスを受ける学生・院生が、そのサービスのありように対応し、一定部分については直接負担すべきであるという方向がそれです。基本的には、この方向は変化していないと思われますが、それに加えて、その後2つの新しい問題が出てきました。  ひとつは、96年秋に提示された橋本6大行政改革です。その一環として教育改革が位置付けられ、科学技術政策がこれと結合されました。もうひとつは、バブル崩壊後の不況の深刻化です。特に昨年11月、北海道拓殖銀行や山一證券という都市銀行の一角と4大証券の一角が崩れる大事件以後は、不良債権の処理と景気の回復が緊急の課題となってきています。その結果、「不況脱出」と「財政再建」という2課題のトレードオフ関係が強くなってしまった。この2つの状況が、大学財政をめぐる新しい問題として追加されたと考えます。  教育改革について出されている方向は、文部省と科学技術庁を一体化し、その上に総合科学技術会議を置くというものです。総合科学技術会議は、内閣府の中に設置される。そういう組織改革を前提にして高等教育改革が位置付けられるようになった。つまり、それまでも議論されていた大学民営化論が、改めて独立行政法人化とかエージェンシー化という形で議論となり、大学財政問題もこの組織改革と連携して議論されるようになってきたということです。  後者については、長期不況の中で、経常費支出つまり人件費や積算校費などは、ゼロ・シーリングからむしろマイナス・シーリングに移っていく。また、新しい方向として科学技術基本法などで想定された17兆円の先端的・創造的・基礎的研究費支出についてすら、繰り延べが提示されるということがあります。これとの関係で、民間との費用分担、いわゆる産学協同の問題が、一歩も二歩もこれまでより踏み込んだ形で具体化されるようになっています。また、他方、不況脱出ということで従来型の公共事業費の上積みが、今度の補正予算でもいくつか出てくる。大学の基盤整備などがそうした名目で登場する。ハイテクとか、情報とか、環境とか、あるいは生命という部分について、短期的に4、5年ペースぐらいで相当集中的に金を投下して、その一環として大学への資金投下というのも考える、あるいは先送りになっていた建物・施設が突然建つことになるといった動きが出てくるのではないかと考えられます。  ですから、こうした動きが、現在の特殊な局面における一時的現象なのか、それとももう少し長いタイムスパンでみた長期的変化の現れであるのか、いいかえれば、新しい高等教育財政論とどのようにリンクしているのかいないのかが、具体的に検討されなくてはならない課題の第一ではないかと考えます。  つぎに検討すべきは、大学進学率の上昇という問題です。長く同一年齢人口の3分の1であった大学進学率が、近年また傾向的に上昇を示すようになりました。同一年齢人口の50%以上が大学に進学するようになったときに、大学における財政支出というのはどうあるべきか、これは現時点での新しい問題だといえます。  前回のプロジェクトでも、理論的に大学財政論を考えるときに、機会均等主義の当否を問う以前の問題として、わが国の大学に対する公的支出はなお最低限の水準をクリアしていない、ということが出発点としてありました。先進国の国際比較で見ても、高等教育に対する政府支出の絶対水準は極めて低いし、経常的支出の相対水準も低い。この拡充こそがまず求められる第一の点で、プロジェクト助成などはその前提が満たされた上での課題だ、という主張をしてきました。そうした主張の有効性は、現在もなお失われてはいないと考えますが、大学進学率が上昇し、同一年齢人口の過半が大学に進学するようになった時に、すべての大学を同じ課題を担う同質の大学として位置付けることができるかというところまで踏み込んで、もう1回論理的に検討し直す必要がある、そういう時期に来ているのではないかと思います。  特に、独立行政法人化とか、エージェンシー化とかの関係でいえば、8割以上の学生の教育を私立大学が担っているという現状があります。1975年の私立学校会計基準以来、しばらくの間は経常費50%助成という立場から私学助成の増額が進められてきました。国民教育の担い手としての私立大学という性格づけと、機会均等・平等論がこの私学助成の背景にあったということができます。ところが、80年代初頭の臨調・行革以降、こうした原則に基づく私学助成の基本線は崩れ始めます。経常費2分の1助成などははるかかなたに去り、助成比率はこの間持続的に低下しつづけています。私立大学まで包摂してみると、機会均等論は実態としては否定されているといわざるをえない。そうした実態を無視して、国立大学が従来型の機会均等論だけを主張しつづけることができるのかということが、改めて問われているといえましょう。  この問題を、支出論ないし負担論という観点から捉え直してみると、次のように問題を立てられると思います。まず、財政支出の水準や基準が何によって決まるのかという問題です。広い意味での社会的要請との関係で決まるのか、直接的な被教育者の要求や家計負担との関係で決まるのか。例えば、民間における熟練形成のためのOJT、OffJTの費用と大学での教育費用とを比較するといった相対水準でいくのか、あるいは社会の発展段階に見合う形で絶対枠としてこれだけ必要であるという絶対水準でいくのか、という問題があります。また、もう少し具体的レベルでは、学生基準か教職員基準かとか、一律支給か傾斜配分かとか、機関に対して資金を出すのか個人に対して資金を出すのか、といった問題もあります。そういった支出基準の見直しが現在進められていることに対して、どう答えるのかということがあります。  大学教育に関わるコストという点で、家計との関係から直接問題となるのはまずは授業料でしょう。この点は、国内的にも国際的にも、議論になっている重要な論点です。大きくは、初中等教育と高等教育の間の支出バランスをどう考えるかという問題がありますし、大学教育に限っても、学生個人に対して援助をするのか、それとも家計補助的な性格を維持するのか、という問題があります。この背景には、一方で授業料や教科書代など諸経費の負担がありつつ、他方、22〜23歳あたりまでは経済的に自立していない学生であるという構図があります。わが国では奨学金の位置付けは公私ともに低く、扶養家族手当や過渡措置として現在実施されている16歳から22歳までの学生子弟に対する基礎控除上積みの存在、などの枠組みをどう考えるかも問題となるでしょう。  大学は、教育機関であるとともに研究機関でもあります。この研究機関という面でも同じ問題がでてきます。例えば、先にちょっと述べました科学技術基本計画では、明確に先端部門・基礎部門重視、創造的領域重視といった一種の傾斜配分が提示されています。このこと自体は直ちに不適切であるということは出来ないとおもいますが、単純な「費用便益」分析では処理できない分野が、かなりの研究領域、とりわけ人文科学・社会科学の領域はいうまでもなく自然科学の領域でも存在するということが、常に留意される必要があるように思われます。また、最近の一連の戦略的な支出、例えば、COE、VBL、未来開拓研究、情報基盤整備などの場合、その受け皿となりうる機関や研究者は予め限定されざるをえなくなるでしょうし、国際的なビッグ・サイエンスの国家間の分担になれば、その限定はさらに強まることになるでしょう。大学に対する公的資金と民間資金の供給という問題が、こうした戦略的支出と絡んだ形で提示されざるをえないというのが、研究費という側面での新しい問題だとおもいます。  これと関連して、いわゆる大学の「多元化」のひとつの柱としての大学院大学化という問題があります。内容面からは、これは四六答申で出された種別化路線そのものと言っていいと思いますが、四六答申のころとは、大学進学率も大幅に高まり、ダブルスクール現象や各種専門学校の多様化も進行しているなど、大学をめぐる環境に大きな変化がありました。これが「多元化」と称されるゆえんでしょう。大学院については、これまでの一般的な大学院講座の増設という方式はエフィシェンシーが低い、非合理な側面がある、従来型の大学院講座・専攻・研究科の新増設認可という方式はもうとらない、という方向がここで明瞭に出されたわけです。もっとも、実体としては「旧7帝大」横並びという状況となっているようですが。そして、こうした大学院大学化に対応する形で、TA・RA・RF、非常勤研究員といった新しい研究者身分が登場しています。研究内容だけでなく研究組織の面でも新たなヒエラルヒーが形成される危険があります。  もうひとつ、情報機関としての大学という側面も、最近よく議論されるようになってきました。従来型の情報蓄積機関としての大学、大学図書館がその典型ですが、それだけではなく新たに情報発信機関としての大学という位置付けが、最近改めて強くなされるようになっております。これもそうした役割を、すべての大学が均等に担えるかといえば必ずしもそうとはいえないでしょう。大学間だけでなく、地域や行政あるいは民間との有機的連携と分担関係の構築といった課題が提起されてくるでしょう。  こうした状況は、大学をめぐる組織間関係の問題にも新しい検討課題を提示します。大学と中央政府・地方自治体との組織間関係は、一定の変容を遂げざるをえなくなるでしょう。第3セクター的大学も、すでにいくつか設立されています。また、大学と企業との関係も変容するでしょう。この変化は、すでに70年代後半ぐらいから端緒的に現れていましたが、80年代の臨調・行革以降非常に明確になったと思われます。委任経理金、奨学給付金、あるいは寄付講座といった資金関係の深化だけでなく、研究者の企業からの大学派遣、逆に大学から企業派遣といった人的関係の弾力化が進みました。そういう資金の問題や人の問題、技術の民間「移転」、例えば、今日お配りした資料に特許権の問題などが出ていますが、組織間関係の変容を通じて、大学がより強く社会の経済的関係に埋めこまれていく過程が進行しているのです。  もうひとつ触れておかなくてはならないのは、国際化に関わる問題です。留学生政策については、一時期喧伝された留学生10万人計画は順調には進行しなかったといっていいと思われますが、では留学生政策は不要かといえば決してそうではないでしょう。ややアナーキーに、あるいは受入大学側から言えばボランタリーに留学生を受け入れているというのが実態なわけですから、財政的な裏付けをもった留学生政策の確立は、むしろ強く要請されているといわなくてはならないでしょう。  最後に、大学財政論を運動論的な観点からどうとらえるのかという問題に簡単に触れておきたいと思います。これはなかなか難しい問題がいろいろあるのですが、今の段階での大学に対する財政支出は基本的には機関援助方式を維持しつつ、傾斜配分を次第に強化するという形で差し当たりは進行しているといっていいでしょう。傾斜配分は、一つはプロジェクト助成によって、もう一つは学内配分における権限集中と絡めて行われるようになっています。また、経常的支出に関しても、学長を中心にした集権的機能の強化、中央事務局への集中が進んでいます。財政面からの従来の部局自治のなし崩し的弱化、教授会自治論は実態としては部局自治論であったといえますが、この部局自治のなし崩し的崩壊が進行している訳です。従来の「教授会自治」をそのまま保守することがただちに善であるといえないとしても、それをどの方向で改善するのかという検討抜きのなし崩しの集権は自治主体の崩壊につながることになるでしょう。  第2は、こうした新しい大学財政論の登場は、国公私立の連携した運動の条件を逆に作り出しているのではないかという点です。国立大学、公立大学、私立大学それぞれが、あり得べき教育を追求し、ありうべき大学を見通していったときに、差異と共通の教育領域が逆にみえてくる。共通領域にについて共同して運動が組めるような道具立てなりロジックを構築することが必要です。  第3は、公務員労働者としての様々な問題です。給与、昇進・昇格、教職員身分などに関わって新しい問題が登場しています。例えば、教員に関していいますと、先に述べたTA、RAと、RF、非常勤研究員などが急増しています。職員についても、第9次定削と絡んで、今後の事務組織の再編や大学改革の中で、研究支援業務という位置付けが登場しています。しかし、この内容はきわめて曖昧なままですし、「専門職員」をどのように考えるかという問題もでています。  以上、理論、政策、運動という視点から、今後検討すべき大学財政に関わる問題について触れてきました。いくつか重要な論点が抜け落ちていると思いますが、検討素材の提供という意味で、このあたりで終えたいとおもいます。 原稿募集  全大教時報編集部では、今日、私たちの直面している「改革」問題についての原稿を募集しています。各大学・高専・大学共同利用機関の具体的な動き、とりくみなどについて、下記投稿要領によって、積極的にお寄せください。 ◇投稿要領  〇文体  自由  〇原稿  200字詰原稿用紙、横書(ワーブロの場合は、1行24字詰)。  〇字数  刷上がり本文については、以下を基準とします。   2頁 3500字 5頁 9500字   4頁 7500字 6頁 11500字  〇原稿締切り  毎奇数月10日  〇掲載  投稿の翌月号(但し、投稿が多数の場合は次号以降、刷上がり本文が5頁以上の場合は分割掲載となることがあります)。  〇謝礼  規程により謝礼(図書券)を進呈します。  〇その他    〓投稿原稿は返却いたしません。    〓投稿にあたっては、標題、投稿者氏名、所属大学名の英文表示および、連絡先を明記の上、封筒には、全大教時報投稿原稿在中と朱書してください。    〓抜刷は、50部以上とし、実費で作成しますので、投稿時に、その旨の申込みをしてください。 編集後記  社会経済構造の変化と相まって、今日、大学・高等教育は急激に変化しています。  こうした状況の中で、今大学等では、「混迷と模索」はなお、続いているものの、主体的に今後の大学のあり方を探求する努力もすすみつつあります。  今回は、この事をふまえ特集「大学・高等教育のあり方を問う」をテーマに、第一に、多様化する教育問題を一つの「切り口」として、「教育の質の保障」など現代における教育をめぐる現状と今後の課題について実証的分析を試みたこと、第二に、国立大学のあり方とも関わって「大学財政論」を切り口に、今後の教育、研究、組織運営のあり方について幅広い論点の提起を試みたものです。  各論稿は、今後の大学・高等教育のあり方を考える上で重要な示唆に富むものとなっています。 掲載論文の複写配布は、筆者と全大教の了解のある場合を除いては、認めておりませんのでよろしくお願いします。 講読料 年間購読料(6回刊)3000円 送   料(年間)2冊まで1500円 5冊まで1800円 9冊まで2000円 10冊以上全大教で負担 全大教時報 第22巻3号  1998年6月 (大学調査時報・大学部時報通算110号) 編集・発行 全国大学高専教職員組合 印   刷 株式会社日本機関紙印刷所 〒101―0051  東京都千代田区神田神保町2―14         朝日神保町プラザ201号     〓(03)3262―1671〓   振替口座     FAX(03)3262―1638  00170―6―1889 〒105―0003  東京都港区西新橋3―17―8          〓(03)3431―5131          FAX(03)3438―0014 ※前号の通算号数を108号としていましたが、合併号のため通算108.109号に訂正し、今号を110号としましたので、よろしくお願いします。