読切講談・大学改革・第二席 バランス並びに国の責任について 中野 三敏(九州大学文学部)  先般、岩波ブック・レットで「読切講談大学改革」を刊行して貰った。残念ながら、私の著述の中ではこれが最も良く読まれたものという事になりそうだが、それも亦良しとせずばなるまい。  というわけで、既に御読み戴いた向きも多いかとは思うが、そうではない方の為にも、まずはその趣旨をかいつまんで述べて、なお若干の説明を加えてみる。  〓に、事例としては九州大学文学部の場合に限った。言う迄もなく私自身の二十数年間の職場であり、責任を持って具体例が述べられるからというに過ぎない。しかし又、旧帝大系の大学は恐らく殆んど似たり寄ったりであろう。ひいては国立大学全般にも通用する事例も多かろうと思う。  〓に、「文系基礎学」という立場を設けた。文系は理系に、基礎学は応用学に対をなすが、一方また、文系の中にも基礎学と応用学とがあり、そこでこれ迄の文学部の中核をなす部分というのが、まさしく文系基礎学といえる部分なのではなかろうかという認識である。更にいえば文系基礎学は哲・史・文という学科を基本とし、その中でも特に古典学中心であり、三千年の過去に遡るという意味での、過去に向いた学問であって、何よりも、変らないこと、継続することが重要な学問である。基礎といいながら、コロコロ変っていたのでは基礎にならないではないか。それに対し応用学は未来に向いた前向きの学問が中心であり、新らしい領域に向けて発展する事を常とする、変化、進展の学問である。従ってこの両者は、いわばクレーンに於ける腕木と土台の関係にたとえられ、そのバランスが何より大事である事は言う迄もない。しかるに現状は、腕木だけは伸びるだけ伸ばしながら、土台のコンクリートや錘りはスカスカという状況にあることを説明した。  〓に、「講座費」というものについて説明した。旧帝大を中心とする講座制の大学の場合、予算は「講座費」とよばれ、一講座ごとに配分される。一講座はおおむね教授一、助教授一、講師又は助手一、学生及び院生二十から六十程という人員構成であること、講座には二種あり、一を「実験講座」、一を「非実験講座」ということ、応用学は殆んど実験講座であり、基礎学は殆んど非実験講座であること、その講座費の割合はおおむね四対一ぐらいであること、九大文学部の非実験の講座費は現在、(平成十年)百三十三万円であり、これはこの十年近く全く変らない額であること、これは各大学によって若干の内部的配分の違いはあるが、殆んど変りはないこと。それ以外には各教官にいわば個人研究費として頭割りで支給される「旅費」と称するものが、現在年間十五万ほどあり、それ以外は全くないこと。以上が「講座費」を中心とした予算なるものの具体的な説明である。因みに右の額は、現在必要額の十分の一にも満たぬものであることを具体的な数字を示して説明し、更に一例としてアメリカにおける基幹大学の英米文学関係の予算と比べて二十分の一にも満たず、そこで外国文学として購入される日本関係図書費にさえも全く及ばぬことを、やはり数字を示したリポートの転載を以て示しておいた。従って、現在我国の講座制の大学は、この講座費の増額というのが、凡ての問題を越えて喫緊、最重要な要求となっており、他のことは到底考えようにも考えられない状況であることを指摘した。ということはまた、この問題さえ解決出来れば、我国の国立大学は結構良い方向へ向えるということでもある。  〓に、大学教員というものは、常に「研究」と「教育」の両面に携わり、責任を持つべきであるにも拘らず、自身ではどうしても「研究者」という認識を先だててしまいがちであること。従って「講座費」というものも、それを「研究費」として考えがちであるが、実は文系基礎学における「講座費」は「教育費」として見る方がより妥当であり、そうでなければならないこと。何故ならその九割以上はそれぞれの研究室に備蓄する為の図書の購入費であり、残りの一割弱は教材としてのコピー代その他にあてること。文系基礎学にとっては、こうして購入され備蓄された図書が、以後数十年、否数百年にわたる院生、学生の学習・研究の凡てを可能にするものであること。その意味で「講座費」は決して教官の個人研究費ではあり得ず、学生の為の「教育費」と考えねばならないこと。しかもこれらの図書は凡て国有財産となるので、消費されてしまうものではあり得ないこと。  〓に、ここからが本当の問題点の指摘となるが、この講座費の配分を定める大蔵省の予算配分方式に、実は重大な欠点があること。それは単年度の概算要求方式であり、いわば公共事業の新規土木工事などと同じく、何か新規の事業で妥当性のあるものなら予算をつけるが、前年度と同じであれば増額は認めないとする方式であり、これはまさに、常に新らしさを求める応用学には一応適した方策といえようが、変らぬままで継続することが命であるべき基礎学にとっては、現在のそれが一応十分な額であれば、毎年の物価にスライドしさえすれば良かろうが、そうでない場合は、まさに致命的な方策であること。そして現行のそれは前述通りのひどい状況であること。要するに行政当局にとっては、完全に応用学しか視野に入っていない方式であることを指摘した。  〓に、大学として正常な研究、教育、特に教育のレベルを維持する為には、講座費の適正性が絶対必要で、その要求を第一とせねばならぬ文系基礎学は、右の予算方式が見直されない限り、何としてもこの予算方式に自らを摺り合わせることを強いられ、それが現在の大学改革の現場における最大、最重要の目的となってしまっていること、即ち新らしい事をやれば増額のメドありとして学部の中の応用系の学問領域を増やす、基礎学も一見応用風に衣がえする、学部学科そのものを改称する、大学院重点化を進めて大学院大学になる、その場合もどこか変えなければいけないので、・・を踏襲する、等々々。要するに基礎学の応用学化が最大の急務として実行され、前述した通り、クレーンの腕木ばかりが伸ばされて、土台のコンクリートはスカスカになってしまう現況を将来したのである。尤もは教官の増員が認められれば、基礎学の本体は保持したままでの目的実現も可能であろうが、現在の公務員減員の世論からは、これは最も不可能事に属することゆえ、結局は基礎学を削ってそちらへ廻すか、・・の方策しか考えられないことになる。  〓に、その他教養部の改廃、学際性の問題、自己評価、科研費、入試・エージェンシー化等々、大学問題は山積しているが、その根本は結局国立大学が余りにも疲弊し困窮してしまったが為に、今は予算獲得の方策を練る以外のことは何も考えられない所迄追いつめられ、その場合、せめて予算策定方針の、学問の性格に沿った見直しの要求こそが第一に求められて然るべきなのに、大学側にはその視点は全く欠落し、ひたすら現行方針へ吾身をすりよせる方策のみを手探りして、それを「智恵」と称した。この大学の態たらくは、殆んど無残としか言い様もないが、一方、国家が国立大学というものを置いている以上は、国はその内容や教育に責任を持つべきであるのに、例えば非実験の講座費百三十万という措置を十数年にわたって放置している現状は、要するに国が国立大学における基礎学部門の教育に関する責任を放棄しているとしか、言い様がない、という事を以てしめくくった。  扱 以上の様な内容の拙著だったが、二、三百ほどは此方から無理やり読んで戴きたい方々に送りつけ、しかも読むだけではなく何か御感想をと強要もした。その結果かなりの数の御意見、御感想、御批判を頂戴出来た。御尤なものもあれば、やや当方の意図する所とくい違った御意見もあった。当底意を尽さぬ文章であり、表現の不手際も多々あったに相違ないので、この紙面を拝借してそれに対する私見をのべさせて戴き、より意を尽す便としたい。  第一に多かったのは、国立の問題と私学とは違うという御意見であった。前述の通り、私は意図的に国立旧帝大系の事例のみにしぼって書いたので、右の御意見は御尤である。より具体的には、行政の予算策定方式の不備を講じているのだから、本来そのような所からは独立独歩している筈の私学の問題でない事も当然とも言える。しかし、一一の事例は別だが、主旨とする所の、今日の行政の姿勢が、応用学への対応のみに終始していて、基礎学をすっかり忘れていはしないかという指摘に関しては、恐らく私学としても、そう対岸の火事然と見なすわけには行かぬのではないか。しかも本来独立のものとはいえ、現在の私学の大部分が、国の助成金なるものに依存する部分がかなり大きいのも周知の事柄である。その場合にやはり基礎学系と応用学系、或いは文系と理系とでは、それぞれの学生に対する助成金の算定は、恐らく国立の実験・非実験、四対一の割合がそのままスライドされているのであろうと思う。とすれば、それは即私大の助成金にも反映してくる問題なのではなかろうか。  しかし本質的にはこんなレベルの話ではないので、要するに一国家の姿勢として、基礎学の重要性をより認識して具体的な政策にあらわして貰い度いという要求は、私学や国立の違いを越えて必要な事ではなかろうか。今更、私学だ国立だという段階ではないように思えるのである。  一方で又、私学はとにかく学生が来たくなるようなメニューを用意して、社会のニーズに応えるのが大前程ゆえ、それに即応した大学改革が進展しているのであり、やれ基礎だ応用だというような議論は遅れているという御意見もあった。勿論内発的な大学改革は当然結構な事であり、それに異を称えるものでは全くない。但しその場合でも基礎と応用のバランスに意を用いる事が不必要だとは当底思えないし、まして学生集めだけを考えるような、或いは社会のニーズは応用にあるのだから、私学は応用学だけでよろしいという様な乱暴な意見は、ある筈もないと信じている。勿論応用学だけの単科大学もあって当然だが、その場合も内部において基礎と応用のバランスはしっかり考えられている筈ではなかろうか。万が一、そうではない改革が進んでいる所があるとすれば、やはりそれは間違っているとしか言いようがない。  第二に、研究費は科学研究費をとるように努力すべきではないかとの御意見が多かった。「研究費」という事であれば、これは勿論である。しかし前述の通り、文系基礎学における「講座費」は、私見では教官の個人的な「研究費」なのではなくて、将来にわたっての学生の為の「教育費」として考えるべきである、その「教育費」が現状ではおよそ教育に責任の持てない額になり下って、この二十年ほどを終始している事を訴えたつもりなのである。教官の個人研究費の増額は、全く別の問題であり、ここではそれを要求している積りはさらさら無い。そこが理系・応用系と文系・基礎系の決定的に違う所なのでありここだけは何としても理解してほしい所でもある。  即ち、今日の大学の研究室において、理系・応用系の場合は国家や社会が研究費を保証して呉れない限り、教官も学生も研究はおろか教育の実施も一歩もあり得ないといっても良い。機械一つが数億という単位も普通であろうから、当底個人でまかなえる様なものではない。従って科研費の獲得が必至であり、それが死命を制する。だからこそ講座費も非実験の四倍から六倍が考えられる所以でもあるのだが、それでも理系・応用系にとっては講座費などは、たとえ無くても痛痒を感じないほどの物ともいえるのだろう。  翻って文系・基礎系の場合、その研究の基本は書物であって、少くとも二次的・三次的な研究資料はおおむね自費でも何とかまかなえる場合が多い。しかもそれは蓄積のきくものゆえ、歴史ある大学であれば、過去の潤沢であった頃の遺産としてのものも多く、最底限近々十年ほどの新刊研究書を自前で揃えていければ何とか間に合う。だからわざわざ「科研費」というほどの事もない。それでも一次資料や、或いは全国(近年ではまさにグローバルなもの)に及ぶ資料調査などといった時のアゴ・アシ代(即ち食費・交通費・滞在費の類)を是非必要とする時には「科研費」は必須となる。何しろ国立の場合、教官一人頭の「旅費」なるものは年間十五万円出るのは良い方だから、一回の学会出張であらかたなくなる。従って「講座費」は即学生の為の教材や学習参考資料の購入費、即ち、まさしく「教育費」として新刊書の購入に費されるのが大部分である。しかもこの教育費は、前述した通り、書籍として蓄積され、数十年、数百年にわたって、今度は教官・学生の為の研究資料にもなる。従って文系基礎学にとっては、この「講座費」の持つ意味は極めて大きい。そしてその場合の適正な額の目安は何かといえば、要するに当該年度における新刊研究書の重要なものが、一応買い揃えられる程度のものという事になろう。前稿にも明示した通り、国文学研究資料館の発表によれば、それは国文学一講座相当で、年間千三百万ほどとなる。それが現行は百三十万、つまり必要額の十分の一しか手当てされない状況がこの二十年続いている。これでもこの国は国立大学における教育費に責任を持っていると言えるのだろうか。  だから「科研費」でそれを補充すれば良いではないかという意見が生じるのだが、先述の通り文系基礎学においては、重点選択配分方式の科研費はあく迄も個人研究費としての性格を持ち、それは大半が教官個人のアゴ・アシ代として消費される事になる。アゴ・アシ代とはいっても、それは研究の深化、発展の実現の為に用いられるものである事は勿論で、その点ではこの国の研究者のモラルはまだ十二分に信用出来る。  又、文系基礎学用の科研費はその程度の額しか出されないのが現状でもあり、当底それで以て講座費を補充する、即ち刊行部の足りない分を研究室用に買い調えるというには不足する。勢い、とれれば個人研究費としての不足、特にアゴ・アシ代の不足にそれを充てる事になるのは、人情の自然でもある。更に現行の科研費は、費目の制約等諸々の条件が課せられていて、図書を購入して研究室の備品とするような方策はとりにくく、又、長くても三年で完結する事が義務づけられている為、その点だけでも文系基礎学の学問研究には全くそぐわない、従って良心的な研究者ほど、科研費には手を出さない傾向が生じてしまうことにもなっている。  要するに科研費というものもその性格からして理系・応用系に向いた作りになっており、先ほどから述べる通り、この国の文教行政はそちら向きの顔しか持ち合せないことの端的な姿でもある。従ってこの際、文系基礎学向けの科研費の在り方というものが考えられるべきであるのも当然だが、何より訴えたいのは、国立大学というものを持つ以上は、国がそこでの「教育」という事に関して責任を持ってほしいという一事に尽きるのである。  図らずもつい最近、大学審議会は「21世紀の大学像と今後の改革方策について」という「中間まとめ」を出した。その第一章「高等教育改革進展の現状と問題点」において、「一般に大学教員は研究重視の意識が強すぎて、教育活動に対する責任意識が低い」という指摘がなされている、敢えていえばこの文章の後半部分は、主語を「この国の文教行政の責任者は」と変えて、「教育活動に対する責任意識が低い」と続けるべきもののように痛感する。更に言えば同じ「中間まとめ」の「大学改革の基本理念」としてまとめられた四項の内のその第一「課題探究能力の育成―教育研究の質の向上―」とあるのを、文系基礎学の現場から見れば、学生や院生の「課題探究能力の育成」を図る為の唯一絶対の条件は、一にも二にも研究資料としての一次、二次、三次にわたる研究書物が整備されていて初めて整うものであり、それ以外に「教育研究の質の向上」はあり得ないと確信する所である。本「中間まとめ」の趣旨を活かす為には、是非ともこの面の適切な対応がなされるべきであろう。くり返し言うが現行の「科研費」はそれには適さない。「講座費」の見直しこそが直結する。  三番目に「哲・史・文に固執するな、明治に始まったこの名称は既に百年を越えた、ここらで見直すのは当然ではないか」というもの。これは「百年」という時間に対する感覚の差といえば良いようで、私などは「まだ百年しか」或いは「たった百年」という様に発想する立場なのである。国文学などというものは世界の古典の中では新らしい方だろうが、それでも千年前からの作品を対象として、研究史だけでも八百年を数え、それでもまだ足りない程なのに、まして「哲学」や「史学」ともなれば、この名前でもあと三千年位は十分もつ筈と思える。  しかも何も固執しているのではなく、百歩ゆずって代るべきものがあれば代えてもよろしかろうが、それが「思想文化学」や「言語文化学」、更には「人間情報学」や「文化コミュニケーション学」「国際社会文化学」となると、何故そう変えねばならぬのか、又、そこでは一体何をやるものなのか、見当もつかないというのが偽らざる所であり、これは恐らく例の予算方針の「何か新らしいこと、どこかが変ること」にすり合わせて、一見最も変ったように見える外側の名前を変えておこうという「智恵」の発現としか思えない所でもある。しかも名前は変えても、最末端の研究室体制は崩さずに、それによって現在の学問伝統を死守しましょうという、悲愴な、或いは場あたりの決意が囁やかれているようだが、やがて数年がたって、こう囁やきあった御本人が無事定年退職された暁に、次の人事に際して「文化コミュニケーション学科」に例えば「文学」の専門家を採る必然性は全くなく「言語文化学科」でもそれは甚だ危ういと言わざるを得ない。それどころか、より学科名にふさわしい内容の教官を採るべくつとめるのが当然でもあろう。無論その場合も「文学」など何時消えても差支えないという社会のニーズによって行なわれる事ではあろうが、我々はそんな社会には居たくもないし、又、居させて貰えない訳だから、案外話は簡単なことかもしれぬ。  四番目に、お前は応用学や学際を見下し、あまつさえ否定しようとしているのかという、きびしい御意見もあった。とんでもない話で、前稿の誤読か、或いは悪意を持ってひん曲げた解釈であろうとしか言い様がない。私が主張しているのは応用学と基礎学はバランスが大事だということで、今日、行政に応用学の物指ししかなく、基礎学を極端に疲弊させたままで事が進んでしまっているのがおかしいと言っているのである。真意は、応用学は大事だからこそ、それとバランスのとれた基礎学が保証されなければならぬという事なのである。そうでないと、とにかく応用学のフリをしなければ基礎学そのものがもたないという危惧にかられて、一目散に基礎学の分野を応用学風に改めるのが大学改革だという風潮が蔓延してしまう事になるし、現にそうなっている。それでは結局応用学もまともには育ちませんよ、といっているのである。  学際についても、研究領域における学際性は当然であって、私などもやっている事はささやかながら学際そのものである。但しそれは研究者として自立した時に初めて行うべき、また行い得る事柄なのであって、学生や院生に対する教育としての学際などは考えられないという事である。インター・ディシプリンの研究はディシプリンの確実な土台があって初めて可能なのではないかという、当り前のことを言っているに過ぎないのだ。  同じ文学部の中でも、社会学や心理学や文化人類学のような、いわば社会科学は、その初発は学際的な学問領域であった筈だが、それは人文科学や自然科学のディシプリンの眞執な研鑽から生じてきたものであったろう。今は社会科学の学問としての自立を疑うものはいない。今後もこのようにして新らしい学際領域の学問、研究が深まり、そこから新らしい分野が自立していかねばならない。そしてそれを保証するのが旧来のディシプリンなのであり、それを基礎学と称してもいるのである。そこからの新らしい学問分野の自立は、決して性急に行なわれるべきではないし、又、行い得るものでもない。それは然るべき時に然るべく、自づと自立していくものだろうと思う。教育の段階で学際などという事が言われる事自体がおかしな話なのだ。そんな所から生じる新らしい学問など、モヤシの様にひ弱なものにきまっている。いやモヤシに対しても失礼な話かもしれない。  五番目に、既に多大の努力をはらって改革を成し遂げた大学も多々あるのに、それに対して水をぶっかけているようなものだという御批判もあった。そうかもしれぬ。ただ、それらが真に内発的な、という事は、国立であるならば予算増額を狙う余りに基礎学を応用学風に変えるというのではなく、私立であるならば、とにかく学生集めの為に、質の如何は不問にしておいて、学生のうけの良さのみを狙うというのではない改革であるのならば、私の暴言はひたすら謝るしかないし、無論謝るにやぶさかではない。しかし、そのような機会に恵まれることは、それほど多くはないような気がするのが、何とも残念ではある。 大学審議会『21世紀の大学 像と今後の改革方策につい て(中間まとめ)』を読む 羽田貴史(広島大学大学教育研究センター) 1.注目すべき『中間まとめ』  さる6月に出された大学審議会『21世紀の大学像と今後の改革方策について(中間まとめ)』は、多数の興味深い提案を含んでいる。昨年1月に出た大学審議会答申『平成12年度以降の高等教育の将来構想について』は、臨時定員を50%恒常定員化することで、2004年には、大学・短大進学率50.4%となる量的規模を想定した。  必然的に、2009年には大学・短大進学率58.8%というきわめてマス化する高等教育像が描かれることになった。現在の大学・短大進学希望率は55%だから、希望者全員が進学する時代が訪れるのは、ほぼ確実である。3人に2人が進学する大学・短大とはどのようなものか、現在の教授・学習システムが無力化するのは当然としても何が代案になるのか、まだ十分には分かっていない。このたびの『中間まとめ』は、来るべき時期の高等教育の具体的な課題を描出している。学生の視点に立ったカリキュラム改革の必要性、多様化した学生把握が不十分なこと、学生の自主性を確立することの重要性など、大学の現場では常識的なこととはいえ、納得して肯くことも多い。大学関係者にとって広く論議すべき共通の素材たり得ている。  『中間まとめ』のコンセプトの一つは、今風に言えば大学のアカウンタビリティであろう。しかし同時に「21世紀の社会状況の展望と高等教育」と題し、共生、少子高齢化などレスポンシビリティ、すなわち科学者・知識人の社会的責任に属する高等教育の課題に言及していることも注目すべきである。  アカウンタビリティとレスポンシビリティとの違いは、「とらされる責任」と「とる責任」とでも言えようか。近年、喧伝されているアカウンタビリティは、どれだけ仕事をしているかという「応答的責任」であり、研究成果や教育業績として測定される。しかし、学者の共同体としての大学に課せられている責任はそれだけではなく、専門的職業人集団として、倫理的性格を帯びた「職業的責任」も含んでいる。地球温暖化など地球社会の存立が危ぶまれ、近代化と産業化を推進してきた国民国家の終焉が予感される世紀末には、産業社会のあり方それ自体が問題になっているのである。科学技術立国などといった生産効率の文脈だけに大学の役割を押し込めてはなるまい。『中間まとめ』が、「地球環境問題、エネルギー問題、人口問題など人類の生存を脅かす問題」(p.12)への解決を掲げたのは、きわめて適切であり、玩読すべきであろう(拙稿「官僚制と専門家自治の相克−AccountabiIityとAutonomyの現在・過去・未来−」参照、『ポスト大衆化段階の大学組織変容に関する比較研究』広島大学大学教育研究センター高等教育叢書46、1997年10月)。 2.大学評価システム        の構築の背景  この意味で、評価システムのあり方は、今後大きな論点となるだろう。多少背景となる問題を整理しておこう。追いつき追い越せの近代化が終了した日本の経済を、独創的先端的な科学技術振興によって構築する目的で、科学技術基本法(1995年7月15日公布)が成立したことは、大衆化や18歳人口の減少とは別個な次元でのインパクトを大学に与えつつある。同法にもとづく科学技術基本計画は、1996年から2000年までの5年間に政府の研究開発投資をGDP比1%に引き上げ(1994年0.61%)、同期間に総額17兆円を確保しようとするものであった。昨年成立した財政構造改革法が、歳出予算の抑制を義務づけたため、計画は事実上頓挫しはじめているが、科学技術振興費は96、97の両年に前年比10%以上増加し、1995年の6844億円から8907億円(1998年当初)へ増加した。  ところで、提言された公的支出の増大は、評価システムの構築を前提としており、内閣総理大臣『国の研究開発全般に共通する評価の実施方法の在り方についての大綱的指針』(平成9年8月7日)によって、評価結果に基づく効率的な研究費配分の手法開発が提言された。他方、振興の対象となる科学技術は、科学技術基本法によって「人文科学のみにかかるものを除く」とされており、大学における学術のバランスとれた発展とのかねあいが懸念されていたのである。この点を検討したのが、学術審議会『学術研究における評価の在り方について(建議)』(平成9年12月8日)である。同建議は、大綱的指針が対象としていない人文・社会科学の分野も含め、大学等における学術研究の評価について建議したもので、経常的な研究資金による研究、一般的な公募型研究、学術政策上の見地から推進される研究に区分して、それぞれの評価方法を検討し、大学においては自己点検・評価を基本に研究・教育活動の評価を行うことが提案されている。  しかし、建議が続けて指摘していたように、大学の機能は研究だけではない。大学は、「教育・研究・社会サービスなど多様な目的・機能を持つ組織から構成」(p.12)されるもので、「研究機能と他の諸機能との関係」を視野に入れないで大学の評価を行うことはできない。この建議を受けたのが、このたびの『中間まとめ』なのである。  『中間まとめ』は、「多元的な評価システムの確立−大学の個性化と教育研究の不断の改善−」において、自己点検・評価の実施と公表を義務づけ、学外の第三者による検証、客観的評価を進めるために大学共同利用機関的位置づけを持つ機関を設置し、資源配分機関が評価に基づいて財政支出を行うことを提言している。上記3つの政策文書によって、ようやく大学評価と財政=資源配分システムの全体シナリオが出されたことになる。  もちろん、このシナリオにもまだ検討されるべき論点は少なくない。 3.評価と資源配分  ところで、今進められている改革構想は、国際化の圧力もあってか、外国モデルの摂取、国際共通化の傾向が強い。『中間まとめ』もイギリスモデルである。しかし、戦後、大学基準協会による水準向上システムが根付かなかったように、アメリカで発達した評価システムの移入には、各種の困難がある。外国の事例から評価制度の可能性を模索するだけでなく、各大学で実施されてきた評価活動から何を学ぶかも重要である。80%以上の大学が、様々な形での自己点検・評価活動を行ってきたのである。  その視角からまず気になることは、何のために評価をするかを改めて問い直すべきということである。評価は、大学の機能・役割に照応し、研究評価、教育評価、組織評価などに区分できる。これらのうち、研究者世界で合意が得られているのは、研究評価であろう。しかし、問題は、資源配分とリンクした評価とは何かということである。『中間まとめ』は、「数値化に基づく客観的な評価」の必要を提言しているが、数値化が可能なのは、自然科学分野に限られるであろう。外国研究者を含めた外部評価をたびたび行ってきた人文社会科学系の全国共同利用施設を調査したことがあるが、学問分野の差異が大きく、統一基準は困難であるとの意見が強かった。レフェリーのある学会誌と大学紀要との優劣も、文系の場合、必ずしも一致しない。『中間まとめ』も、数字による客観評価になじまない点があることを指摘しており、この点を見落として評価方法の精緻化にのみ走ることは、かえって問題が生じる。  要するに研究のよしあしは、それぞれの分野の専門研究者なら判定できるし、そもそも評価の伴わない研究はない。だが、評価が可能であっても、すべて数量化が可能なわけではないし、数量化した評価結果に基づく資源配分が、常に有益であるとは限らない。資源配分=財政の機能には、政策判断、価値判断が含まれており、たとえ短期に業績が上がらなくとも大学が行わなければならない研究活動もあり、国家社会として推進すべき研究テーマもある。地震研究や核融合研究などは費用対効果から言えば現時点では途方もない赤字であろう。また、近年、議論となっている「持続可能な地球環境の保全」のための戦略研究も典型的なものである。これらは、『大綱的指針』でも指摘されていることでもあるが、具体化の段階では極端に走りやすい。誤解の生じないようにしておきたいものだ。  懸念されるのは、評価に基づく資源配分だけでは、偏りが生じないかと言うことだ。応用研究に傾斜したアメリカでの基礎科学と人文・社会科学の置かれている危機や、ここ数年の「科学技術振興経費」の増加にもかかわらず、施設設備など国立大学経費は増加していないなど、すでにいくつかの警鐘は鳴っている(慶伊冨長「研究大学の危機−アメリカの今日と日本の明日−」『学術月報』1998年2月号、小林信一「大学の研究者をとりまく研究環境」『高等教育研究紀要』第19号、1998年3月)。財政投入にもかかわらず、人的組織を含む大学の研究教育支援体制は一向に整備されない。言葉を換えれば、フローとしての研究に対応した評価システムは各種提案で提言されているが、ストックとしての大学を評価するしくみはまだ出ていないのである。大学研究者の責任も重い。  次に、評価と資源配分が結びつく場合、当然、配分をめぐって大学間の競争が生じるが、現に大学間に存在している施設・設備などストックの差、授業負担の差、大学の規模や学部数の多少によって生じる規模の経済の差などをどう克服するかが課題であろう。いうまでもなく、競争的環境が質の向上につながるゆえんは、競争を可能にする平等な環境が創出されてこそであり、それなしに競争と評価、資源配分がリンクすれば、優位な条件にある競争者の一方的勝利となり、長期的にはかえって競争が消失する。  たとえば、授業負担の適正規模すら現状では分かっておらず、大きな差がある。国立大学の教授に限ってみても、5時間未満48%、5〜10時間31%、10時間以上21%という開きは依然として残っている(『学校教員統計調査報告書』1995年)。この差が何に基づくかは定量的なデータがないが、学部の種類による差も大きい。講義の場合、教授1人の負担は、理工学部5.4単位、法学部4.3単位に対し、薬学部2.1単位、水産学部2.8単位と差がある。また、データは古いが、同じ理学部でも、講義2単位未満から9〜10単位まで分散している(『大学における授業開設の状況−昭和42年度−』文部省大臣官房、部外秘)。平等な競争条件がなければ、適正な競争もない。  もうひとつ加えれば、大学と研究者の個性が輝くためには、競争的環境だけでなく、協業的環境が必要ということである。おもしろい教育を実施している大学に調査に行くと、おしなべてチームワークがよく、人間関係がよい。あわせて、ヒアリングをするとジョークがよく出る。競争だけで活力は出ないのである。日本の大学教員は、国際比較でも条件の割に研究業績は世界のトップクラスであり、反面ストレスは高い(有本章・江原武一『大学教授職の国際比較』玉川大学出版部、1996年)。過度な評価と競争環境は、大学教員の仕事の魅力そのものをそぐことになろう。 4.大学が自律的であるために  何が必要か  次の大きな論点は、大学の管理運営のあり方、狭くは大学自治、ひろくは事務体制を含み、大学への管理を含む政策決定・執行体制の問題である。大学のありようが変化すれば、管理運営システムも当然変わらざるを得ない。  ところで、各大学の自己点検・評価活動に欠落してきたのは、まさに事務体制を含む管理運営の分析である。大学自身にとってやりにくいテーマというだけでなく、大学の意思決定や執行が大学だけで完結せず、監督官庁や設置者など多様な行政機関を含んだ行政過程の中で機能しているところに点検評価の難しさがあるからであろう。たとえば、財政運用について国立大学が効率的であるとは思えないが、予算決定後は、法令や予算に対する財政支出の適合性が重視され、目的妥当性を問わない現在の予算制度の評価抜きに改善は不可能である(西尾勝「アカウンタビリティの概念−第1回公会計監査フォーラムの基調講演より−」『会計検査研究』創刊号、1989年、なお拙稿「国立大学財政制度研究序説」『大学論集』第23集、1994年参照)。近年、国立大学の法人化が論議を呼んだが、それはいかに行政組織の論理が硬直的かと言うあかしでもある。『中間まとめ』の大学管理運営制度改革論の弱いのもここである。すなわち「〓−3−(2)大学の主体的・機動的な取り組みを可能とするための措置」で「国立大学の人事・会計・財務の柔軟性の向上」と題し、大学と文部省・大蔵省などとの関係を検討し、「〓−4責任ある意思決定と実行」で大学の管理運営体制を検討するというずれである。しかも、前者については、「検討することが適当である」(p.72)と迫力を欠く。だが、大学が自主的自律的に意思決定を行い、個性ある大学づくりを進めるとすれば、「検討する」に止まった部分こそ要点がある。たとえば、国立大学の事務組織は、国立学校設置法施行規則第28条で事務局や部、課、室の設置等が定められているが、どのような課、係を設置するかは、明示されず、同規則第31条によって大学内部に委任されているはずである。しかし、実際は、昭和27年10月10日文人任第778号「国立大学の事務機構について」によって課−係編成の基準が定められ、どこでも同じような組織になっている。  だが、大学の機能の変化に伴って、事務に期待される機能そのものが大きな変化を遂げつつある。国際交流の増大による国際関係事務、企画機能の増加に伴う企画室の設置など例には枚挙がない。大学の機能変化は、ライン系列による事務体制ではなく、スタッフ的な職種も増大させている。現在のような画一的な事務体制でなく、それぞれの大学の実状や目標に対応して多様な事務組織があり得るはずだが、まったくふれられていない。各省庁にまたがる問題だけに審議会では議論しにくいだろうが、今後是非踏み込んでほしいところである。 5.大学の管理運営をどう         変えるのか  大学内部の管理運営制度の改革を提案している部分は、大きな論議を呼ぶだろう。『中間まとめ』の提唱している改革は、「開放的で積極的な新しい自主・自律体制を構築すること」(p.78)を目標に、執行機関と審議機関との分担関係、学長を中心とする運営体制の整備(p.82)である。これらの提言は目新しいものではない。教授会など合議制機関による管理運営は無責任であるとする意見は戦後早くからあり(たとえば高坂正顕「大学論議の再検討」『自由』4−11、1962年)、中央教育審議会「大学教育の改善について(答申)」(1963年1月28日)において、学長を管理運営の責任者とし、学長補佐機関を設置するなどの提言がなされてきた。教授会自治を基本とする大学運営制度の改革はかなり長い論議を経てきた。今回の「中間まとめ」にも、それらの系譜を読みとることができる。  大学の管理運営に関する議論は、常に分極化しやすい。現在の大学自治、とりわけ教員による教授会を中心とした管理運営を絶対化する立場から見れば、『中間まとめ』は、教授会自治の浸食であり、批判の対象となろう。  また、教授会自治が、効率的な管理運営を妨げると見る立場からは、学長への集権化をすすめ、階層的に構成された事務組織が、これを支えることで、合理的な運営が推進されると見る。集権か分権か、とでも言おうか。ことがらはそれほど単純ではないはずだが。教授会自治絶対論は、戦前の学問の自由の侵害に対し、教授会による教員人事の自主権が確立してきたという歴史事実をふまえるものである。だが、大学運営のすべてを教授会で決定していくことが、大学自治として望ましい姿ともいえない。大規模な国立大学は、教員・学生・職員を含め2万名を越し、財政規模は1000億円、30万都市の財政に達している。否が応でも官僚制に依拠せざるを得ない。また、現行の大学管理運営制度は、度重なる大学管理法の制定が実現しなかった結果、学校教育法、教育公務員特例法などの限られた規定によって各機関の権限が定められている暫定的性格を拭えない。全学と学部の関係についても、「教授会と評議会との関係については、一般的・原則的には、教授会の意思決定が評議会のそれに優位する」と述べ、教授会を大学自治の主体とする見解もあるが(『別冊 法学セミナー 基本法コンメンタール 教育法』1972年版)、戦後登場してきた各種の共同利用施設を全学的な意思形成に参加させるしくみがないなど、欠陥も多い。  他方、大学の管理運営は形式的にシステムを整備すれば有効に機能するというものではない。いかなる意味でも、教員研究者をはじめとする大学構成員の参加と支持に支えられない管理運営は存在しないのだから(『IDE 現代の高等教育』1996年5月号参照)、構成員の統治能力の向上を図り、大学運営への参加・協力を促進することは欠かせない課題である。  大学基準も「教員には……自律的社会としての大学の主要な構成員として教育研究にかかわる管理活動に関与する責任を主体的に分担することが必要である」(平成6年4月26日大学基準協会理事会決定)と定めている。この観点が『中間まとめ』には弱い。  また、いくら強調しても足りないのは、日本に官僚組織にはマネッジメントが有効に機能していないということである。教授会自治の弊害を克服しようとするあまり、縦割りセクショナリズムなど官僚機構固有の弊害を引き込むのでも困る。近代日本で行政改革が叫ばれなかった歴史はない。行政の科学化・近化化は、昭和戦前期にさかのぼる命題であり、専門家の参加と民主的統制の拡張、情報公開は、方策の一つであった。大学行政だけが、例外のはずはない。教員研究者の参加は専門家の大学行政参加とチェックの機能も持っているのである。  結局、ここでも多様な形で営まれている大学の経験・慣行を評価し、どのような形態・制度が望ましいかを明らかにしていくことが必要だろう(その点で言えば、学長の選考方法などについての言及は細かすぎる)。大規模私学の実例は、硬直的な国立大学の管理運営を改革する示唆に富むと思われるが、数回調査に訪れて印象深いのは、立命館大学のケースであり、中堅教員.事務職員層の活発な経営参加と活力には端倪せざるをえない。京都地区にはボランタリーな団体(高等教育研究会)による職員の職能形成の取り組み(『大学職員ジャーナル』)がある。大学事務のあり方を自発的に求める職員の姿は、残念ながら国立大学にはみられない。  最後に、大学の管理運営を考える上で、大学自治の概念を再検討する必要がある。簡単に言えば、「大学における学問の自由を保障するために、伝統的に大学の自治が認められている」(最高裁1963年5月22日大法廷判決)とする憲法解釈の問い直しである。大学の自治が教員研究者の学問の自由を保障する機能を持つこと、とりわけ人事自主権が憲法上の保障を受けていることは疑いない。しかし、では、逆に大学の自治は、学問の自由を保障するためだけのものだろうか?学生の地位・身分にかかわる決定、教育課程に関すること、組織改組に関することなど、学問の自由の一部というよりは、大学が教育研究という機能を遂行するために必要な事項であり、社会的責任を伴うものである。他者の自由を制約しない限り自由が制約されない精神的自由とは、異質なものである。当たり前のことのようにも思うが、授業改善の取り組みを、教授の学問の自由の名において拒否する意見を聞くと、大学の自治と学問の自由の関係を問うことが改めて必要と思う。かつて大学紛争期のイッシューは、教授会自治論に代わる現代的大学自治論の構成にあり、有力な議論の一つは、教育機関としての大学自治論であった。しかし、70年代に入って公法学をはじめとして大学自治論は急速に衰退し、見るべき成果を上げずに今日に至っている。大学の自治は、教員研究者個人の学問の自由保障の制度にとどまらず、大学の機能を発揮するための職能的自由である。そのことを自覚することで、より大きな社会的意義を主張できるであろう。  この論稿は、大学審議会等の動向もふまえ、中・長期的視点に立って、今後の大学のあり方を検討するため今年2月に設置された「大学改革・研究プロジェクト」で行なった「科学技術政策」をテーマとした勉強会(98年7月)での報告をもとに、筆者に加筆いただいたものです。 『科学技術基本法』及び『科学技術基本計画』 制定後の動向について 加藤 重樹(京都大学大学院理学研究科・理学部)  まず科学技術基本法ですが、これは皆さんご存じのように、1995年11月に成立し、更にそれを受けて科学技術基本計画が1996年7月に決定されています。特に科学技術基本計画は95年の科学技術基本法を具体化するということで、今後10年間程度を見通した、特に「平成8年から12年(2000年)」までの5年間の科学技術政策を具体的に書いたものです。  ここでの特徴的なものは、これまでも科学技術基本法の中で基本的にそうなのですが、人文社会系に関しては、たとえば環境問題あるいは脳の問題で関連するような分野について、簡単に触れる程度に留まっているということです。これが大学審議会の答申などとも関係してくるのではないかという点です。  いろいろと書いてあるわけですが、主要な内容は、科学技術をある段階にまで引き上げるということです。具体的な施策についてはかなり立ち入って書いてあります。一つは、今日配られた「資料A」でもわかりますように、日本の場合は研究開発投資そのものは企業の分を含めるとけっこう高い段階にあるわけですが、政府が直接投資している、あるいは歳出している額は、他の先進資本主義国に比べてまだかなり低い。それが政府に対する批判の一つの論点になってきたわけです。  ここでは、21世紀の初頭までに、GDP比で欧米主要国並みに引き上げることを目標にしています。具体的には96年から12年の間に17兆円を科学技術に投資する。1996年の段階では2兆8000億円が科学技術予算ということですが、今年、98年(1998年)には3兆6000億〜3兆7000億円。これは当初予算が補正予算により6200億円増えています。5年間に17兆を使い切ろうと思うと、2000年に4兆7000億円ぐらい、あるいはもう少しという推定がなされています。  そういう中でどのような施策をやっていくかということですが、総合的、あるいは計画的施策ということで、いくつかの項目に分かれております。一つは研究者の養成、あるいは研究開発システムの整備を行う。その中の1点は、これまでも続けられてきた大学院の拡充をさらに進める。大学審の答申では入学定員を25万人までもっていくというかたちで書いてあります。  2番目は「ポストドクター等1万人支援計画」です。要するに「ポスドク」を1万人作るということで、それを2,000年度までに達成する。  それと、これは非常に重要な問題なのですが、労働者派遣事業で研究開発業務を行うことを可能にしていくといったことが具体的に触れられています。  さらに、研究支援業務、あるいは研究支援業務者を、国立試験研究機関では研究者1人に支援者1人、国立大学等では研究者2人に支援者1人というかたちで拡充していく。以上が実際には研究者を養成していく、あるいは研究者層を拡充していくことについての具体的な施策になっています。  もう一つは、そういうことと直接関係するのですが、任期付任用を導入していく。あるいは実施していく。これは国立試験研究機関についてはもう実際にすすんでいます。たとえばいま通産省等の研究所はほとんどが3年任期の職員になっています。また、国立大学でも「選択的任期制」ということで、一部の大学で分野は限定されていますが、導入されてきています。  他に、外部人材の活用ということです。特殊法人等で雇用して人材を導入する。あるいは産学間の人的交流の促進ということです。それと関連して、これは今回の大学審の答申にも出ていますけれども、学長、所長等の指導力の発揮による研究組織の柔軟な運営ということで、効率的な組織運営をしていくということです。その中で、評価を実施していく。  これが研究者養成、あるいは研究開発システムの整備という点で具体的に言っている点です。  もう一つは研究開発基盤の整備・充実ということが書いてあるのですが、これは特に国立大学ですと補修が必要な建物がかなりあるということと、数年前に基準面積の改定がありましたが、それを考えると国立大学で約1200万〓の整備が必要であるということが盛られております。  科学技術基本計画のほとんどは実際にかなり実行に移されているのですが、この問題については、財政問題もありますが、ほとんど手が着けられていない状態になっているということが一つの特徴です。  もう一つは情報化の推進ということです。これは実際にはもっと先行していると思いますが、2,000年までにすべての研究者にコンピューターを配備する。それと高速のネットワーク、あるいはLANの整備をしていくということが書かれています。  多元的な研究資金の充実という点では、96年度より特殊法人等の活用が提起されています。これは後に出てきますが、学術振興会を経由する研究経費、あるいは科学技術振興財団を経由する経費が96年度から始まっていますので、そうした方向だと考えられます。それと合わせて、「科研費」を増額していく。あるいは科学技術振興調整費を増額していく。あとは民間活力、各省庁での資金を活用していく。ほぼこうした流れです。  その他地域の問題、あるいは国際協力についてもこれまでどおり進めるということが書いてあります。  ここでは、特にいまわれわれが大学の中で直面している問題に限って取り上げます。二つの問題についてどういうことが起こっているかを示します。  一つは予算関係の問題です。これは今年度の予算がある程度出そろってきているので、それを見て、どのような性格になっているかということです。今年度の科学技術関連予算がいかなる特徴を示しているか。これは総額が補正を含めて3兆6500億円。その中で一般会計分が約2兆円です。その一般会計の中で科学技術振興と言われるものが約1兆円。その他に含まれるものが約9000億円。それと特別会計。これは特に国立大学はほとんど特別会計で賄われているわけですが、それがだいたい1兆7000億円。これは何か決まっているんですね。必ず3分の2になっています。これが文部省関係。その政策背景はわかりません。  「資料B」の中で平成9年度分もあります。これから見ても、98年度は特に補正予算があるので増えているということが勿論ありますが、科学技術関連予算の大幅な増、だいたい6500億円の増となっています。  そういう予算が計上されている、あるいは使われていますが、そういう場合の、特にいま国立大学の教員に直接関係があるような問題についていくつか調べてみました。まず研究所の中で校費、教官当たりの積算校費が実際には伸びていないのと同時に、また節約というのが来ています。そういう意味で伸びが縮小されていて、様々な要因からみると実質は全体としてみれば低下の方向を余儀なくされる方向の政策だと考えられます。  そういう中でかなり大きな比重を占めている「科研費」ですが、これは補正予算からどれだけ増額があるのか不明なので、当初予算の分だけしか資料がないのですが、1179億円です。その中での内訳ですが、特定領域研究、これは従来の重点領域研究が形を替えて今年度から発足したものですが、特定の研究領域にある程度集中的にお金を落とすという部分で223億円。  基盤研究。これはAとBとCがあるのですが、これは普通の、大学で個人、あるいはその研究グループが行っている研究でありまして、そこに551億円。それから奨励研究、特別研究員。奨励研究は35歳までの若手研究者にお金を出す。特別研究員は学術振興会の特別研究員、これ年間1人100万ぐらいが確実についています。あとは国際学術研究、研究成果公開。あるいは、「COE」(センター・オブ・エクセレンス)に72億円。それに、特別推進研究がありますが、これは一つのプロジェクトに約3億円の配分があります。それが総額で106億円。この特別推進研究というのは、98年度からはかなり減額になっています。  科研費97年度を調べてみますと、科研費の対象者は大学、短期大学、あるいは高等専門学校の本務職員が16万6000人、申請課題が9万9000課題、採択されている課題が3万7000課題。それで、採択率が27.1%というのが今年の現状です。  対象者数、あるいは申請課題数を見てみますと、10年前、昭和62年(1987年)には対象者数が13万9000人、それに対して申請課題数が5万7000課題です。そういうことを考えますと、対象研究者数に比べて申請課題数が大幅に増加しているというのが現状です。ただし申請課題数といっても個人が重複申請できますので、平均で申請課題数は1.5程にはなります。極端な例では申請数10という場合もあります。それらを考えますと、実際にはまだ3分の1ぐらいしか申請していないというのが現状ではないかと思います。  特定領域研究とか、特別推進研究とか、様々な費目がありますが、通常の研究者が日常的な研究活動をしていく上での経費として、特定のプロジェクトではないという意味での研究費ですが、基盤研究と奨励研究がそれに当たります。これは実は新規の採択数ですが、平成9年度は基盤研究のAで、申請数が2229に対して採択数が393、採択率が17.6%、基盤研究のBが1万3000程の申請数で、2500程の採択で18.8%。基盤研究C、これはかなり小額で300万ぐらいですけれども、これが2万7000の申請数で、6300弱の採択ですから採択率で23%。奨励研究が1万7000の申請数で5400弱で30.3%の採択率です。  この数字を挙げたのは、一つは、特定のプロジェクトでない研究費という意味では、これが多くの研究者の研究活動に対する配分と見られる点です。もちろんこれには継続の人の数が含まれていないのですが、新規に申請している人の状況をみることができます。これらの重複申請はできませんので、その何割増かが実際に科研費申請している人の数ではないかと考えられます。  ここに挙げましたのは、文科系の事情がよくわからないのであとから議論したいと思うのですが、理科系の場合は実際にはほとんど大学院生を抱えて研究をしているところでは、校費で、特に実験系の研究を続けるのは不可能に近いのが現状ですから、科研費を含む基盤研究がある意味では経常的な研究費として位置づけられています。それがこうした採択率であるというところに、研究費行政の一つの問題点があるという気がします。  いまは「科研費」についてですが、その他、多元的な研究資金ということで、特に先ほどの基本計画にもありますけれども、平成8年に多様な研究資金が新たに組まれてきています。  文部省関係で言いますと、学術振興会を通じたもので、平成8年から「未来開拓学術研究」というのが始まっています。この重要な特徴は、普通は研究費、「科研費」は公募型の形を取るのですが、これは公募ではないのですね。ある委員会がトップダウンで決めるという形式です。規模は1件が年間5000万円で約3億円です。知りうる範囲では、平均で約年間1億円です。これが98年度の当初予算では218億円、件数として246件。1億円というのは、先ほどの基盤研究でも上限が1億ぐらいですから、通常では全然届かない。そういう特定のプロジェクトへの研究資金があるということです。  もう一つ、これもたしか96年度から始まっていると思いますけれども、科学技術振興事業団、これは科学技術庁の財団ですが、その研究資金の一つは戦略的基礎研究というのがあるのですが、それが274億円、これも5年間で2〜10億円。平均的には5年間5億円です。  それ以外に創造科学技術研究というのがあります。これは81年から始まっている、随分古いものですが、これは非常に大きなプロジェクトで、5年で約20億円ぐらいという研究費です。これは実際には総額としてはそんなに多くなくて、主力は戦略的基礎研究のほうにシフトしています。それに、国際共同研究が19億円です。今年度予算は、そのようになっています。  その他では、科学技術会議が主体になる科学技術振興調整費が270億円で、様々なプロジェクトに研究費が交付されます。  こうした予算の現状をどう評価するか、いろいろな見方があると思いますが、一つは特に公費が実質的に、たぶん国立大学で教員1人当たり研究費として使えるのは100万程です。そういうふうな現状で、研究というのはもちろん個人でやる研究もありますが、ある程度の規模の実験的な研究だと大学院生等と一緒にやるわけです。こういう現状で研究を考えると、実際には大学院生に対してくる院生経費を足しても積算校費から来る研究費では研究ができない。そうした状況の下では、研究を進める基本になるのが基盤研究です。研究費の総額の中で基盤研究の比率がどれぐらいあるのかを見ると、きわめて低いのが現状です。  もう一つは、先ほど見たように、基盤研究に対しても採択率が非常に低い。ここが研究費行政の一つの問題点です。  科研費の問題ではもう一つ、これは実は「科学新聞」が統計資料を、ホームページに載せています。われわれに直接関係がある国立大学の統計資料(資料C)があります。  これを見ても非常に特徴的なのは、もちろん大学の規模等の問題はありますが、大学間の「格差」が非常に大きい。たとえばいちばん大きい東京大学は90億円、2番が京都大学で60億円、3番が大阪大学で50億円、あと北海道、東北、名古屋、九州、東工大、いわゆる旧帝大にそういう研究費が配分されているというのは一目瞭然なのですね。それに比べて新制の国立大学はかなり少ないということがこれでもわかると思います。  特定領域研究、または重点領域研究の代表者がいるという関係もあると思うのですが、この数字を読みますと、だいたい採択件数に平均300万をかけると総額と同じになるところは、やはり旧帝大です。それであと200万かけていっても、その額に達しないというようになっています。そういう意味での配分が非常に偏っているということが、これを見てわかると思います。  特定の大学に対してというのは、一つは学会のボスがいるということもありますし、もう一つは高額の研究、たとえば基幹研究にしてもAなどが多く来ていますね。それは、「資料D」に採択課題の1000万円以上のものが載っていますが、非常に特定の大学に偏っていることが明らかです。研究費ではそういう問題があります。  それからプロジェクト研究では96年度あたりから始まっているものが学術振興会の未来開拓学術研究、それと科学技術振興財団の戦略的基礎研究があります。この研究の特徴は、研究費もそうですし、それ以外にも、たとえば「ポストドク」1万人計画に関連するものですが、「ポスドク」を雇っての研究も、こういう研究費の中で行われています。  これらの研究で問題なのは、未来開拓型研究というのは、非常に有名な話ですが、行政トップダウンです。これが実は「ネイチャー」で批判されたのです。「日本はいまでもこういうことをやっている」と。それに対して著名な日本の理工系研究者が反論し、「国のために国策に基づいてやる研究は公募など必要はない」と公言しているということです。そういう審査過程が、もちろん審査員は公開されているのですが、特に戦略的基礎研究の1年目の採択者等を決めた人との相関関係でリストが上がる。すごいですよね。そういうふうなかたちになっている。  もう一つ、世間で言われる評価の問題です。一般的に、多分これも様々な意見があると思うのですが、使いきれないような研究費を使ってやる研究に対しては、評価も適正に行うことが必要あるのではないかと思います。学術審議会から評価について「提言」が出て、研究の「事前、過程、事後の評価」という記述があります。日本の公共事業でも一緒ですが、基本的に日本では「事後」の評価はしない。これは国民の税金、それも非常に高額な税金を使っているわけです。そして、「事後」の評価というのは、ある意味でいちばんしやすい分けです。「事前」の評価というのは、これからのことだから評価しようがない。そういう意味では、個人的な意見ですが、ことに定量的な評価も含めて、きっちり評価することが大事なのではないがと思います。  もう一つは、こうした科学技術関連予算は非常に大きくなって、「科研費」等も非常な伸び率になっているわけですが、一方で「財政再建」ということで、「凍結」「廃止」などの政策が基本的にあり、一定の矛盾をきたしていますが、今後どうなるかは不透明です。しかし、特にシビアな問題は、大学共同利用研究所や付置研究所で起こっている問題です。大型設備の維持費の15%カットの問題は非常にシリアスな問題で、実際にある研究所長が言ったように、「電化製品を買ったのに電気が来ていない。」のと一緒なのです。そういうことが起こっています。  もう一つの問題は、先ほどの科学技術基本計画でも言っていますが、国立大学の「インフラ」の問題です。これは非常に高額な装置、あるいは高性能の装置をこれだけの予算を使って入れているわけですけれども、建物の老朽化の問題、あるいは電源の問題、電気容量の問題など、うちの教室でも何度も電気容量の限界を越えるのですが、そういうことについての「インフラ」整備がほとんどやられていない。これはたぶん予算の費目が違うのでしょうが、そういう基盤的経費の投資の仕方の問題をきちんと見ていく必要があります。  もう一つ、ここで出てきた新しい問題ですが、科学技術基本計画ができて、ポスドク1万人計画が出てきた。これが多分これから、大学、あるいは日本の学問研究にとって非常にシリアスな問題になっていくと考えています。ポスドク1万人計画は98年度までに達成するということを掲げているわけです。実際にいまどれぐらいかはなかなか実態はつかめません。  すぐわかる数だと、学術振興会が出しているもので、これは98年度の予算案でも、現在、特別研究員が3770人。そのうち、ドクターを終わったPDが1330人で、DCが2440人。この2440人をポスドクと位置づけるか否かは別としてこうした状況です。次に海外特別研究員です。これは海外で研究する〓海外のポスドク〓というイメージで、これがだいたい130人。それから外国人特別研究員が735人。未来開拓学術研究という学術振興会のプロジェクトでの「ポスドク」が718人。また、非常勤研究員、特別会計から出ている部分ですが、それが777人です。これを全部足すと約6000人です。  その他に国立研究機関、あるいは理研に絡むポスドクがあります。国立研究機関では科学技術振興事業団が雇って国立研究機関に派遣しています。たとえば通産省とか厚生省などの「ポスドク」ですが、その数の実態はわかりませんが、今年度の募集が100名。そうすると、大体3年計画ですから、300人程になります。戦略的基礎研究というのが多分何百名か、いると考えられます。科技庁関係、理化学研究にもかなり存在します。  そういうことで、今8000名程はいると考えられます。  なぜこれがこれからシリアスな問題になってくるかといいますと、前述した8000名の「ポスドク」が現在ポジションを探している状況になっています。その人たちはもちろんドクターコースを出ているわけですが、われわれと違って未組織の状態に置かれているわけです。その人たちの問題は、未組織という意味では、かつて、私もオーバードクターをしていましたけれども、行くところがなくて大学に残ってオーバードクターをしているというのは少し性質が変わってきているわけです。それが非常に大きな層になっているということに、われわれは注目していかなければならないと考えます。  雇用問題、あるいは35歳ぐらいでどうにもならなくなるというのがすぐ目の前に来ているわけです。一方では、この間、特に大学院の重点化で、教員全体の数は増えませんので、助手ポストの振り替えで重点化をしています。そうすると全国的にかなり助手ポストが減り、一方でこうしたポスドクの人が増えている。これについては、われわれは何らかの見解を持っていないと対応できなくなるのではないかと考えます。  これは実は大学の教員、あるいは国立研究機関の任期制と直接関係してきまして、要するにこういうふうに国内で「ポスドク」という人をこれだけ作りだすというのは、逆に言えば、特に若手の研究者の中での流動性を確保しないとどうにもならない。もちろん人間は使い捨ての雑巾ではありませんので、私はそういう立場には立ちませんが、たとえば大学審議会や学術審議会など、それなりに政策的には彼らは一貫しているわけですから、「流動性」を持たせて、研究開発を進めるというのが基本的な立場なわけです。ですからそこに対してわれわれがどう対処していくのか、あるいは方針を持っていくのかというのは、これからの問題として非常に大きな課題だと考えます。  それと、この問題は実は「ポスドク」1万人計画で、いま1万人としても、年々恒常的になると、だいたい3年ぐらいで切られますので、いくつかを渡り歩くとしても、年間何千人という数が大学院の拡充政策とともに新たに出てくるわけです。それをいまの大学院の拡充政策、特に理工系の問題が大きいと思いますが、そこでどういうふうにとらえるのかということも考える必要がある問題です。  最後に、実は「産学協同」のことを少しやろうと思ったのですけれども、「産学協同」の問題は、調べていても「拡大、拡大」の方向で、もう、あれがどうだ、これがどうだというような状況ではないのです。  これは文部省の予算なのですが、総額で1000億円のお金が「産学協同」用に使われているわけです。いまどこの大学でもそうですが、受託研究とか、あるいは委任経理金とか、そういう資金が非常にたくさん入ってきているし、去年、兼業の問題もいちおう認められるようになって、たとえばうちの学部でも、本俸を超えない範囲の収入を得ても構わない。そういう状況ですから、どう対処していいのかわからない。ただ、やはり「自主、民主、公開」を基本的原則としつつ、さらに政策的に議論を深める必要があると考えています。 〓.研究費 a.科学研究費補助金(H10年度当初予算  1,1179億)      特定領域研究223億      基盤研究551億      奨励研究、特別研究員131億      国際学術研究63億      研究成果公開33億      COE72億      特別推進106億     H9年度採択数 対象者 166,000 申請課題 99,000 採択課題 37,000 採択率 27.1%      基盤研究(A)393/2,229(17.6%)      基盤研究(B)2,480/13,172(18.8%)      基盤研究(C)6,272/27,236(23.0%)      奨励研究(A)5,396/17,815(30.3%)   b.未来開拓学術研究(1件年間5000万〜3億)     トップダウン方式     218億…246件(H10年度当初)   c.科学技術振興事業団    ・戦略的基礎研究(5年で2〜10億)274億    ・創造科学技術研究(5年で20億)78億    ・国際共同研究19億   d.その他     科学技術振興調整費270億 ・問題点   a.科学研究費補助金の申請率、採択率     校費の実質減、基盤研究の比率の低さ   b.プロジェクト研究     審査過程の公開性、評価   c.財政問題      共同利用研、付置研の経費15%削減問題、インフラ整備の遅れ 〓.ポスドク等1万人計画  ・学術振興会   a.特別研究員3,770 (PD1,330 DC2,440)   b.海外特別研究員130   c.外国人特別研究員735  ・未来開拓学術研究718  ・非常勤研究員(特別会計)777  ・その他…国立研究機関、理研 〓.産学協同     民間との共同研究 1,488件61億     受託研究456億     総額では1,065億 資料D 平成10年度科研費採択研究課題大学別内訳 文教ニュース 〓1470(98.5.18)、 〓1471(98.5.25)、 〓1472(98.6.1) 、 〓1473(98.6.8) 、 〓1474(98.6.15)、 〓1475(98.6.22)、 〓1476(98.6.29)、 より抜粋 原稿募集  全大教時報編集部では、今日、私たちの直面している「改革」問題についての原稿を募集しています。各大学・高専・大学共同利用機関の具体的な動き、とりくみなどについて、下記投稿要領によって、積極的にお寄せください。 ◇投稿要領  〇文体  自由  〇原稿  200字詰原稿用紙、横書(ワーブロの場合は、1行24字詰)。  〇字数  刷上がり本文については、以下を基準とします。   2頁 3500字 5頁 9500字   4頁 7500字 6頁 11500字  〇原稿締切り  毎奇数月10日  〇掲載  投稿の翌月号(但し、投稿が多数の場合は次号以降、刷上がり本文が5頁以上の場合は分割掲載となることがあります)。  〇謝礼  規程により謝礼(図書券)を進呈します。  〇その他    〓投稿原稿は返却いたしません。    〓投稿にあたっては、標題、投稿者氏名、所属大学名の英文表示および、連絡先を明記の上、封筒には、全大教時報投稿原稿在中と朱書してください。    〓抜刷は、50部以上とし、実費で作成しますので、投稿時に、その旨の申込みをしてください。 編集後記  大学審議会はさる6月30日、「21世紀の大学像と今後の改革方策について」(中間まとめ)を公表しました。全大教は「中間まとめ」に対し、大学の教育・研究、管理運営のあり方について、法令等の制度「改正」による画一的規制ではなく、憲法・教育基本法に基づき、大学人の自主的創造的改革をすすめる立場から、その内容の分析・批判を行なってきました。その一環として、今回は異なる研究分野の三氏の論文を掲載しています。  中野論文は、人文系の「基礎学」の現状から、羽田論文は、今日的大学自治のあり方と評価問題を中心に、加藤論文は科学技術政策の視点から、各々「中間まとめ」にかみあった分析・批判の論点を提起しています。読者各位からの反響を期待しております。 掲載論文の複写配布は、筆者と全大教の了解のある場合を除いては、認めておりませんのでよろしくお願いします。 講読料 年間購読料(6回刊)3000円 送   料(年間)2冊まで1500円 5冊まで1800円 9冊まで2000円 10冊以上全大教で負担 全大教時報 第22巻4号  1998年8月 (大学調査時報・大学部時報通算111号) 編集・発行 全国大学高専教職員組合   印   刷 株式会社日本機関紙印刷所 〒101―0051  東京都千代田区神田神保町2―14         朝日神保町プラザ201号     〓(03)3262―1671〓   振替口座     FAX(03)3262―1638  00170―6―1889 〒105―0003  東京都港区西新橋3―17―8          〓(03)3431―5131          FAX(03)3438―0014 ※前号の通算号数を108号としていましたが、合併号のため通算108.109号に訂正し、今号を110号としましたので、よろしくお願いします。