特集 全大教第10回教職員研究集会 1998年9月11日〜13日 一橋大学  9月11日から13日の3日間、一橋大学を会場に全大教第10回教職員研究集会が開かれました。この集会には、全国61大学・高専・共同利用機関から242名が参加し「地球と人類社会の未来に向け、大学・高等教育の創造的発展を」をテーマに、シンポジウム、12の課題別、職種別分科会が開かれ活発な討論が行われました。シンポジウムでは、加藤重樹氏(京都大学大学院理学研究科教授)が「今日における大学・高等教育と社会との関わり」について、高木英明氏(光華女子大学教授、京都大学名誉教授)が「大学審議会『中間まとめ』の『組織運営体制』に関するコメント」についての報告をおこない、活発な討論や意見交換がおこなわれました。今次教研は、大学審の「中間まとめ」、そして10月26日には「答申」という状況を受け、各大学で進行している「改革」の状況を交流し、21世紀の大学の創造をめざす教研となりました。シンポジウム、各分科会の主な論点について紹介します。 主催者挨拶 中央執行委員長 蔵元英一  ご紹介いただきました委員長の蔵元でございます。夏休みも明けて何かとお忙しい時期に第10回教研究集会にお集まりいただきまして、本当にありがとうございました。それから、この会場を提供していただきました一橋大学の教職員組合の方々、先生方をはじめ皆さん大勢の方にいろいろ準備していただきまして、本当にありがたく思っております。しかも土曜も日曜もつぶして3日間もお世話になりますことを、心から御礼を申しあげます。  せっかく10分近くいただきましたので最近思うことを少し話してみたいと思います。この教研集会は、何といっても6月30日に出されました「中間まとめ」についての議論が中心になると思います。  なぜかといいますと、大学の根幹を揺るがすようなことが書いてあるからなのです。全大学に向けたものですけれども、特に国立の大学、高専、共同利用機関も含めた国立大学に関して、いろいろ厳しいことを言っております。91年の大学設置基準改革からずいぶんわれわれは改革をやってきて、忙しくて、研究する暇もないというぐらいにやってきている。それなのに、「改革の意識はまったく低い」と書いてあるわけです。教官は大学の改革への意識も低い、学生もあまり勉強熱心でないと、ほとんどほめ言葉がなくて、厳しい言葉の羅列である。このまま21世紀に向かうのかと思うと非常に憂慮されます。結局、国の公的資金、資源、資源という言葉使いがどうも私にはあまりなじみがなかったのですけれども、資源を使ってやっている国立の大学が、これだけ投資したインプットに対して出てきたアウトプットが問題である、要するに企業と同じような、産業界と同じような評価基準で見ているわけです。結局「中間まとめ」で言っているのは、インプットに対してアウトプットが十分でない、しかもかなり低いというふうに言っているんです。点数をつけたら5段階でもおそらく2以下だと言いたいんじゃないかというぐらいに低いと言っているわけです。  そう言われて私は本当に心外だ、怒りを感じるというぐらいに思うわけです。私などは理系で実験をやっていまして、昨日の夜も学生とディスカッションをしていて最終便に乗り遅れそうになりました。結局皆さん忙しくて、百何十ページもある「中間まとめ」を、6月30日に渡されて、8月20日までにちゃんと習熟して意見を言いなさいと言われても、なかなかできるものではないわけです。  それで一言で言えば何が書いてあるかということを、われわれ組合員が周りにいる人たちに伝えることも組合の大事な仕事だろうというふうに私も思っております。ですから事あるたびにチョコっと周りの人には言っているわけです。結局そういう公的な資金を使ってやっているのである、それに対してもっとアウトプットを高めなさい。大学の教官、学生もレベルアップしなさい。そうしないと、国際競争力を高める必要がある21世紀には生きていけない。21世紀は世界的な大競争時代である。国の財政危機の時代にあって、そういう貴重な財源を使っている国立の学校は、もっともっと効率的に社会のニーズに応えていくように組織替えをしなければいけない。それができなければ、はっきり言って切り捨てることもあると書かれているんですね。  昨年10月に独立行政法人化という話が出て、文部省自体もそれには反対してきたわけです。一応、棚上げというか、先延ばしになっていますけれども、その話だって、また、いつ出てくるかわからない。おそらくそういうことも、これから十分ありうるということを考えておかなければいけないだろう。これをわれわれとしてどう見るかなのですね。  よく考えてみると、大学ということを議論するならば、大学は本来どうあるべきかという中からの議論がなくてはいけないのですけれども、これが全部外側の条件から、これこれであるべきだ、世の中のニーズはこうです、21世紀は不透明で、大競争時代になって、国際競争力が必要で、国際貢献が必要です。それから社会人の生涯学習とか、いろいろな多様なニーズが出てきます。学生数はこう変移します。それに合うように最大効率を求めて大学は改革しなければならないと書いてあるのです。  ということは外側の条件だけを言っただけなのですね。外側から見て大学はこうこうこうでなければいけない。では中から見たことはどうかというと、ほとんど書いてない。結局それは大学人が作るしかない。特にわれわれ教職員組合がやらないと、こういう時世ですから大学当局も本当のことを言うということはなかなかできないわけです。結局、教職員組合しか本当のことはなかなか言えないという状況にあって、その意味ではわれわれの役目は非常に大きいわけです。  「指示待ち学生」などという言葉もありますけれども、外側の条件だけですべて動いていたら「指示待ち大学」になってしまう。「指示待ち大学」ではいけない。大学は、憲法にある学問の自由、それから学校教育法にあるような学術の中心、教育基本法にもたくさん教育の基本精神が書かれておりますが、教育行政というのは大学の自治の中で学問が自由に発展するような要件を整備することが教育行政であると、法にあるわけです。それが本来の姿である。しかしそのことは一言も書いてない。  そうはいっても、国家行政組織法ですか、私は理系の人間で文系のことはまったくだめなのですけれども、最近、やむをえず少し言葉をおぼえたのですが、そういう国家行政組織法の中にあって内閣の統括下にある。そういう中で文部省の指導、助言の下にあるのですが、いろいろな法律の網の目にガッチリ縛られている。結局この後のほうだけが、いまのところ強力に働いているわけです。抜けているのは、大学をどうするかという自分の意思表示であり、これを発揮していかなければならないわけです。  「中間まとめ」には、その意思表示がなかなかできないために、やはり刷新できない。したがって、学部の自治でなくて、学長を中心とした強いリーダーシップで、もっと迅速に、的確にできるようにしようと書いてあるわけです。しかし長年築き上げてきた大学の学問の自由を守るための大学の学部自治というものを、そう簡単に上のほうで取り上げてしまっていいのかということは非常に大きな疑問なわけです。  それと本当に外側からの要件だけで大学というものが理想的な形になるのかということがいちばん大事なわけで、学問というのはどうやって発展してきたのかということの原点に立って考え直してみなければいけないわけです。特に基礎的な学問の発展が非常に重要であります。21世紀は不透明な時代だということの意味を考えてみましょう。最近はいろいろな産業が出てきているわけです。今までみたいな重厚長大型の、車を作る、鉄鋼を作るといったような決まったパターンではないのですね。情報産業部門もそうですけれども、どんなものが出てくるかわからない。環境型になるかもしれないし、生命型になるかもしれないし、社会型になるかもしれない。先がわからない。どこにどういう分野が伸展するかわからない。不透明ということをそういう意味だととらえたとして、ではそれに対応するにはどうしていかなければいけないか。  やはり基礎的なことをガッチリやって、学問が本当に伸展しないといけないわけです。本当に大学から新しい学問の芽が出て、それが社会に還元されていく。それが国際貢献にもつながるというふうになっていかなければいけないわけです。そのためには、時間とか制約に縛られて戦々恐々として、十分考える時間もなくものすごく忙しいという状況では、おそらくそういう本来の意味の学問は育たないんですね。ここ10年、20年と、私もいろんなプロジェクトに参加しています。それで国際会議に行って外国の先生に会うと、何で日本人はそんなにプロジェクトばかりやるんだ、基礎的なことをもっと続けたらいいじゃないかとよく言われるんです。外国人が見ても、そう思うんですね。  アメリカなんかは、そのプロジェクト型かと思うと、やはり基礎的な研究をしている先生がたくさんいて、そういうところから新しいものが出たりする。そういうふうに本来の大学の姿というものを抜きにして、外側の条件だけで規定してもっていこうとするところがいちばんの問題だと思います。  結局もっと細かい条件整備をして、われわれが本当の学問を伸展させていくことができる環境を作ることが大切です。最終的にはそのほうが本当に貢献するわけです。この「中間まとめ」に書いてあるような方向ではなくて大学人が作る方向が必要です。「中間まとめ」も当たっている部分もあるわけですけれども、大学人がわれわれの教育研究基盤を充実させるための運動をして、本当にいい研究をして社会に還元していく、社会のニーズに応えていく。そういうふうにもっていくために、いろいろ細かいことをたくさん議論して、提案していかなくてはいけない。このことがこの研究集会の一つの目的であろう。そこからわれわれの方針も出てくることを期待し、3日間、有効な議論が行われることを期待しまして、私の挨拶とさせていただきます。(拍手) 地元大学教職組あいさつ 一橋大学教職員組合 副委員長 只野雅人  一橋大学教職員組合の副委員長を務めております只野と申します。実は、本来でしたら委員長からご挨拶申しあげるべきところなのですが、あいにく委員長が不在でございますので、たいへん僣越でございますが私から開催校を代表いたしましてご挨拶させていただきたいと思います。  まず、このたびは私どもの大学で全大教の教研集会を開催できましたことをたいへん光栄に思っております。私どもの大学は、来ていただいておわかりかと思いますが、東京にはございますが、都心からの便があまりよくはございません。にもかかわらず、こうしたたくさんの方においでいただきまして、たいへん感謝しております。開催校を代表して、まずお礼を申しあげたいと思います。  こういう場をお借りして内輪の話をするのも少々気がひけるところがございますが、まず現在私どもの大学、そして私どもの組合が直面しております問題について、少しお時間をいただいてお話しさせていただきたいと思います。  ご存じの方も多いかと思いますが、実は私どもの大学では、教官だけではなくて、職員、学生も参加したかたちでの学長選考制度、学生部長選考制度をもっております。これは非常に歴史が長い制度で、もう50年以上にもなるものです。一橋ではよく「三者構成自治」という言葉を使うのですが、学長選考制度はまさにその「三者構成自治」の象徴であると思っておりまして、私どもの何よりの誇りとするものであります。また途中でいろいろ制度の改正などもあったのですが、その中でも私たちの組合の先輩たちが非常に大きな努力をされておりまして、その意味でも私たちの組合にとって、かけがえのない制度であると思っております。この制度は規約の中にはっきりと規定されております。したがって文部省から再三にわたってさまざまな圧力を受けてまいりました。特にこの20年ほどは学長の発令に際しては毎回その制度を検討するという約束をしたメモを提出して、何とか発令を受けるという状況がずっと続いてまいりました。  そしてついに昨年、大学の執行部のほうが、文部省の圧力に屈したとだけ言っていいのかどうかよくわかりませんが、規約から、職員と学生の参加を削りたいという提案をするに至っております。現在、私どもの組合、それから学生と大学の執行部の間でこの問題をめぐって折衝が始まっております。しかし状況は非常に厳しいものがございまして、学内では、今回もし制度を変えなければ学長発令の延伸もあるかもしれないというようなうわさも飛び交っておりまして、私たちとしてもいま非常に苦しい闘いを強いられております。表に立て看板がございますが、それも私たちの運動の中で出てきたものですが、そんな状況です。  なぜいま学長選考制度の見直しなのかということですが、ちょうど半年前、この同じ教室で大学執行部と教職員との間で対話集会というのが持たれました。そこでも出ていたのですが、学長とか執行部の側から、大学審の問題、それから独立行政法人化の問題、あるいは大学院重点化の問題、そういった問題があるので、いま見直しをする必要があるのだという説明が再三なされております。今日以降3日間、この教研集会の中でそれぞれの問題が重要なテーマとして議論されてゆくことになりますが、私どもといたしましても、選考制度の問題を通じて大学審をはじめとする問題と毎日向かい合っている、否応なしに向かい合わざるをえない状況です。  私たちの組合は数からいいましても、組織率からいいましても、必ずしも強力な組合というわけではありません。しかし選考制度の問題に限らず、大学の将来にかかわる非常に重要な問題である、また組合が勝ち取った制度である以上、何とか現行制度を守りたいと考えまして、いま組合員一同、非常に頑張って運動をしているさなかであります。ちょうどそういう時期に、私たちと同じような問題に直面されている、また同じような意識を共有できる皆さんにここにお集まりいただきまして、共に考え、あるいは議論ができるということは、私たちにとっては何よりの励みになるもので、たいへんうれしく思っております。私たち組合員一同といたしましても、大会の成功に向けて尽力する所存でございます。  この大会が、ここに参加されております皆様にとって実り多きものになるように心から願っております。  以上、はなはだ簡単ではございますが、開催校を代表しての挨拶とさせていただきたいと思います。(拍手) 来賓あいさつ 日本私大教連 書記長 西岡 進  日本私大教連の書記長の西岡です。全大教の第10回教研集会の開催に当たりまして、一言、連帯のご挨拶を申しあげたいと思います。  8月1日から3日まで私たちも、全国私大教研と略して言っておりますが、第10回を迎えた全国の私大教研を島根県の松江で開催いたしました。そのときに全大教加盟の島根大学の委員長にも連帯のご挨拶をいただきました。心からお礼を申しあげたいと思います。  その集会で私たちは東大の金子元久先生にお願いいたしまして、この「中間まとめ」に対する問題点について講演をいただきました。非常に明確で、参加者も感動いたしました。また、ちょうど「中間まとめ」が出た後の集会だったということで、非常に締まった集会になりました。  全大教もそうですが、私たち日本私大教連も8月20日に大学審議会に意見書を提出いたしました。先ほど委員長から挨拶がありましたが、大学、あるいは大学の組合は、8月はほとんど機能しない。だから20日までに意見書を出せというのはだいたい無理じゃないかということで、とにかく9月に入ってからということにしたらどうかという文書を送りましたら、翌日すぐ大学審議会から電話がありまして、26日に総会を準備している。ほかの団体にも皆、20日とお願いしている。だからとにかく20日に出してくれという紋切り型の言い方で、結局20日に出さざるをえなかったわけです。ですから十分問題点を出し尽くしたとは私たちは思っていないのですが、一つ申しあげたいのは、資料の中にも国大協の見解もありますが、私立大学の日本私立大学団体連合会というのがございます。これは私大連盟、私大協会、短大協会、五つか六つの私立大学の団体を統合したものです。ここがやはり声明を出しています。  いくつか申しあげたいのですが、たとえばその声明の中で、大学改革というのは、個々の大学の責任で、自主的、自律的取り組みに任せるべきだ。それから、何よりもまず高等教育全体の教育研究基盤の整備を図るべきだ。それから、高等教育に対する公財政支出率の割合を先進国並みにすべきだ。あるいは、教育方法等の改善というのは、法律等による規制ではだめだ、大学の自主的な努力によって実現すべきだ。組織運営体制の整備については、各大学の自主的、自律的な判断と責任において実施されるべきだ。さらに第三者機関の新たな設置には慎重な審議が必要だ。もし機関を設けるならば、自主的、自律的な組織とするべきだ。そのようなことを、いくつか言っております。  なぜこういうことを言うかというと、この意見書は、私たち教職員組合の見解と非常に共通点が多い。非常に支持できる点があると思います。その理由は、21世紀は大学に進学を希望する者はすべて大学に入れる「全入時代」を迎えるというふうに言っていて、そのときには、私学の相当部分が廃校、スクラップされるのではないか。いま私立大学では大学の存続か廃校かという問題がすぐ目の前にあるわけです。そのことは決して私立大学だけの問題ではなくて、日本の大学全体にかかわってくる問題です。私大の理事会はいま、そのことについてものすごく敏感になっていまして、98年の春闘でもたいへんなリストラ、低賃金、賃金の抑制というような攻撃がありました。そして私大団体の中で、何よりも、「中間まとめ」の言っているような管理統制的な考え方、これでは21世紀の大学の発展は見込めない。世界の大学の中でも、こういう「中間まとめ」が言っている方向での大学づくりでは、あるいは大学改革では、日本の大学の発展は望めない。そういうニュアンスの言い方もしております。  そして「中間まとめ」というのは、ご存じのように、これまでも大学審の答申にいくつかありましたけれども、明確に、大学淘汰はやむをえない。廃校、スクラップは当然だ、それを公然と打ち出した。そういう点で、私立大学の団体も、これは非常に問題が多いということを感じているわけです。  もう一つ、今回の「中間まとめ」の最大の目玉は、よく最大の目玉であると言われて、私もそう思いますが、大学は企業経営的運営を図りなさいということが中心的な内容である。したがって、そういうところから出てくるのは管理統制でありますし、大学、学部自治の否定でありますし、大学淘汰も必然だという方向だと思います。したがって、私たちの考える大学の運営方針とは真っ向からぶつかるということになるわけです。  いま私大団体連合の見解の内容を言いましたけれども、なぜ言ったかといいますと、私たちが組合を作って、長い間、私立大学は当然私的経営なのですが、公的教育機関でありながら私的経営であって、特に経営的運営が非常に先行する。理事会の独断専行。正当な発言をすれば解雇ということにもなる。それとの長いたたかいの歴史を積み重ねてきて今日の日本私大教連があるわけで、この「中間まとめ」が言っている経営的大学運営の否定的な部分、とても許せない部分が、まさに私たちの経験の中で実感として感じられるわけです。そういう点で、何としてもこの「中間まとめ」については改善を図っていく運動が必要ではないかと思っています。  そういう点では、私たちは私大団体がこういう見解を出したことは当然だと思う。「中間まとめ」に対する批判は、今後相当すそ野が大きく広がると思う。日本私大教連も、全大教の皆さんも、先ほど言いましたように意見書を大学審に出しておりますし、その内容は全大教の皆さんとの共通点が非常にたくさんあります。各単組が決議を上げて、意見書を出されて、大学審に送っておられるという、その活動には、私たちは敬意を表したいと思っております。私たちはまだ単組で上げたところはありませんので、その点については敬意を表しております。ぜひ全大教と日本私大教連、この二つの組織が中核となって、「中間まとめ」に対する批判、検討の声を大きく広げて、改善を求める運動を強めていきたい。1日も早く共同のシンポジウムとか集会を開催したいと考えています。  この3日間の教研集会でぜひ大きな成功を勝ち取られることを心から祈って、日本私大教連を代表してのご挨拶に代えたいと思います。ありがとうございました。(拍手) 一橋大学学長 阿部謹也氏 からのメッセージ  「全国大学高専教職員組合の主催による記念すべき第10回目の教職員研究集会が、全国の国立大学等から多くの参加者を得て、本学を会場として3日間にわたり開催されますことを心からお喜び申しあげます。  今日、国立大学を取り巻く社会情勢にはきわめて厳しいものがあり、国立大学の構成員一人ひとりが、21世紀に向けて、新しい開かれた大学を目指して、一歩一歩着実に努力することが強く求められております。  ときあたかも大学審議会は、「21世紀の大学像と今後の改革方策について」の中間まとめを公表し、この秋にも答申がまとめられる状況下にあって、まさに時宜を得た研究集会であると存じます。  今回の研究テーマは幅広く、多岐に亘っていると伺っておりますが、どうか参加者全員の英知を結集し、実り多い研究集会となりますことをご祈念申しあげ、私のメッセージといたします。 平成10年9月、阿部謹也」 全大教第10回教職員研究集会 基調報告 1998年9月 全国大学高専教職員組合 中央執行委員会 1.はじめに―この1年間の取り組み  いま、大学・高等教育は、そのあり方が鋭く問われる時代となっている。  その背景の一つは、大学および高等教育内部に原因を求めることができる。すなわち、科学技術が高度な発達を遂げ、著しく専門分化したこと、他方、生活水準の向上にともなって大学教育が「大衆化」し、かつてのような「エリート養成」を主任務とする場ではなくなってきたことと同時に、社会全体において「生涯学習」の要請が強く求められてきたところにある。いま一つの背景は、社会が直面するさまざまな病理現象に対して、大学がいかなる社会的責任を果たすことができるのか、あるいは果たさなければならないのか、鋭く問われているところにある。しかし、それらは「上からの」あるいは「外部からの」動きに突き動かされた他律的対応ではなく、科学的認識と思考に根差した、内在的かつ自発的な取り組みでなければならないことはいうまでもない。  ここでまず、大学を取り巻くこの1年余りの動きをふりかえってみよう。6月に成立した「中央省庁等改革基本法」では、内閣機能の強化と同時に、国家の総合戦略の一つとして、科学技術政策全般を司る「総合科学技術会議」の設置を定めている。そのもとに文部省と科学技術庁を統合して「教育科学技術省」が設置されることとなったが、それらの動きには、いわゆる21世紀戦略として位置づけられた「科学技術創造立国」路線に教育研究をも貢献させる目的がある。そのことは、文部省所管以外の法律に目を移し、「大学等における技術に関する研究成果の民間事業者への移転の促進に関する法律」や「研究交流促進法の一部を改正する法律」が相次いで可決されたことにさらに明瞭にうかがえる。  また、文部大臣は、大学審議会に「21世紀の大学像と今後の改革について」(1997年10月)を、学術審議会に「科学技術創造立国を目指す我が国の学術研究の総合的推進について」(1998年1月)をあいついで諮問した。とくに、前者については、6月30日に「21世紀の大学像と今後の改革方策について―競争的環境の中で個性が輝く大学−」として「中間まとめ」が報告され、10月下旬にも「答申」が予定されている。これらが、われわれに対して国民が負託した教育研究活動を実践すべき環境と労働条件に対して与える影響は、まことに重大である。さらに、昨年1月に出された「教育改革プログラム」は、「大学教員等の任期に関する法律(教員任期制法)」成立後の8月末に改訂されて、任期制の推進を盛り込んだほか、4月の改訂では4つの主要事項の一つとして「大学改革と研究振興をすすめる」を採り上げるに至っている。  このような動きに対し、全大教は主として以下の8つの取り組みを進めてきた。 @設置形態の変更を含む大学のありかた・大学管理運営体制   財政危機を理由とした「独立行政法人化」問題は、全大教の精力的な取り組みだけでなく、国大協・文部省・各大学が連携して反対声明や懸念を表明したことから、行政改革会議の最終報告では、「大学の自主性を尊重しつつ教育研究の質的向上を図るという長期的な視野に立った検討を行うべきである」との結論にとどまった。しかしながら、これを回避することを口実に、任期制導入や各種「改革」促進が画策されていること、大学審議会「中間まとめ」を先取りする形で、評議会・教授会の形骸化や学長・学部長の独断専行の傾向が生じていることが報告されている。 A教員任期制法の制定と任期制実施   昨年の東京外語大学・北陸先端科学技術大学院大学・群馬大学にはじまり、年度替りの時点で、十余りの大学で任期制が導入されたが、北陸先端科学技術大学院大学を除くと、大学院の特定の講座に限られるなど、その導入は一部にとどまっているが、楽観を許さない状況にある。また、注目すべきことは、いくつかの大学で、任期制検討委員会等を設けて問題点を実証的に検討した結果、「慎重な検討が必要」あるいは「自主的改革を進める上で導入する必要なし」などの結論を出している。 B教員養成系大学・学部の学生定員5000人減構想   政府・文部省は、1998年度から2000年度までの3年間で教員養成大学・学部での5000人の学生定員削減計画を決定、初年度の98年度には11大学1260名の削減が行なわれ、現在2年目に入っている。   全大教は、この問題に対して、諸会議や情宣活動等をすすめるとともに、政策的提起が重要との立場から、検討チームによる「教員養成系大学・学部学生5000人削減問題に関する政策的論点整理(報告)」をまとめた。   そのポイントは、「教育学部としての一体性」は守りつつ、今日における社会と大学の変化も社会と大学の変化もふまえ、「幅広い教育専門者の育成をはかる」というものであり、各単組では、この「報告」も活用されつつ、新たな「模索」がすすめられている。 C「産学協同」推進の新たな動き   「大学貧乏物語」と呼ばれる現状や、それぞれの地域の実情に応じた「望ましい産学協同」ともいうべきものがあることは否定できないが、それらが教育研究の主体性や大学自治に対し、どのような影響を与えるのかについて十分検討する必要がある。また、大学・高等教育について、校費2%削減の「超圧縮予算」と、先端的分野への重点投資が加速していることをふまえるならば、研究の主体性と大学の自治に基づく判断がきわめて重要である。   また、この間、2、3の大学で現職自衛官の大学院入学問題が浮上したり、就職難に乗じて公然と自衛官勧誘が行われるといった動きがあり、「産学協同」が「産官軍学協同」に発展しないよう警戒する必要がある。 D第九次定員削減「上乗せ」と「事務機構一元化」問題   「財政再建」とそれに乗じた公務員管理システムの「見直し」と関連して、全国の大学で「事務機構一元化」問題が浮上している。しかも、その多くが、学内の同意を得ないまま、実施されているという現状もあり、全大教の「事務機構一元化問題検討委員会」による「国立大学における事務組織、事務職員の課題(第一次案)」は、好意的に受け止められ、これに基づく討議が活発化している。 E成績主義をふくむ人事管理体制・賃金問題   成績率を拡大して勤勉手当を差別支給することについては、「評価システムが未確立のもとで職場に混乱をもたらすもの」と全大教は批判してきたが、6月支給分から種々の形で導入されている。また、高齢者の昇給延伸・停止年齢の引き下げについては、生涯生活設計への否定的影響など、絶対に認められないという立場から、大学ぐるみの運動を進めてきた。 Fユネスコ「高等教育教職員の地位に関する勧告」について   昨年11月の採択後、全大教による仮訳を単組に送付して討議を呼びかけているが、7月初め、外務省から正式文書が届いたため、運動全体にいかに反映するかについて、本格的な検討を開始する運びである。政府による翻訳作業や国会提出は来年の予定と伝えられているが、「中間まとめ」をめぐる討議とも関連して活用することが必要である。 G「大学改革・研究プロジェクト」の発足   「中間まとめ」など、大学政策全般の急速な展開に対して、中・長期的視野に立って、今後の大学のあり方についての政策的な検討を深めるため、今年2月、「大学改革・研究プロジェクト」を発足させ、現在、精力的に検討を進めている。   第10回教職員研究集会は「地球と人類社会の未来に向け、大学・高等教育の創造的発展を」と題して開催する。本集会は、上に述べたこの1年の状況と取り組みをふまえて、 (a)「中間まとめ」に対する実証的分析と批判を行いつつ、今後の大学のあり方について、政策的対置を目指すこと、 (b)基調報告、シンポジウム、各大学等における実践的な取り組みにもとづくレポートを総合的に検討・交流して、われわれの進むべき方向を明らかにしていくこと、 の2つを柱として開催する。 2.大学審議会「中間まとめ」に  対する分析と批判  ここでは、大学審議会「中間まとめ」について、その公表に至る背景、基本的特徴について分析と批判を試みる。 (1)「中間まとめ」公表の経緯と背景について  前述のとおり、昨年10月31日に開催された大学審議会総会で、文部大臣は「21世紀の大学像と今後の改革方策について」と題する諮問を行った。これは、日本が社会経済の著しい変化に適応して、21世紀においても創造性と活力ある国家として発展を続け、国際的に主要な役割を果たしていくために、その原動力たる「国際社会で活躍できる優れた人材の確保」や「未来を拓く新しい知の創造」に努めなければならないという見地から、過去10年間の大学改革を総括して「21世紀の大学像」を提示するよう求めたものである。さらに今後の方策として、@大学院、A学部、B大学の組織運営システムの諸点にかかわる改革を総合的かつ具体的に調査審議するよう求めている。  いわゆる「中間まとめ」とは、この諮問に対し「21世紀の大学像と今後の改革方策について−競争的環境のなかで個性が輝く大学−」と題して、本年6月30日に文部大臣に提出されたものである。この「中間まとめ」は、教育研究、大学の組織と管理運営、大学と社会の関係のありかた等、踏み込んだ提言を行っているが、基本的に「諮問」の要請に応える内容といえる。  1986年の臨時教育審議会答申で創設が提案され、翌87年に発足した大学審議会は、教育研究の「高度化」・「個性化」・「多様化」・「活性化」等をキーワードに、これまで21に及ぶ高等教育改革にかかわる答申・報告を行ってきた。しかし、この「中間まとめ」は、従来の答申の枠組みだけでなく、戦後の憲法・教育基本法体制の枠組みをも大きく踏み越える内容をもち、そのまま実行されれば、大学における教育研究と組織を根本的に変質させる性格をもつ。すなわち、「国家」的利害に偏した視点からの状況認識と、それを基礎とした「国家戦略」がその背景にある。その中でも、特に主要なものとして、@社会経済状況の変化、A「科学技術創造立国」論、B行財政改革と「独立行政法人」化問題への対応が指摘できる。それらは、おおむね以下のように整理することができる。 @社会経済状況の変化に対する認識   「中間まとめ」が強調する社会経済状況認識は、以下の4点に整理されよう。すなわち、1)世界的な「大競争時代の到来」と「キャッチアップ型経済の終焉」のなかで、日本経済の国際競争力を強化し「国際化」に対応しうる人材を養成する必要性、2)労働力の流動化、雇用形態・産業構造の変化等による新しい職業・人材養成ニーズと、生涯学習ニーズの増大への対応の必要性、3)学術研究の高度化・専門化と進歩の加速化、他方での学際化・総合化傾向への対応の必要性、4)進学率の上昇に伴う「大学の大衆化」・「学生の多様化」への対応の必要性である。この状況認識を踏まえながら、大学を含む高等教育機関には「社会経済の一層の高度化・複雑化に伴い、教育研究の質の高度化及び人材養成に対するニーズの多様化への対応」(15ページ)が求められている、と「中間まとめ」は述べている。 A「科学技術創造立国」論   この議論の基礎には、日本の科学技術が「フロントランナー」として未来を切り拓いていかねばならない段階にあり、経済の「メガコンペティション」のなかで新しい産業を育成しうるような独創的、先端的な科学技術の開発が求められているという時代認識がある。これは、@で述べた認識と重なり合うが、それ以上に「科学技術創造立国」を前面に押し出し、その観点から「21世紀の大学像」にアプローチする方法をとっている。また、1995年に成立した科学技術基本法は、「科学技術創造立国」に立脚した科学技術政策を具体化していくために「科学技術基本計画」の策定を義務づけているが、「中間まとめ」にも、96年閣議決定のそれがめざす「柔軟で競争的で開かれた研究環境の実現」「産学官の交流の促進」といった路線が反映されている。「流動化による研究教育の活性化」の名のもとに制定された任期制法も、この路線の上にあることは周知のとおりである。 B行財政改革と「独立行政法人」化   本年6月9日に、中央省庁を現行の1府21省から1府12省庁に再編することなどを内容とする「中央省庁等改革基本法」が成立した。この法律には内閣機能の強化とともに、「減量化」「効率化」の視点から行政組織を企画立案機能と実施機能に分離し、後者の機能を担う「独立行政法人」を創設することが盛り込まれている。われわれ大学関係者の反対運動もあって、今回、国立大学は「独立行政法人」化の対象からはずされたが、引き続き検討課題となっている。   こうした状況のなか、6月18日に開催された国立大学学長会議では、文部省の高等教育局長が「独立行政法人」化問題に言及し、「国立大学の設置形態を現存するためには独立行政法人のねらいである効率性の向上、透明性の確保などを積極的に実現していくことが極めて重要である」(『文教ニュース』98年6月29日)と指摘している。「中間まとめ」の背景には、このような「改革」圧力があると考えられる。   また「中央省庁等改革基本法」は、「総合科学技術会議」を内閣府に新たに設置するとともに、文部省と科学技術庁を統合して、新たに「教育科学技術省」へ改組、国立大学の教育研究について、「適正な評価体制及び大学ごとの情報の公開の充実を推進するとともに、外部との交流の促進その他人事、会計及び財務の柔軟性の向上、大学の運営における権限及び責任の明確化並びに事務組織の簡素化、合理化及び専門化を図る等の観点から、その組織及び運営体制の整備等必要な改革」を政府が推進する、と規定している(第43条)。これは、政府が大学の組織運営に介入する法的根拠を与えるものであるが、これが「中間まとめ」の「教育研究システムの柔構造化」や「責任ある意思決定と実行」等の記述に反映されていると思われる。  なるほど、「中間まとめ」が提起する個々の論点をとりあげれば、われわれに自省を促す指摘もないわけではない。しかし、これらが提出された背景とそれを貫く論理との連関の中で見ていかなければ、それらの意味する内容と真の狙いを見落としてしまうことになりかねないだろう。 (2)「中間まとめ」の特徴について @ 「国」や産業界が求める大学像   「中間まとめ」については、すでに全大教中央執行委員会「大学審議会『中間まとめ』に対する基本的見解」(1998年7月10日)が、その基本的性格を明らかにし批判を試みた。すなわち、「中間まとめ」が描く「大学像」は、科学技術政策の遂行や産業界が求める「人材」養成への貢献に重点を置く、きわめて偏った学問観と教育観を基礎としている。なるほど幅広い教養や教養教育の重要性を再認識するよう促した点は評価の余地はあるが、たとえば、たびたび登場する「個性化」や「多様化」も、日本の産業の国際競争力を強化するための学問研究や「人材」養成といった、国や産業界の要請を強く反映した特定の政策目的の枠組みのなかで、従来の偏差値偏重の枠組みに加えて若干の選択肢が付加されるにすぎない。 A 学生教育について   そういう認識の上に、「中間まとめ」が学生教育を論ずるとどうなるか。憲法と教育基本法から考えれば、教育とは、人類の福祉への貢献という見地から、真理と平和を希求する人間の育成と普遍的で個性ゆたかな文化の創造をめざし(教育基本法1条)、「国民全体に対し直接に責任を負って行われるべき」(同10条)ものである。これらもまた、歪んだ国家戦略の遂行に教育が従属した歴史的経験に基づくものであるが、こと大学についていえば、その教育の基本は、一国の利害をこえた人類社会に対し、普遍的価値を継承し発展させていく責務にある。しかしながら、「中間まとめ」には、憲法や教育基本法が尊重する個人の尊厳と人格の尊重、さらには、学生が教育を受ける主体とみなす視点はきわめて弱い。そのようなところで「学生教育の充実」をうたっても、それは「能力主義教育」への傾斜にしかならないのではないだろうか。現に、進級・卒業にあたっての成績要件や指導を強化するとともに、各種資格や能力認定試験等の成績を重視し、そのかぎりでの「教育の充実」を売り物とする大学が存在し、「中間まとめ」でもその教育実践が参照されたと思われるが、すでにそうした大学が、中学校や高等学校で表面化している問題状況を抱え込み始めている、との指摘は意図的に無視されている。 B「経営組織」的な大学像    「中間まとめ」は、大学における教育研究のみならず、組織運営のありかたにまで踏み込んだ改革提言を行っている。しかし、教育研究の自由が国家権力によって不当に侵害された戦前の歴史を踏まえて「学問の自由」を保障している(憲法23条)ように、教育研究の自由な発展は、外部からの干渉や誘導によるのではなく、あくまでも教育研究にかかわる人々の自主的内発的な営為を基礎に追求されるべき性質のものである。ところが、「中間まとめ」はこれとはまったく逆に、学長、学部長等のリーダーシップの強化、意思決定の効率化、学部教授会、評議会の機能や予算・人事に関する権限の縮小等を提起し、さらに進んで、法「改正」をも念頭に置いた内容の提言を行っているが、そこでは「自治」の理念は希薄である。このような提言の背景には、「人材」としての学生とそれを受容する側の企業を教育というサービスの受益者とみなし、それらサービスを特定の目的の下に効率的に遂行し、その成果を「評価」の対象とすべし、と捉える経営組織的な大学像がある。しかし、そのような「大学像」には、そもそも教育研究が自主的で内発的な活動である、という視点も、普遍的な価値や人格の尊厳への眼差しも見いだすことはできない。したがって、そこに自治的な文化とその形成を保障する制度への観点がないのも当然といえば当然であるが、ユネスコ「高等教育教職員の地位に関する勧告」が、「高等教育機関の自治とは、学問の自由が機関の形態をとったもの」と定義し、「いかなる勢力の侵害からも高等教育機関を保護することがユネスコ加盟国の義務である」と述べていること(X A.19)との隔たりはあまりにも大きい。 C 誰のための「ニーズ」か   総じていえば、大学の管理運営から教育方法に至るまで、詳細に提言を行っている「中間まとめ」の特徴は、政府による誘導のもとで、大学へ「市場原理」「競争主義」「企業経営的手法」を導入することと表現できる。副題にある「競争的環境」や、「ニーズ」「リーダーシップ」といった言葉、意思決定のありかたや教育研究の評価システムに関する言及は、こういう文脈との関連でとらえる必要がある。教育研究に社会の「ニーズ」に応える役割があることは否定しない。しかし、教育研究の価値が、「ニーズ」と合致するか否か、それも現存の社会において支配的な価値観と密着した特定の基準からみて役に立つか否かという視点で評価されるならば、「少数」とみなされる学問は存在意義を失い、学問の自由で多様な発展は阻害されることになろう。この点について、「中間まとめ」は明確な理念を欠くがゆえに、医療・福祉の領域において明瞭になっている「公共領域からの国の撤退」現象ともあいまって、「基礎研究」や人文社会系等の教育研究を、あげて「民間活力」に委ねようとしているのではないか、という疑念が絶えない理由となっている。それに加えて、これまでも「卓越した研究拠点」(COE)、大学院重点大学への支援・優遇措置がとられてきたが、それをより徹底させて、「中間まとめ」が、大学を多様なニーズを受けとめる中核的機関と位置づけ、独自の理念・目標から「個性化」を進めることを求め、「評価に基づく資源の効果的配分」という考え方から、「改革にとりくみその成果を挙げている大学等を重点的に支援していく必要がある」としているのは、大学の再編・淘汰につながりかねない動きである。 D 実証を欠いた「教員像」−条件整備こそ必要   しばしば「もっともな指摘もないわけではない」例として引き合いに出される、「大学教育は研究重視の意識が強すぎて教育活動に対する責任意識が低い」等、教員の現状に関する指摘についていえば、「中間まとめ」も認めるように、組織や個人レベルで授業方法の改革等の自発的な努力が広範に進められているが、「中間まとめ」はそれら実践を無視しているばかりか、そのような現象がどれだけ広範に見られるのか、なぜそういう病理が生ずるのかについて十分な論証を欠いている。むしろ、一部に見られる病理的現象を過度に一般化するものではないのか、という疑問が大きい。こうした見解の背景には、教育と研究とを一体として捉える視点の欠如がある。それに加えて、問題の解決をもっぱら教員の「意識改革」に求めているのは、「改革」や「定員削減」のなかで、多忙化を余儀なくされている教職員の実態を見ない空論というほかはない。そこでは、教育研究支援体制の条件整備こそ必要であるはずなのに、そのことについては通り一遍の指摘だけで口を拭い、何ら抜本的な改善が提言されていない。さきにも引用したユネスコ勧告が、高等教育教職員の教育・研究の自由は、「働く環境からの援助があってはじめて」正しく遂行される、と明確に規定していること(Y 27.)、それを受けて、採用、雇用条件、給与、労働量から職務の遂行とその評価、懲戒に至るまで詳細な規定をおいていること(V 雇用の期間および条件)と比較すると、「中間まとめ」の現状認識の非科学性は明らかである。これに限らず、これまで指摘してきた従来の文教政策や大学審議会の答申に関する問題点の総括も不十分なら、各種の病理現象がそれら政策の失敗の結果ではないのかという指摘に答えるところもほとんどみられない。それは、「中間まとめ」が、全体として「問いをもって問いに答える」式の、基本的に文部省の要請に沿った内容であることに端的に表れているが、それは文部省に対して、大学審議会が「自律性」を確保していないことを露呈するものといわざるをえない。   教育研究条件を低下させないための方策については、事務の合理化、専門化を図るという指摘にとどまっており、教員組織の連携協力のあり方についても、定員増についても何ら積極的な提言を行なっていない。しかし、単に効率性等の視点だけでは教育研究の向上は期待できない。教学組織と事務組織等の連携のあり方が模索される必要があろう。   国民の負託を受けたわれわれがめざすべき「改革」は、法律や「競争原理」の導入による「強制」や「誘導」によるものではない。われわれの基本的立場は、あくまでも教育研究は自主的内発的な活動であり、「学術は人類を救う」という人類社会的視野に立って発展させられるべきものであるという視点から、教育研究の現場で働くわれわれ大学人の「主体性」と「自治の力」に依拠するところにある。そうした改革の遂行のためにも、「主体性」が発揮されるための条件や今日的な自治のありかたについて議論を深めていく必要がある。 3.あるべき大学・高等教育の理  念をめぐって なぜわれわれは「理念」にこだわるのか  高等教育にかぎらず、教育の理念と改革の方向性とを定めるのは難しいし、各人各様でもあろう。にもかかわらず、今回の教育研究集会の開催にあたって、本報告があえて「理念」を提示しようとしているのは、大学・高等教育をめぐる問題状況の指摘が共通であるとしても、よって立つ理念のいかんによって、解決の方向と道筋がまったく異なってくるからであり、当然、もたらされる結果も大きく異なるからである。 憲法・教育基本法に立ち返る  今回の教育研究集会においては、そのような社会の趨勢に対抗して、あるべき高等教育像を描き出すことを目標とするが、そのよって立つ理念として、本報告でも再三ふれてきたとおり、今ふたたび、憲法と教育基本法が掲げる権利と理念とを出発点として掲げたい。  それは、もともと西欧的価値観に貫かれたものではあったが、過去数百年にわたっての歴史の検証を経て、一応の普遍性を獲得していると考えられること、この日本においても、わずか半世紀足らずではあるが、その価値観を受容したことが、さまざまの問題をはらみながらも、人々に自由と平和と幸福とをもたらしてきたことを率直に認識するからである。そして、それら価値観の「見直し」ではなく、さらなる実現こそが人類が達成すべき方向性を指し示すものであることに異論のある向きは少ないだろう。その理念にしたがって大学・高等教育機関のあるべき姿、その活動のあれこれ、そして意思決定のありようを捉え返す試みを追求したい。そこでは、学問の自由や大学の自治は「守るべき」ものであるにとどまらず、現代という時代に対するリアルな認識をふまえて再構築されるべきものである。それを広く国民に問いかけることによって、時代を切り開き、状況を打開するエネルギーを供給することが、われわれに課された責務ではないだろうか。  そこで、われわれの原点であるとともに、めざすべき価値でもある憲法・教育基本法について、あらためて確認しておこう。  日本国憲法は「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については……最大の尊重を必要とする」(第13条)と、個人の尊重を基本理念として掲げているが、これは当然に個人の発達する権利をも保障するものと理解されている。また、一方、学問の自由の保障については、特に一条をあてているが、これは、学問研究が精神的活動の中でも、真実と真理を探究して人類の未来を切り拓くという、特に高度で重要な位置を占めるものと理解されるからである。それだけに、その活動が権力的な介入や干渉によって容易に傷つけられやすいことは歴史の示すところである。これらが、高等教育研究機関に対して、高度の自治を保障する理由と考えられている。さらに、教育に関しては、憲法を受けて教育基本法が定められ、その前文は「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない」と謳っている。ここにも、「個性ゆたかな文化」にしてからがア・プリオリに存在するものではなく、真理と平和を希求する尊厳ある個人を立脚点とすべきことが明瞭に理解できる。 時代の変化と理念の再構築  もっとも、かつて憲法・教育基本法に立脚した大学の自治論が唱えられた時代と比較するとき、現代の大学・高等教育研究機関をめぐる状況は大きく変化している。ここで、その差異のいくつかを指摘しておきたい。 (1)「産業界の要請」の変化  一口に「産業界の要請」といっても、重厚長大型の装置産業が経済成長の主動因であった時代のそれと、今日のそれとが様相を異にしていることに注意する必要がある。重厚長大型の産業が、今日もなお、産業界の重要な一員であることは無視できないが、その一方、経済のソフト化、サービス化といわれる現象を見逃してはならない。その輪郭はなお不明確であるばかりでなく、そのような動きが「理工系離れ」やバブル経済をもたらしたのではないか、という指摘はしばらくおくとしても、かつて、重厚長大型の装置産業においては、ごく少数の(エリート)管理職員と均質で大量のラインワーカーといった労働者の種別が重要であった。そして、前者に対しては、独創性・創造性が要求されても、後者に対しては、効率的な事務ないし業務処理能力がもっぱら要求された。したがって、主たる関心としては、後者をいかに安価に養成するかが大学等に対しても求められてきた、という経緯があった。しかも、日本の産業界全体がセカンド・ランナーだった時代が長かったために、前者に対する独創性・創造性の要求も、今日ほどに切実なものではなかった。  ところが、ソフト化・サービス化・国際化と呼ばれる経済の現状は、ソフトウェアやコンテンツ産業に典型的に見られるように、個人の独創性・創造性が直接かつ決定的に産業のパフォーマンスを左右すること、さらにそれが産業の各分野に拡大する傾向を見せていること、しかも、経済における「ボーダーレス」化の進行が、国際社会において通用する「個性」を要求することから、産業界からも「“指示待ち人間”ではダメだ」という声が上がることになる。また、かつてはごく少数のエリート集団にのみ特権的に「個性」を承認していれば事足りたのに対して、独創性や創造性といった「個性」が経済のパフォーマンスを決定する事態は、そのような「個性」の持ち主を大量に養成する必要性を生ずる。当然、そのような「個性」の発現には、専門的知識はもとより幅広い教養が必須であり、「中間まとめ」があえてサブタイトルに「個性」を掲げ、教養教育の重視を唱えなければならなかった背景に、そのような事情を考慮しておく必要があるし、逆に、そうした事情が、今日の大学政策を指して、単純かつ図式的に“種別化・序列化”を論じにくくしているとも考えられる  勿論、そこで求められている「個性」とは、あくまでも現存の価値観が承認する枠内での「個性」にすぎないが、いったん承認された「個性」が真の意味の個性に転化する可能性もまた否定できない、という矛盾した状況も生じうる。そこでは、どのような条件を整備し、どのような主体的取り組みを行なえば、「個性」を個性に転化するのかを解明する必要がある。 (2)人類社会のパラダイム・チェンジ  上記の点とも関連するが、財貨やサービスの生産と配分の量的な拡大を至上命題とする現代社会が、その行き詰まりの様相を明確にしていることに改めて着目しておく必要がある。地球温暖化やダイオキシン禍に示される地球環境問題はその一端を表している。それだけではなく、物質的な富をある程度達成した社会で疎外や精神的荒廃が指摘され、公共的関心事への興味が減退するという現象が指摘されるのもその一つである。  これら現象を統一的に理解し、それを克服するための方策を体系化し、政策化するかについては、なお暗中模索の段階にある。そのようなパラダイム・チェンジの必要性が認識され始めていることも、数量的に測定可能な事務ないし業務処理能力にとどまることなく、新たな価値を創造する「個性」待望論につながっていくと考えられる。このような社会において、あらたな価値を創造し、それを実現する方策を明示する役割は大学・高等教育をおいてほかにはないが、それが大学・高等教育を管理の対象としてのみ捉える、かつての「大学管理」的発想との差異を生んでいると見ることができる。その一方、「一定の役割」の承認は、端的に大学の「パフォーマンス」を「評価」するという立場を生みやすいが、ここでもまた、そのように承認された「大学の役割」を、われわれのかかげる普遍的な理念に転化するために、どのような取り組みが可能または必要か、という問いかけが生ずる。  それ以外に重要な点として、今日的な大学自治のあり方、大学と社会との関わり等も探求すべき課題としてあるが、それらは後述の「4.あるべき大学像に向けた若干の論点」で提起することとしたい。 (3)実現するための具体的方策  いかに大学・高等教育機関の理念を唱えようとも、それを実践する主体は具体的な生活環境の中に生きていることに注意しなければならないし、大学という組織もまた制度的・財政的な枠組みの中に存在することに注意しなければならない。すなわち、憲法・教育基本法の理念といえども、それを実現するのは個人であって、それぞれ異なる個性と生活環境の中で具体的に生きているのであるし、大学もまた具体的な制度なくして存立しえない。すなわち、個人のレベルでいえば労働条件・勤務条件・待遇及び教育の機会均等を保障しうる学費の低額化が、大学という組織のレベルでいえば、それに対する財政的措置を合わせて論じていかなければならない。これはユネスコ勧告が再三にわたって指摘しているところであるが、身分・待遇の安定なくして教育研究水準の向上はない、あるいは、大学には公の資源が優先的に配分されなければならないといった指摘は、現在の日本の状況を考えれば十分な意味をもっている。 4.「あるべき大学像」に向けた  若干の論点  われわれは憲法・教育基本法を座標軸としながらも、大学をめぐる環境も大学の組織も複雑化した今日的な基盤のもとで、主体的自律的な営為を基礎に望ましい大学のありかたを模索していかねばならない。ここではわれわれの「あるべき大学像」について考えるうえでの若干の論点を提起したい。 (1)教育研究のありかた  ここでは教育研究のありかたを考えるうえでの論点を提起したい。  第1に、教育研究の基本的性格をめぐる論点である。教育研究の性格は学問分野によって多様であるし、歴史的に変化しうるものであろう。しかし、憲法23条が「学問の自由」を保障しているように、教育研究の基本的性格は、自主的内発的な営為を基礎とした精神活動である点にある。仮に教育研究の性格が特定の政策目的を実現するための他律的活動に変質させられるならば、学問の多様で自由な発展は阻害され、そのことはその社会における思想や文化の多様性、自由で創造的な発想や批判精神の衰退につながりかねない。それは結果的には、民主主義的な制度や文化、社会全体としての健全な発展にとってマイナスに作用すると考えられる。また研究活動は分野によって差異があるとはいえ、本来創造的な精神活動である限り、研究遂行においては長期的な視野が求められ、その過程は試行錯誤の連続である。したがって短期的な業績主義は、そもそも研究活動の性格になじまず、むしろ独創的な研究の可能性を阻害するものである。  第2に教育研究の目的をめぐる論点である。教育基本法は、前文において「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成」「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造」をめざす教育の普及徹底を謳い、教育の目的を「教育は人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」(第1条)と規定している。このように教育基本法等が教育研究の目的を普遍的見地から規定しているのに対して、「中間まとめ」のそれは、「科学技術創造立国論」という政策的枠組みのもとに目的をかなり限定してしまっている。さらに評価システムに基づく戦略的資源配分によって、教育研究の目的を特定の目的に誘導する仕掛けまでも提起している。こうした教育研究の目的の国家による「誘導」は、学問の自由で多様な発展とそもそも両立しえないものである。目的の設定それ自体が主体性、自律性を基礎になされる必要がある。  第3に、教育と研究の一体性をめぐる論点である。「中間まとめ」では、教育研究の質の向上について提言を行っているが、そのほとんどが教育の質の向上に関するものである。確かに授業方法等に改善や工夫が必要なのは否定できないし、われわれ自身が主体的に取り組むべき問題である。しかし、「中間まとめ」には、教育と研究を一体としてとらえる視点が欠落している。学校教育法が大学の目的を「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする」(第52条)と規定しているように、大学は本来、教育と研究が一体として行われる場なのである。むしろ教育の質の向上と研究の質の向上は相互に切り離せない関係にあることを認識すべきである。学問の本質が深い洞察力を要する真理の探求であり、研究活動がその絶えざる探求の過程であることからすれば、そうした学問の教授内容の質(水準)は、それを教授する教員の研究の質(水準)によって確保されると考えられる。すなわち、研究の質の向上と同時に授業方法等技術面の工夫・改善を行うことによって、教育の質を高めていくという視点が必要である。その際、個人の努力を基礎としながらも、教員集団内で教育・研究の質をお互い高めあう価値観・規範が日常的に共有されていくような自主的自律的な取り組みのありかたについても検討する必要があろう。  第4に、教育研究の質を高めるための教育研究支援体制をめぐる論点である。「中間まとめ」も、教育研究支援の役割を担う事務組織について言及している。しかし、それは合理化や効率性の視点に偏した問題提起といわざるをえない。すなわち、「経営組織」的発想から、いかに業務を合理化し効率化するか、事務職員に民間企業等における研修を通じて、いかに「経営マインド」を持たせるかといった視点であり、大学の事務職員労働の有する専門性をいかに発揮させ、高めるかといった視点はきわめて弱い。すなわち、1987年の臨教審「第三次答申」(1987年4月)ですでに事務職員を「専門職」として規定し、研修の重要性が指摘されているにもかかわらず、その具体化をしてこなかった反省がないのである。大学の事務職員の労働には、教育研究支援労働といった専門性の側面があることからすれば、そうした専門性をいかに向上させていくかという視点と方策が求められるはずである。教育研究の質の向上には教員と教育研究支援を担う事務職員との連携が必要であり、そのためにも事務職員の教育研究支援面での専門性を高めていく必要がある。時に職場では教員と事務職員との間で、お互いの職務に対する無理解から不信感が生ずることがみられる。定員削減や事務一元化・集中化のなかで多忙化が余儀なくされている現状ではなおさらである。教育研究支援を担う事務職員の専門性には、教育研究に対する理解と「学問の自由」の見地からの広い視野が求められているといえる。そのためにも、そうした大学事務職員としての専門性の向上を保障するような方策、例えば研修制度の整備等が緊要の課題である。教員に対して教特法があるように、事務職員についても研修制度を含め専門性の向上を保障するような法制度の整備が検討される必要がある。また事務職員の専門性の向上のためにも、定員増をはじめとした労働条件の向上が必要である。なお事務職員の専門性の向上は、働きがいの向上やモラール・アップにもつながると考えられる。 (2)今日的な大学自治のありかた−自治の制度化をめぐって  「中間まとめ」は経営組織的な「大学像」から大学自治に対して挑戦しているが、単に自治を守れというだけでは有効な対抗軸にはなりえない。われわれ自身が主体的に今日的な自治のありかたを対置することが求められているといえる。  確かに学校教育法や教育公務員特例法における学部教授会、評議会等大学管理機関に関する規定は、制度としての自治を法的に保障したものといえる。しかし、法律によって保障されているとはいえ、各大学の慣行によってその制度の機能の実態は多様であるし、自治が内部から形骸化している大学もあろう。自治を所与のものとしてとらえるのではなく、いかに自治を実情に応じて制度として確立していくか、すなわち制度化していくかという視点が必要である。以下、自治の制度化をめぐる論点について検討したい。  第1に自治の制度化の基盤となる組織論をめぐる論点である。自治を制度化していく場合、学部教授会自治を基礎にするとしても、各部局間、教員、事務職員、図書館職員、技術職員等多様な職種間の利害をいかに調整するかという問題、管理運営への参加から排除されている事務職員等を自治のなかにどう位置づけるのかという問題は避けて通れない論点である。また学長補佐体制を自治との関連でどう評価するかという問題も重要な論点であろう。このように組織が複雑化し、構成員間のコミュニケーションや利害調整が困難となった状況のなかで自治の制度化を考える場合、学部教授会や評議会の機能を強化せよというだけでは不十分である。学部自治を基礎としつつも、組織内の多様な構成員間のコミュニケーションを図りながら意思を集約し利害を調整し、学長・副学長、学部長、事務局長等の専制的な「リーダーシップ」を牽制しうるような組織全体としての自治の制度化が求められているといえる。そのためにも、全体としての自治との関連で、各組織・構成員間の位置付けと関係性が整理されなければならない。すなわち、自治の制度化の基盤となるような組織論の構築が求められているのである。  第2に自治意識をめぐる論点である。自治の制度化のためには、その担い手に自治意識が共有されておく必要があるといえるが、教員の間でも自治意識が希薄化しているというのが現状であろう。したがって、いかに自治意識を高揚させていくかということが問題となる。日常の職務や意思決定を通じて、そうした自治意識が形成されていく必要があるが、他方で、組合が職場で交渉機能を強化していくことや組合を基盤に多様な構成員が交流しあい自治をめぐる議論をつくりだしていくことも、自治意識の高揚に結び付くと考えられる。  第3に自治を制度化する方向での「リーダーシップ」をめぐる論点である。「リーダーシップ」は何も学長や学部長のみが発揮するものではない。組織の構成員のだれもが発揮しうるものである。学長や学部長等執行機関の「リーダーシップ」についても、単純にそれを否定する必要はない。問題はその「リーダーシップ」が、広く情報を公開し民主的な合意を形成する方向で、自治を促進する方向で行使されているか否かである。他方で当然、自治の担い手である教員等構成員が自治を制度化する方向での「リーダーシップ」、すなわち職場で民主的な議論をつくりだし、民主的な合意形成を無視したリーダーシップを牽制しうるような「リーダーシップ」を発揮していく必要がある。そして、われわれがそうした「リーダーシップ」を発揮する能力をいかに形成していくかということも大きな論点である。自治意識と同じように、組合にも構成員の「リーダーシップ」能力を高めていく役割が期待されているといえる。 (3) 大学と社会  大学と社会との関係について3つの角度から論点を提起したい。  第1に大学における教育研究とその受益者との関係をめぐる論点である。すなわち、教育の受益者はだれかという問題であるが、教育の受益者の範囲は授業料を支払う学生や、「学生=人材」の「需要」側である企業に限定されるものではない。社会全体が教育の受益者なのである。すなわち、社会全体の教育水準の向上は、その社会の産業発展のみならず文化の発展につながることからすれば、社会は直接の受益者である個人に帰属する以上の利益を受けることになる。こうした見地からすれば、「中間まとめ」は、余りにも「人材」や「研究成果」の需要側の産業界の要請に強く傾斜しているといわざるをえない。また近年の学費値上げの背景にも、社会全体を教育の受益者とみなす視点の欠落がある。  第2に産学協同と「学問の自由」との関係をめぐる論点である。大学における教育研究が科学技術や産業の発展に貢献する側面があることや、一定のルールのもとで大学が企業との間で共同で研究開発等を進めること自体を否定するものではない。しかし、「産学協同」が「学問の自由」「大学の自治」や研究者の主体性、自律性そのものを否定する方向で機能するとすれば問題である。例えば「産学協同」の新しい動向として、本年4月に成立した「大学等における技術に関する研究成果の民間事業者への移転の促進に関する法律」をとってみても、「学問の自由」や「大学の自治」との関連で大きな問題があるといわざるをえない。すなわち、この法律については、大学自治の重要な構成要素である評議会や教授会等における承認の手続きや十分な情報公開なしに民間企業への「技術移転」が行われたり、技術移転を行う研究者自身が研究者としての主体性、自律性を失い企業と一体化してしまう可能性をはらんでいるといった問題点が指摘できる。これは大学と産業界がそれぞれ自立した関係で協力するといった性格のものではなく、両者がいわば一体化した「産学融合」とも表現しうる性格のものである。こうした新しい動向も踏まえ、「産学協同」に対して「学問の自由」の見地から従来から主張してきた自主・民主・公開の機能を今日的に発展させていく必要がある。  第3に、大学の社会的役割をめぐる論点である。大学が社会的存在であり学術・文化の中心である以上、社会経済構造の変化がもたらす諸問題、人権や平和、貧困、地球環境問題、様々な社会病理現象等に対して無関心であっていいわけではない。むしろ、憲法・教育基本法の理念からすれば、国家的利害や産業界の利害から自立した大学こそ、普遍的見地からそうした社会的人類的課題の解決のために貢献しうる立場にあるといえる。まず、われわれ自身にそれぞれの学問分野の立場から、社会に対して個人として組織として積極的に発信していく姿勢が求められているといえる。  今日の人類社会の中で、大学・高等教育のあり方が鋭く問われている。  私たちは、大学審議会の描く「21世紀の大学像」に対置し、本基調報告も含め、、大学人の中で大いなる議論を展開し、主体的創造的に自らの大学像の探求をすすめるものである。 シンポジウム 報告1 今日における大学・高等教育と 社会との関わり 加藤重樹氏(京都大学大学院理学研究科教授・理論化学)  京都大学理学部の加藤と申します。いまご紹介にあずかりましたように、全大教の改革プロジェクトのメンバーの一人です。皆さんが忙しいので日曜日しか会議がもてないのですけれども、度々日曜日に東京へ出て来て会議に参加させていただいています。実は改革プロジェクトというのは今回で第3次になるわけで、私は前回の第2次、5年ぐらい前になると思うのですが、そこから参加させていただきまして、2次、3次とプロジェクトのメンバーです。  先ほど紹介していただきましたけれども、考えてみますと、私はいま京都大学にいますけれども、実は京都大学が4回目の職場です。大学院を出てから、国立の愛知県岡崎市の分子科学研究所というところで研究していました。その後、名古屋大学におりまして、それから東京大学へ来ました。そして現在、京都大学にいるということで、ある程度いろいろなところのことを見聞きしてきているということがあったので、出て来るようにということだったのだろうと思います。  今日、話をさせていただきますのは、改革プロジェクト第3次といいますけれども、実際にはいろいろな議論、あるいはいろいろな方針等について研究なり討論をしているわけですが、なかなか皆さんにその成果を返すことが十分にできていないのではないか。そういうこともありまして、現在改革プロジェクトで話し合っていることの一端について、簡単に紹介させていただきたいと思います。  私は理科系なのでOHPがないと話しにくいので、OHPを使わせていただきます。まず6月30日に、先ほども報告にありましたように、大学審議会の「中間まとめ」が出されました。これにつきましては全大教からもそれについての見解が出ていますし、今回の教研集会の中心的なテーマですので、詳しく言いませんが、この中にどういうことが書いてあるか。この「中間まとめ」を読んだときの感想ですが、非常に乱暴な議論をしているわけです。われわれに関係するようなことを言いますと、はっきりと論証もせずに「意識改革が足りない」とか、あるいは「教育もせずに研究ばかりやっている」とか、そういうふうなことが言われている。いろいろ聞きますと、それは大学審議会の中で特に産業界の代表者が、そういう大学の教員像を持っていて、かつての国鉄がやられたような雰囲気でやっている。そういうことがあるわけです。  それに対して、この前、国大協は今回の「中間まとめ」について、21世紀の大学像が現れていないということを言った。ある意味では非常に当たっているわけですけれども、もう一つわれわれが言いたいのは、この「中間まとめ」そのものが大学の現状もあまりよくわかっていない。そういうところに基づいて論を立てているのではないかと思うわけです。  話を本論に戻します。「中間まとめ」の中でいろいろ議論されていますが、特に特徴的なことは、国立大学が果たすべき機能ということで、5点についてまとめてある部分があります。その1番目は、国家の政策目標に沿った教育・研究の推進、具体的には理工系人材の養成。これは科学技術創造立国です。それに基づいてやっていくということが1点目で、いちばん大きくうたわれています。  2番目が学術や文化の面から重要な学問分野を継承していくというようなことが書いてあります。後でお話ししますが、実際にはここにはあまり重点は置かれていない。3番目に、社会の変化や学術研究の進展に応じた先導的、あるいは実験的な教育・研究の実施。具体的な例として通信衛星大学間ネットワークをやっていく。すなわち国立大学を一種のプラントみたいに考えて、いろいろなものを動員してくる。現在でも、国立大学のいくつかにはスペース・コラボレーション・ラボなどのシステムが入っていますけれども、ほとんど教育とか研究に使えるような技術的段階に達していない。けれども、非常な予算と教員や職員の労力を費やしてやっていくということです。4番目の問題は地域に密着した教育・研究をする。5番目に、一般論として高等教育を受ける機会の確保、特に経済的な理由によってそういう機会が失われないようにする。  一応そういうことが書いてありますが、この中で、やはり1番目の問題が非常に強く前面に出ているわけです。特に、そこでこういう書き方がいいのかなと思うのですが、その機能を十分に果たしていない国立大学は、適切な評価に基づき、大学の実情に応じた対処転換を検討していく。そういうかたちで、大学を彼らなりに再編していくという非常に強い意思がこの中に現れています。  改革の方策としては、学部教育の問題、あるいは大学院、これは2010年に25万人規模にしていくということが言われています。もう一つは、後でもお話があると思いますけれども、大学の自治、あるいは組織運営形態について手を打っていく。  この背景には、先ほどから議論されている科学技術創造立国政策がその背景にあるということは明らかだろうと思います。では科学技術政策というのは現在どういうかたちで展開しているのかということですが、これは1995年11月に科学技術基本法が成立しまして、それを受けて96年7月に科学技術基本計画というものが出されています。これは96年時点から10年間を見通して、特に平成8年度から12年度の間の5年間にどういう施策をするのかということが、かなり具体的に書かれているわけです。  一つは、欧米からの「科学技術基礎研究タダ乗り論」とか、あるいは日本のいまの企業の状態などを見てもよくわかりますけれども、今後生きていくためには技術開発が必要である。そういうところから政府の研究開発投資を21世紀のはじめまでにGDP比で欧米主要国並みにする。だいたい2倍にするということが盛られているわけです。実際にこれを調べてみて驚くわけですが、平成7年から12年の間に17兆円を科学技術政策費として投入する。額を調べてみますと、たとえば1996年(平成8年度)は3兆弱が科学技術予算として使われている。1998年(今年度)は3兆6500億が科学技術で使われている。12年までに17兆というお金を使おうと思いますと、2000年に4兆7000億、5兆近い金が科学技術の費用として使われることになります。  われわれ全大教も、日本は欧米の諸国に比べて高等教育、あるいは科学技術に関する政府支出が非常に低い、それを上げるべきだということを主張してきたわけですけれども、金額の面ではかなり、といってもまだまだほかの国に比べて高いわけではありませんけれども、非常な速度で、こういう方向へ予算が投下されているというのが現状なわけです。  われわれが問題にするのは、これだけ予算を投下して、どういうかたちで使われているのか、そこをわれわれ自身で考えて、われわれの提案をしていく。あるいは問題点があれば指摘していくということを改革プロジェクトで考えてみたいということがあって、議論もしているわけです。  では具体的にはどういうことをしているのか。これにはわれわれが実際に大学で日々感じていることが全部入っているわけです。こんどの「中間まとめ」にも入っております。一つは、研究者の養成、研究開発システムを整備していくことです。ここ数年間で大学院生の数が倍増以上に増えています。  それと、ポスト・ドクターの1万人支援計画。何と1万人とはすごいと思っていますけれども、今年だけでも9600人がなっているというのが現状です。  それと、大運動をしました任期つきの任用です。これは国立系研究機関、たとえば私の研究所のドクター・コースの人が、国立の試験研究機関に行こう、応募しようとしたときには、ほとんど全部任期つきの雇用になっています。国立大学についても一部に導入されている。  もう一つは、今回の大学審答申の「中間まとめ」で出てきましたように、研究組織の柔軟な運営、学長や所長の指導力による柔軟な運営をしていく。それと評価の実施。要するに、科学技術基本計画の中に載っているものがすべて大学政策の中に直接入ってきているというのが特徴ではないかと思います。  もう一つ書いてあります。これは研究開発基盤の整備・拡充ということです。最近はインターネットとかそういうものが発達しまして、たとえば科学技術庁とか、あるいは文部省のホームページを見ますと、非常にたくさん統計資料が載っています。昨日、文部省のホームページを見てみますと、国立大学の建物のうち、25年以上経過して建て替えの対象になっている建物が五十何パーセント、60%近い数になっている。その数かどうかはわかりませんけれども、科学技術基本計画では1200万平米を整備していくということが書いてあるわけです。しかし現状ではほとんどその個々については手がつけられていない。  そういうなかで、たとえば私は京都大学の理学部にいるのですが、私が就任した4年ぐらい前に更地になった場所が、いまだに更地のままで建物が建てられずに駐車場になっている。そういうことが現状では起こっているわけです。  それと大学院の重点化で大学院生の数が非常に増えていますけれども、その学生たちの机を置く場所もないという現状になっている。このへんにはほとんどお金が使われていない。  3番目の問題としては、多元的な研究資金の拡充ということをうたっています。これは一つは皆さんご存じだと思いますけれども、平成8年度から特殊法人、学術振興会とか、あるいは科学技術振興財団を使った新たな研究経費が導入されています。あるいは科研費を充実する。あるいは科学技術振興調整費、あるいは民間活力、「産学協同」を進める。そういうことがうたわれていて、これが現在、「科研費」Bはほとんど手が付けられていないのですけれども、AとCについては着々と進んでいるというのが現状ではないかと思います。  われわれの改革プロジェクトで一つ議論をしていますのは、ある意味ではこれは高等教育に関するお金、もちろんわれわれの給料も入っているわけですけれども、そういうものがこういうかたちで増加している。ところが実際にどういうかたちで使われているのかということでは非常に問題がある。そして、こういうかたちで使うべきだという提案ができれば、もう少し全大教の運動の幅も広がるのではないか。そういうことを考えているわけです。  ではこういう予算がどういうかたちで使われているかということを調べてみたものがあります。これが科学技術関連予算です。たとえば平成10年度の科学技術関連予算は3兆6500億という非常に大きな額です。その中で一般会計がだいたい2兆円、そのうち科学技術振興費が約1兆円、その他が1兆弱、9000億ぐらい。特別会計が約1兆7000億、それがどういうかたちになっているか。  実は今年度のものはわからないのですが、平成9年度の資料、これは文部省のホームページから取ってきたのですが、それによると、これは文部省関係だけですが3000億の間で、こういう形で使われている。特別会計のほうは、ここはわれわれの積算校費等、そういうものについても、われわれの給料もそうですが、こういうものに入っているということです。あとは施設費ですが、この額では、今、老朽化した建物を替えていくのに、一つの建物にだいたい40億ぐらいかかりますから、全然足りない。そういうかたちになっているわけです。  では特に研究に関係するようなところはどうかということですが、それについても、ある程度わかっています。これは数日前ですが、平成11年度の科研費の申請の手引きみたいなものが回って来まして、その中に平成10年度の科研費はどういうふうになっているかということが書いてあるわけです。これを見ますと、ほとんどの方がご存じだと思いますけれども、科研費というのはいろんな費目があります。その中で基盤研究と言われるもの、これは通常の研究を進めていくための経費で、A、B、Cがあります。プロジェクトでない研究はこれぐらいの額。奨励研究というのは若手研究者、35歳以下の研究者の方が対象で、551億と86億、これが通常の研究に使われる科研費になっています。  そのほかいろいろなものがあります。たとえば特定領域研究、これは去年までは重点領域研究と言っていたものですが、これが223億、特別推進研究が約30億、これは公募型です。それから、現在同じ時期に公募しないものとして、「COE」の形成費が72億、それから創造的基礎研究、これはかつて「新プログラム」と言われていたものですが、これが約30億、あと学審の特別研究に対して47億円。  だいたい半分ぐらいが経常の研究費として使われて、あとはほとんど非常に特殊な用途に使われているというのが現状なわけです。  それで科研費の問題をどういうふうにとらえるのか。これは改革プロジェクトでも話をしていまして、基本的には教官当たりの積算校費で研究をするということがこれまで言われてきた。科研費というのは、ある意味では研究を補助するという趣旨のお金だったわけですけれども、現状を考えますと、たとえば具体的な例で、これは私がもらっている経常費です。うちは大学院重点化というのがやられていますので、よそよりは少し潤沢かもしれませんが、われわれのところは共通経費を除いた教官当たりの積算校費、残りの分の約3分の1は各研究室の経常費として均等に分けます。残りの3分の2を、教授から助手まで全部対等にして各人に当てるわけです。そうしますと、去年私のところへ来た研究費が59万円です。その59万円で自然関係の研究をするというのは実際には不可能です。  そういう意味では、どこも同じような事情です。特にいろいろな特別なプロジェクトでお金が入ってきていますので、水・光熱費などの割合がどんどん増えてきている。あるいは建物が老朽化していますので、そういうものの補修費に使っている。あるいは図書を去年と今年だけで20%ぐらい値上げしたのですが、来年はまた30%ぐらい値上げをすることになっています。そういうものを全部やりますと、実際には積算校費というのはほとんど息をするぐらいのお金しかないわけです。  そうすると理工系の場合はやはり科研費に頼らざるをえない。ところがその科研費の分が、だいたい半分ぐらいは通常の研究に支出されていないというところに問題がある。  もう一つは採択率の問題です。これは平成10年度の段階ではだいたい16万8000人、それに対して申請課題数は10万3000、文部省はだいたい3分の2が申請していると言うのですが、それは表面上の統計データーで、普通は二つ、三つと申請するわけです。ですから実際には4割ぐらいしか申請していない。それはどうしてかというと、別に研究する気がないのではなく、何年出しても当たらないということが非常に多いので、いやになっている。採択課題数はだいたい4万2000ぐらいの数になっている。これをもう少しわれわれと直接関係がある基礎研究に使えるような、あるいは経常的な研究に使えるようなものを考えますと、基盤研究と奨励研究、これは新規の分だけで、継続を入れると少し事情が変わります。新規は基盤研究のAで19%、Bで17%、Cで22%、奨励研究についても24%ぐらいしか当たらない。  ですから、実際にはかなり多くの大学の研究者が、ある意味では日常の研究費であるような科研費からも排除されている、阻害されているということが現状になっているのではないか。それが1点です。  もう一つは、先ほど言いましたように、平成8年度からいろいろなかたちのプロジェクト研究が始まっています。皆さんご存じだと思いますが、未来開拓学術研究、これは1件当たり年間1億円、学振がやっているものです。これの特徴はどういうものがあるかというと、普通の研究は研究者がプロポーザルを書いてやるというものですが、そうではなしに、トップダウン形式である。これは平成10年度の当初予算ですが、だいたい218億で246件、そういうものが実際に投下されているということです。  もう一つは最近の科学技術庁の関係で戦略的基礎研究、これはだいたい1年間1億円で5年ぐらい続くものです。これが274億円、その他「創造科学技術研究」、これはだんだん小さくなっていっているようですが、80億ぐらい使っている。ほかにももちろんいろんな研究費があります。  これだけを見てみましても、特に大学関係の人がいちばんアクセスしやすい研究費、プロジェクト型の研究でないものは非常に少ない額しかないわけです。特にBとかCというのは国会等で問題になっている土木工事と一緒で、公共事業なわけです。そういうかたちのところに両方足すと、日本人のかなり多くの人が関係しているような基盤研究と同じだけの額が投下されている。これは私のいる大学でもそうですが、これまでいろんなかたちで「大学間格差」ということが問題になっていましたけれども、いま大学の中で研究室間の「格差」、貧富の差がものすごく広がっているというのが現状なのです。そういうもので、たとえば教室単位、学科単位での運営が非常に難しい状態になってきているところがあるという話を様々なところで聞くわけです。  もちろんわれわれの仕事は教育と研究です。それでほとんどの大学教員は自分の職業として、あるいは仕事として、いい教育をして、いい研究をしたいという本質的な願いを持っているはずです。ところが研究というのは、一部のお金の要らない研究ももちろんあるでしょうけれども、特に理工系の研究の場合には、研究費がないと研究ができない、あるいは学生の教育ができないのが現状なわけです。  ところがこういう格好の予算配分をされていることによって、かなり多くの人が実際に研究する条件がなかなか整備されていないという現状になっている。そしてその傾向にますます拍車がかかっているというのが現在の一つの問題点ではないか。たしかに科学技術基本法で科学技術関連費、あるいは高等教育に関する予算は増えていますけれども、それが本当に大学が豊かになるような、あるいはわれわれが豊かになるようなかたちで使われていない。そのことを全大教を含め問題にしていく必要があります。  この「OHP」も文部省のホームページから持ってきたものです。もともとはカラーで、うちにはカラープリンターがないので色が消えてしまったのですが、平成8年の研究環境調査です。たとえば自然科学系で回答した人の中で必要な設備がすべてあるというのは12.6%、必要な設備で不足している設備があると答えた人は74%です。ですから、非常にたくさんのお金が使われていても、実際にはそういうかたちで使われていない。そういうことを問題にして、もちろん科学技術予算は増えてくれないと困りますけれども、それと同時のその内容について問題にしていく必要があるのではないか。それが1点です。  もう一つの問題は、私は1967年に京都大学に入学して、それから9年後にドクター・コースを出たのですけれども、そのときに、私もその当時のファッションで、「オーバー・ドクター」になった。そのとき京都大学では「オーバー・ドクター」が500人いたのです。そのうち理学研究科が300人、工学研究科が100人、私は工学部だったのですけれども、残りが全学で100人、現在そういう問題がもう一つ起こりつつあるということです。  これは科学技術政策の中での「ポス・ドク」1万人計画、これも科学技術庁とか文部省の宣伝を読んでいますと、今年の予算で9756人になっている。これは「学振」のB、Cを含んでいますので、その数が全部「ポス・ドク」ではないのですが、そういうふうになった。そして、たとえば学術振興会での特別研究生はいま3770人いるわけです。同時に先ほど言いましたプロジェクト型の研究、たとえば未来開拓研究が700人ぐらい。あと非常勤研究員、これは「COE」とか、その他ですが、それが700人程いる。先ほどの「戦略的基礎研究」についてもそれぐらいいます。あと、国立の研究機関、これは科学技術振興財団が窓口になって、通産省とか、いろんなところに割り振っているわけですけれども、そういう人が2400としても7000名を超える。そういう人が「ポス・ドク」になっているということが現実に起こっているわけです。  たとえば文部省関係でどれぐらいの数かというと、昭和60年、176名です。それが平成8年に4556名、平成9年、5701名、平成10年、6130名、こういうかたちで非常に増えている。実は私はある大学共同利用研の人事の関係の委員やっていまして、私に関係する分野の公募をしたのですが、応募者が21名いて、17名が「ポス・ドク」をやっている人だったわけです。ですから現状は、本来はわれわれの仲間になっていい人が、ある意味で無権利、未組織の状態に置かれている。これはやはりわれわれの問題にも関係ないことではなく、特に日本の産業構造の問題とか、いろんな問題を考えますと、雇用問題が非常に深刻になってくるわけです。  ここを見ていただきますと平成8年に科学技術基本計画ができてから、これが非常に増えているわけです。「ポス・ドク」というのはだいたい3年が任期です。そうしますと来年3月に大量に任期切れの人が出るというのが現状になっているわけです。一方では、われわれは改革と言って、重点化をしたり、いろんな機構を作ってきました。そのときに教官定員を増やせないので、何をやったかというと、助手のポストを全部振り替えてやっているわけです。それで現状では助手のポストがものすごく減っている。  実は任期制の問題が出てきたというのも、一方では単に任期をつけろというだけではなしに、任期制を言っている方は、こういう現状をきちんと知って、あるいはこういう現状を維持するために任期制を出してきているわけですね。それに対してわれわれはどういうふうにやっていくのかということを考えていく必要があると思います。  それと、先ほどもありましたように、大学院の拡充政策が2010年に25万人という数字を言っていますけれども、そういうことができてきて、今の日本の雇用の形態、あるいは産業の形態が変わらないと、非常に深刻な問題が出てくるのではないか。そういうことをいまわれわれの問題として考える必要があるのではないか。  もう一つは、これを言うと非常に虚しい話なのですが、産学協同がどういうふうに進むのか。  これが文部省の「産学協同」の、「民間との協同研究の実施状況」(OHP)というものです。ウナギ上りで、ものすごい勢いで実際には増えているわけです。こういうものにどう対処するのか。たとえば受託研究は10年間にだいたい4倍になっている。民間との協同研究は7倍になっている。あるいは奨学給付金が2.1倍になっている。こういうかたちで、ほとんど歯止めなく増えている。  これも文部省の調査(OHP)から見たのですが、ああいうアンケートに回答を寄せるのは皆が寄せるわけではありませんけれども、どういうかたちで研究費を賄っているかということを考えますと、実際には受託研究費、あるいは「産学協同」のお金はアベレージとしては校費を超えているというのが現状です。ですからそのことについても、「産学協同」というのは、もちろん義務のないお金もありますけれども、表に出ない、いろいろな意味での企業との癒着が現実にあるわけです。私たち化学の教室ですと、その資料、サンプルを渡しているとか、そういうことをいろいろ耳にするのですけれども、そういうことが本当にいいのかどうなのか。あるいはどういう基準でやっていくのか。そういうことを考えていく必要があるのではないかと思います。  そのように、われわれがずっと要求してきた研究、あるいは科学技術、あるいは高等教育の予算の充実、もちろんまだまだ足りませんけれども、かなりの速度で実際の額は大きくなってきているわけです。それに対して非常に政策的、あるいは非常に公共事業的な使われ方がされていて、われわれ大学人全体が本当に生き生きと教育ができる、あるいは本当にしたい研究ができるというかたちでは予算が使われていないわけです。そういう問題を言えるところはたぶん全大教しかありません。  それに普通の、まともな研究者は皆、現状は「バブルだ。」と言うんですが、非常におかしいということは皆、思っているわけです。ですからそういうときに全大教がはっきりと声を上げることが必要なのではないかと思っています。  以上で私の話を終わらせていただきます。(拍手) 報告2 大学審議会「中間まとめ」の「組織 運営体制」に関するコメント 高木英明氏(光華女子大、京都大学名誉教授、日本教育行政学会会長、教育行政)  高木でございます。いま加藤先生からたいへん興味深いお話を伺って、私もつい引き込まれて、財政的な問題については本当に大変な状況にあるということをむしろ教えていただきました。  執行部の方から話をするようにと言われましたときに、後半部分では財政問題を含めてしゃべってほしいと言われていますけれども、私は金にかかわることがいちばん弱くて、とても財政の話はできませんというふうにお断りしておりますので、後でいろいろご質問がございましたら加藤先生のほうにお願いします(笑)。  もう一つ弁解させていただきたいと思いますが、私のような、もう半ば墓場に近いところにいる年寄りが、どうしてこんなところへ出てしゃべらないといけないのかということですが、最初に執行部の三宅さんから2回ばかりお電話をいただきました。たまたま元、同じ職場にいましたので断りにくかったのですけれども、私はこういう大勢の人を前にしてしゃべるのはとてもできない;大学の教師をやりながら人の前でしゃべれないというのはおかしいのですが、そういうこともあって、そのときは2回ともお断りして、ああ、やれやれ、終わったと思っていたら、また森田さんから電話がありました。そのときもずいぶん、本当に役に立たないと申しあげたのですけれども、たまたま先ほどチラシを配っていただきました本、この2月に多賀出版というところから出した本ですが、それを執行部の関係の方々がいろいろご検討されて、やはりここでしゃべってもらうのは高木しかいないんだと言って、おだてられました(笑)。つい、そのおだてに乗って、でもまだ何で東京まで行ってしゃべらないといけないのかという疑問はありましたけれども、もう断われなくて、やってまいりました。  話の内容も、そんなに大したお話はできませんが、この前の方の掲示に、「今日的自治の充実に向けたあり方について」というふうに書いてありますので、最初からそういうテーマをいただいていたら私なりに大学の自治にかかわってこういう方向で筋を立てたと思うんですが、ご依頼を受けたときは、「中間まとめ」を読んで、管理運営体制、組織運営体制にかかわる部分についてコメントしてくれ、分析・検討してしゃべってくれということでしたから、それならばできるかもしれませんと言ってお引き受けしたために、ちょっと話の中身がここに掲げられているテーマからはそれると思います。  それと、レジュメ自体が十分まとまっていませんので、最初に何をお話ししようとしているかという方向を、全体を通してちょっと見ておいていただきたいと思います。  大きく三つに分けてあります。Tは、「はじめに」ということで、組織運営、あるいは管理運営に関してしゃべれということでしたが、一応「まとめ」全体を読ませていただきましたので、それにかかわって感じたところを全体的な印象として最初にまとめておきました。  基本的には、この「中間まとめ」の姿勢といいますか、全体を通して感じました印象は、これから21世紀というのはメガ・コンペティションの時代だ、大競争の時代だ、世界中があっちでもこっちでも大競争をやって勝ち抜かなければいけない時代になるから、大学も大学院も、もっともっと質の向上を目指して改革していかなければいけないんだ;現在の日本の大学は、あるいはこれまでの日本の大学は、大学の自治という名の下にぬるま湯につかってきたのではないか;皆、怠けている;それでは勝ち残れませんよ;だからここで絶対改革が必要ですということを言っているように、私には読めました。  そこで、では管理運営、あるいは組織運営についてはどういうふうに考えているのかというのがU、「組織運営体制について」というところです。その2の「中間まとめ」の提言という下のところに、管理運営にかかわっては、基本的には、管理運営体制を責任あるものにしていくべきだと言っているのですが、そのときに、また後で詳しくお話ししますが、新しい自主・自律体制を構築しなければいけないというふうに言っています。だからこれからは新しい自治が必要だということです。  そこで、やはり大学だから大学の自治、あるいは大学の自由が必要だということを強調しているのかなというふうに思いましたが、中身を読んでみますと、決してそうではないのですね。先ほど加藤先生もお話しになりましたように、あるいはその前の基調報告の中でも言われていましたように、大学の自治・自律という考え方とはまったく違うと思います。学長を中心にして、いわばトップダウン方式で大学を運営していく;そうしなければいけないんだというふうに言っていると思います。  最後にVとして、「中間まとめ」に書かれているものを読んで私なりに批判することになります。もちろん悪いことばかりではなくて、たとえば教養教育を充実させるべきだといったような点ではいいことが書いてありますから、全部悪いとは申しませんけれども、今日の話の筋としては問題点はこんなところにあるのではないかという言い方をします。そんなことを言うんだったら、おまえはどう考えるのかという問が必ず返ってくるわけなので、私なりに、これからの大学のあり方を考えたらどうなるのかということを最後のところにまとめておきました;というのが全体の筋です。  そこでまたはじめに返っていただいて、プリントを見ながら聞いていただきたいと思います。まず最初の、「中間まとめ」全体を一言でまとめて言うということは、いろいろなことをカットしていくので誤解を招きやすいのですが、先ほど言いましたように、ポイントは、(1)の基本的視座として、21世紀というのは「大競争」の時代であり、日本はそういう時代の中では科学技術を振興させていかなければいけない;そういう国になっていくためには大学や大学院の質をもっともっと改善して向上させなければいけない;教員、これは教員だけに言っているわけではなくて、学生に対しても、「ぬるま湯」のような状態からは抜け出ないといけない;その「ぬるま湯」状態から抜け出るためには何が必要なのかといえば、一つは外部から刺激を与える;もっともっと外からいろんな刺激を与えて、眠りからさめさせなければいけないのではないか;もう一つは、教師も学生も、もっとほかの人と競争する状況を作って、その中からどんどん伸びる人を伸ばしていく、あるいは研究を進めていくために、競争という状態を作るべきだと言っています。  その考え方の背後には、審議会を作っている人たち、その背後にいる政府とか財界の人たちの考え方があるのかもしれません。そして先ほど言いましたように、これまでの日本の大学は何かあれば大学の自治、しかも教授会自治、学部自治ということを強調して、それをいいことに怠けている、安逸をむさぼっているというふうに考えているのではないかと私には読めます。ほぼそういう考え方なので、次々にもっともっと競争させようとか、管理体制を強化しようとか、そういうことになってくるのではないかと思いました。  大学審議会がどういう人で構成されているかということはもうご存じかと思いますし、「中間まとめ」の最後のところにどんな人たちかというのが書いてあります。職業をザッと見ますと、半分は大学の教授ですから、財界とか官界とか、まったく大学に関係のない人たちがこういう答申を作っているわけではなくて、大学から、これは大学が選出したわけではなくて、政府に大学の中から選ばれた人たちが問題を提起しているわけですから、たぶんその人たちが、やはり日本の大学は怠け者が多いと考えている人たちかなと私には思えます。そういう審議会を構成している人たち、あるいはその背後にある考え方が、そういうふうに日本の大学を見ているように思われます。  そして「中間まとめ」の副題を見ていただきますと、「−競争的環境の中で個性が輝く大学−」、これをパッと読んだら、えっ、すごくいいことが書いてあると私は思いました。何か非常に魅力的な言葉、魅惑的な言葉であり、競争的環境を作って、そこで個性がどんどん開かれていく;そういう大学があっちにもこっちにもいっぱいできてくるようにすべきだと言っているのだと思いました。そこで、では競争的環境とはどういうことを言っているのかということになるのですが、あまり具体的にはよくわかりません。でも、先ほどから言っていますように、いまの大学の状況は競争がなくて、皆がぬるま湯につかっているような状態にある;それではいけないから、もっともっとお互いに競争をさせよう;競争する状態に置こうという趣旨なのではないかと思います。  私自身も競争が絶対にいけないとは思わないですし、いいライバル関係で、あの人に負けないように頑張らなければいけないというのが、よりよくしていくという面もありますから、どんな競争も絶対にだめだというふうに思っているわけではありません。でも、研究とか教育というのは、そんなにそこに例として書きましたスポーツとか、勝負事と同じであっていいのか;それらは必ず相手があって相手に勝たなければ負けるわけですから、相手を倒すための競争だと思うのです。どっちかが勝ち、どっちかが必ず負けるというのが勝負の世界で、それは相手より強くならなければいけない。でも研究とか教育にそういう競争が必要なのかという疑問がまず一つあります。  理科系のことは私にはよくわからないので、これは加藤先生に聞いていただきたいわけですが、理系の場合は、たとえばノーベル賞とか、それに類する賞をもらっている人もいっぱいいるわけで、たぶんあれは人よりも早く何かを発明し、何か理論を見つけ出したという、ある意味の時間的な競争状況があるのかもしれないのですが、文科系で考えると、だれかに勝つ、だれかよりも早く何か理論を出さなければいけないという発想はあまり出てこないと思うのです。だからそういう、人を打ち負かしたり、人に負けたらいけないような状況の中で研究を進めようと言われると、そんなことができるのかとか、必要なのかというのが私自身の一つの疑問です。  もう一つ教育の面で考えてみましても、教育というのは一人ひとりの子どもたちが社会に出てちゃんと生活できるように、必要な知識や力を身につけさせていくことである;教育基本法が掲げている教育の目的は「人格の完成」であります。これがまた難しい言葉で、よくわかりませんけれども、一人ひとりが人格者として、人間として可能な限り、よりよい人になっていく;具体的に考えれば、多くの場合、昔から言われていますように、真、善、美を究めていく;真というのは真理や知にかかわることで、それをできるだけ追求していく;善は道徳的によりよくなっていく;美というのは美意識を高めるとか、体のほうも美につながっていて、いい体を作っていくとかということで、これもだれか人に勝つためにとか、人と競争してそうなるというのではないと思うんですね。  ということで、私はプリントに、一般にはまったく使われていない造語ですが、スポーツとか勝負のように、人と競争して人を倒してというのは「対他的競争」だと思います。あるいは「対人的競争」であります。でも、そういう競争は研究とか教育にはふさわしくないのではないか;どちらもある程度長い時間がかかるものです。特に文系の研究というのはずいぶん時間をかけなければ本当にいい研究論文は書けないと私は思っています。今のように、やれ任期制だとか、やれ論文数に応じて評価して、それによって何とかするというふうに言われますと、たぶん私などは停年まで国立大学には勤めていられなかったと思います。  先ほどご紹介いただきました本は、私がずーっと、それこそ30年も40年もかかって研究した、その総括を京都大学をやめてから、やっとまとめることができたというものです。本当はやめる前にまとめて本にしたかったのですが、停年近くなって学部長で管理職までやらされましたから、もうできませんでした。でも自分なりの論文は自分の力の及ぶ限り、少しずつ書きためてきたと思っています。でも、おまえは本(単著)を1冊も書いていないから辞めろと言われたら、それは辞めないといけないですし、たとえば10年任期を設けられて、10年の間にはこれだけのことしかやれてないんだ、では辞めろと言われたら辞めていくしかない;とすれば、たぶんずっと国立大学にいることはできなかったし、研究はまとまらなかったと思っていますから、基本的に任期制というのはきわめて大きな問題を持っていると思っています。  それはそれとして、そういう競争的な環境にしろというのですから、お互いに競い合わせて、だれかほかの人より、より早く、よりいい論文をたくさん出させようということをそうせざるをえないような圧力をかけてやらせるということだと思いますから、これがもう一つ問題だと思います。創造的な研究というのは決して外から圧力をかけて、やれやれと言われ強制されて、いい着想ができたり、いい発想ができて、いい論文が書けるものではないのではないかと私は思っていますから、そういう外部から圧力をかけて競争させるというのは研究や教育には向かないと思います。  こんなことばかりしゃべっていると時間がなくなりますから次に行きたいのですが、ただ一つだけ、資本主義社会というのはそういう社会だと思います。弱肉強食で強い人はどんどん強くなり、金持ちはどんどん金持ちにり、貧乏人はますます貧乏になる。放っておけばそうなっていくので、それではあまりにもみじめだというので修正資本主義になってきたし、あるいは社会主義もそれなりに役割を果たして修正を進めてきたと思うのです。そういう資本主義社会全体の仕組みの中で大学も生きていっていますし、動いていっていますから、そういう競争状態がどうしても入ってくると思うんですが、いま学校現場では、いじめとか、不登校とかという問題だけではなくて、中学生が小学生を殺したり、中学生が先生をナイフで刺し殺すという、ちょっと考えられないような状態が出ているという問題があります。また、ご存じのとおり、そういう年齢が下の方の学校ばかりではなくて、それこそ高級官僚と言われたり、会社の重役であったり、社長であったりという人たちが違法なことばかり、悪いことばかりやっているのではないかという問題がいっぱい出てきています。これは社会的にずっと深いところ、根本的なところに問題があるのではないかと思います。それを、たとえばカウンセラーを配置するとか、心の教育で何とかするというふうに、いまの教育政策は進んでいますけれども、それだけでは解決できないだろうと思いますね。  だから、いま必要なことは、そういう選抜とか選別に向けて競争させていく、競争をしながら研究や教育をやれということではない;そういうやり方ではいけないのではないか;学習目標とか、研究目標とか、いろいろな目標を設定して、それにベストを尽くして頑張るというのは必要だと思いますし、それを頑張るためには、友達の彼よりは私はもっと頑張ってやろうという状況の競争、いい意味の友好的な競争というのはあってもいいと思うのですが、それをあまり強制していくと、それこそ相手を蹴落としていくといった厳しい争いになっていく;そういうやり方が出るような環境は作ってはいけないのではないかと私は思っています。そこがたぶん大学審議会の人たちの考え方と基本的に違っているところだと思います。  1ページのいちばん下には、たまたま最近「朝日新聞」に出ていました大学審議会の委員の小林という人が、教育学会長の堀尾輝久さんと討論して、その中で述べておられたことをメモしておきました。この人も、やはり競争が必要なんだということを言っているわけで、そういう考え方が背後にあると思います。  2ページに移らせていただきますが、そういう競争的な環境を作って、そして個性が輝く大学をというのですが、個性というのはそういう競争によって出てくるのではなくて、自由な雰囲気を作って、その中で伸びる人がどんどん伸びるということです。あるいは伸びる大学もどんどん伸びていく;そういう伸びる大学を見て、ほかの大学も、負けてはいられないといって頑張って競争するというのであれば、わからないではありません。創意工夫を生かすためには絶対に自由が必要だろうと思います。  そこで大学審議会も、そうですよ、自由が必要ですよと言っているところが見出しの中に2個所あります。まず、「大学の自主性を確保」しなければいけないと言っています。また、後のほうで、先ほど読みましたところに、「新しい自主・自律体制の確立、構築」と言っています。これを見出しだけ読むと、ああ、やっぱり自治を強調しているのかなと思いますが、後で見ますように、そんなことはないのです。そうすると、自由をつぶしていったら個性が輝くような大学は出てこないのではないかというので、これも疑問に思います。  (3)は、ここで言わなくてもいいことかと思いますが、臨教審以後、大学が改革だ、改革だといって、どんどん進んできました。それについても私は言いたいことがいっぱいあります。先ほど加藤先生が言われた大学院重点化も、その流れの一環の中で出てきております。そのほか科目等履修生とか、いっぱい新しいやり方が出てきました。最近は飛び入学という、大学を終わらなくても大学院に入れますよというようなこともやっています。そういうのを見ていると、何かアメリカのまねをしている;アメリカの大学で行われているようなことを、「つまみ食い」をしているのではないかという感じがします。よその大学で行われているいいことは、いろいろ取り入れていったらいいのですが、基本的に違うところを無視して、いいところだけつまみ食いしていれてくると変なことになるのではないでしょうか。  アメリカの大学制度と日本の大学制度のいちばん大きな違いは、大学制度というよりも国柄の違いと言ってもいいかもしれないのですが、そこにいくつか挙げておきました。その中で、よく日本の大学の研究がアメリカの大学の研究に比べて遅れている、劣っている;大学院生の数も非常に少ないというので、負けておれないんだよと言って、一生懸命そこを何とかしようとしているのですが、アメリカと日本を比べてみればすぐわかることです。面積からいってもアメリカは何倍もあります。カリフォルニア州だけでも日本より大きいぐらいです。アメリカへ行かれた方はおわかりだと思いますが、大学でもキャンパスの規模が圧倒的に違います。そういう施設、設備、研究条件等、日本の大学とは圧倒的に違う条件の中で生み出されている研究と比べて、日本の大学の研究は遅れている、だから日本の大学教師は怠けている、もっともっと発破をかけないといけないという発想に立つのはおかしいのではないかというのがいちばん大きな疑問点であります。  そこで課題として与えられています組織運営体制について「中間まとめ」の中で何を言っているのかということですが、これは先ほど自主・自律と言いながら、そうではないというふうに申しあげました。私が大学を見るときに、特に管理運営にかかわって大学の問題を考えるときの一つの大きな視点、ポイントとしていつも思っていますのは、それこそ30年も40年もかかって築いてきた自分の研究を通してみて、大学の自由、大学の自治というものをどうしても守らなければいけないと考えていますから、そういうところから「中間まとめ」を読むと、これは大変だという、まったく違った発想に立っていることがわかります。  その見る視点として、真ん中辺りに書いておきましたのは、私が2月に出版しました本の中で序論と総括のところで四つに分けて、大学の自由と自治はこういう側面から考えておかないといけないのではないでしょうかという、それを基にして本をまとめたわけではありませんが、本をまとめた結果として、あるいはそれを見ていく視点として、そういう四つの側面が必要だということを書きました。  全大教の執行部の方々でいろいろ議論されたときに、たぶんこれを話してほしいというふうに思われたのだろうと思います。森田さんから電話をいただいたときに、そのことを強調されましたから。そこで、これをずっとしゃべっていかないといけないのですが、時間がありませんからポイントだけを言います。  総合大学、ユニバーシティーというのは、基本的には19世紀のはじめのドイツのフンボルト大学以後、研究と教育を一体的に遂行していくこと、いろいろな学問を統一して、総合していくことにポイントがあり、大学の本質的な機能は、研究と教育を一体的に総合し、推進していくということにあります。これは先ほどの基調報告の中でも何回も強調されたことで、研究と教育を切り離しては大学は成り立たないと思います。そして、その研究・教育を遂行していこうと思えば、やはり自由が必要である;その自由を守るために大学には自治が必要だ;その自治は基本的には教授会自治ということであり、戦前戦後を通じて日本の大学ではしだいに機構的に確立されてきました。  ただ、学園紛争のときにはその教授会自治が猛烈に学生諸君から批判されて、ある程度崩壊状態にあったと思います。大学によっては学長選挙のやり方なんかも改革して、学生参加とか職員参加をずいぶん加味した自治の機構の変革ができたところもありましたが、10年ぐらいでそれが全部消えて、また元に返ってしまいました。ですから、教授会自身のあり方そのものがいろんなあり方がありうる;教授会がすべて万全だというわけにはいきませんから、それはそれで改善していくべきものがあると思うのですが、基本的には、19世紀以後のドイツの大学、あるいは世界の大学すべてがそうですが、研究と教育を一体的に遂行していくために、学問の自由;学問の自由の中には研究の自由と、教授の自由と、学習の自由、特にドイツの場合はさらに転学の自由という四つの自由が必要だということで、それが世界中に広がったわけです。アメリカの大学というのは、先ほどのところに書いておいたのですが、州立大学も、私立大学も全部、理事会という学外者で構成される管理機関が大学を管理運営していますから、その意味では日本の大学の自由や自治よりは、研究の自由とか教育の自由の面から見たら弱い機構になっている;けれども、そういうアメリカでさえ、歴史的な長い経過の中で、しだいに教授団(faculty)が力を得て、教授団の自治をだんだん確立してきたという経過があります。  そういう意味で世界中の大学が自由とか自治を強調しているわけです。  そのときに、いま話しましたドイツの19世紀以来の大学、あるいはその影響を受けた世界の大学の自由とか自治というのは、その下に四つに分けているところで見ますと、A機能論的自由−研究や教育を遂行していくためには自由が必要;学問の自由のためには大学の自治が守られなければならないという、そこから来ている自由・自治であるし、日本の大学の自治、あるいは自由もそういう点から主張されてきたと思います。  @は難しい言葉を使って、「存在論的自由」という言い方をしているのですが、もう、ご存じのとおり、大学の歴史をずっとさかのぼっていきますと中世のヨーロッパまでいきます。イタリアとかフランス、ボローニヤとか、パリとか、オックスフォードとか。中世の大学というのは研究の自由が必要だから自治が必要だと主張していたわけではなくて、むしろ非常に多元的な、つまり権力そのものが多元的であった時代の中で、自分たちの特権、あるいは権利を守っていくために団体を結成して、その団体の権利や特権を守るために、国王とか、法王とか、町の当局など、そのときの政治的勢力に対抗して確保していた自治であった、あるいは自由であった;その語源がウニベルシタス(universitas)というラテン語ですね。ギルドとか団体という意味の言葉から来て、それがユニバーシティー(university)になっているわけです。  そういう意味では、@というのは、中世以来の大学の、存在するための自由であり、自治である;それが近代国家になってから非常に権力が集約されて、多元的な存在が認められなくなってきた;だんだんそういう自由が狭められていった段階で、これでは困る、もっと研究や教育の自由が必要だというのでベルリン大学が作られた;そこからむしろAのほうに考え方が移っていったというふうに私は思っています。  Bは、ちょっとそういう面とは違った面のアプローチになるのですが、そういう自由を守る、そういう自治を守るためには大学の自由とか自治の機構が確立されていなければいけないのではないか;つまり機構面の自由なり自治ということです。日本の大学はそこまではちゃんと一応制度化してきたと思いますが、財政面は国立大学であっても非常に弱かったと思います。最近の、東大の場合は知りませんが、京都大学の状況を見ていましても、自由とか大学の自治が本当に守れるのか;外圧がもっともっと強くなったときは、きわめてもろい状況になっているのではないかと思いますが、それは機構面の自由であったり、自治という面が弱いからです。さらに財政的な面にかかわって考えますと、それが非常に弱いためです。詳しいことを見ていく時間がありませんのでとばしますけれども、大学の自由とか自治を考えるときは、そういった四つの側面について考えていく必要があるということであります。  そこで「中間まとめ」の管理運営体制、そこでは管理という言葉は使ってなくて、組織運営体制という言葉で表現されています。これも先ほど言いましたように、新しい自治、新しい自由の機構を作ると言っているのですが、それをよく見れば、決して自由とか自治を強調しているわけではなくて、3ページを見ていただきますと、(1)教授会自治という体制を全部やめるとは言っていないのですが、学長を中心とした運営体制に切り換えるべきであるという;私はそれを「寡頭管理体制」にしようとしているのではないかというふうに勝手に名前を替えておきました。また、「学長中心主義」という言葉を使っているわけではありませんが、内容からいえば、そうだと思います。学長を中心として「運営会議」といったような、これは仮称と言っていますが、副学長、学長が指名する教員、事務局長といった人たちで構成するものです。副学長というのは、東大も、京大も、そのほかの大学も最近どんどん作っていっています。でも副学長は選挙で選ばれるわけではなくて、学長が指名し、任命する;学長の意向に沿う人を副学長に据えるということですし、さらにもっとそれを増やして学長の指名する教員を入れて運営会議を開く;国立大学の事務局長は文部大臣に指名されて文部省から来る人ですから、そういう人たちで構成した運営会議で大学を運営していくことにしようとしているわけです。  でも、各学部には教授会があったり、あるいは全学のことは評議会という機関があって、そこで議論するから構わないではないかというふうに思えるのですが、その下の3番目のところを見ていただきますと、最初に基調報告のあたりで言われていたことですが、「…は企画立案とか調整を行うとともに、重要事項については審議機関(評議会や教授会)の意見を聞きつつ、最終的には自らの判断と責任で運営を行うこととする。」というのです。  ということは、意見を一応聞きますよ。教授会の意見は聞きますけれども、そのとおりにするとは限りません。ということは明らかに教授会自治を否定しているということになります。評議会や教授会は諮問機関であるという位置づけになってくるのではないかということであります。  ただ、国立大学の場合、学長は全学の選挙権を持っている人たちで選んでいまして、これは形式上は文部大臣から任命されていますけれども、実質上は大学の構成員が選挙をしている;もちろん大部分は教官、教員と言われる人たちだけで、職員の人の選挙権はあまり例がないと思います。だからその選挙権をどこまで広げるかということについては議論の余地があると思います。  ただ、学長選挙のやり方としては、京都大学の例で考えますと、本当にだれが候補者かということが全然わからないところから選挙が始まりますから、そういう意味では暗闇の中で選挙をしている状態です。私はほかの大学の状況を詳しくは知りません。ただ、ずっと以前、東北大学にいましたから、東北大学の選挙の仕方を見ますと、あそこは最初に15人ぐらいの候補者を各学部から推薦して、その候補者について松下講堂という大講堂に、選挙権がある者が、助教授以上だったと思いますが、全員が集まって、それこそ回りながら投票していく;それはこの「中間まとめ」が提案しているのにやや近いのかと思われるのですが、「中間まとめ」も、評議会のような組織が中心になって、どういう候補者に投票するのか、まず候補者をある程度決めてから選挙をするべきである;そういうふうにするほうが責任を持てる学長が選べると言っているわけです。  選挙のあり方は京大方式がいいのか、東北大方式がいいのかという点についてはそれぞれ一長一短があると思いますが、ここで言っていることは、基本的に学長を中心として、さっきの加藤先生の言葉を使わせていただきますと、トップダウン方式で大学の管理運営ができるようなやり方にすべきだというふうに言っていると思います。  (2)の学外的機関の導入―「大学運営協議会(仮称)」の設置―、これも仮称と言っていますが、これを作る;これを構成するのは卒業生の採用者と書いてありますが、雇用者というか、企業のことを言っているのかと思います。会社の偉い人、それから高い水準にある研究者、地域の関係者、他大学の教職員、当該大学の教職員のOB等、一応大学の現役からは離れている人、あるいは外にいる人たちで構成して、大学に対していろいろと助言をしたり、勧告をする;勧告という言葉は法律用語としては強制力はないのですね。そのとおりにやらなければいけないというものではありませんが、勧告という言葉そのものが非常にきつい響きを持っていますように、ただの助言では終わらない、できるだけそのようにしなさいという、きつい助言になります。  いまでも参与会とか、参与という制度は作られているわけですから、外部の声を入れたいのだったらあれでいいじゃないかと思えるにもかかわらず、それではだめだと考えているということです。もっともっと実質的に機能する機関にしないといけないということですが、そういう意味ではだれがどういうふうにしてそれらの人達を選ぶのかというのが非常に大きな問題です。  ついでですが、私自身は高等学校以下の管理のあり方にかかわって、「学校協議会」という組織を設けて、もっともっと、親とか、住民とか、社会的な人たちの意見を反映させるような組織を作って、皆で、学校で起きているさまざまな問題に対処していくべきではないかという提案をしています。これは去年の朝日新聞の5月1日の「論壇」に書きました。そういう点から考えますと、大学にもそういう協議会があってもいいではないかというので、私はこういう機関を置くことに対して絶対反対だとは思いません。けれども、その委員の選び方とか、だれによって構成されるかという問題と、大学の自治に対してどういうかかわり方をするのか、そこをよく考えた上でないと賛成とは言いかねます。  その下の2)外部評価の問題として、三つ挙げておきました。自己点検・評価というのが、いまやほとんどの大学、8割以上の大学で制度化されました。でも、「大学設置基準」の規定を見ていただくとわかりますように、あれは努力目標です。どの大学も自己点検して自己評価するように努めなければならない、努めなさいよと言っているのです。だからどこの大学も、それでは一生懸命自己点検します、自己評価しますというので、わざわざ組織を作って、あるいは委員会を作って、そこで評価して、評価結果を報告してということになりました。しかし絶対的にやらないといけないのか、やらなかったら法令違反なのかといえば、私はそんなことはないと思いますが、8割以上がそうしている、そうせざるをえなかった;というのは、概算要求をしたときに報告書を出せと言われますから、いや、そんなものは作っていませんと言えば、それだけでも通してもらえないのではないかと皆思います。だから、当然そうなっていったと思います。その自己点検、評価も、最初の問題提起をした人の考えでは、外部評価ということを考えていたわけです。でも、外部評価は国大協の人たちの猛烈な反対にあって、どうしようもなく、しようがないから、では大学だけで自己評価をやりなさいということになった;でも、やはりそれでは飽き足りない;外部の評価を入れなければいけない;それが客観的な評価だと言っているのですが、それは客観的かどうかわからないし、客観的な評価はそう簡単にはできないと思います。内部評価でも、本気になって皆が同僚の研究業績を評価しようと思ったら、もう自分の研究なんかできなくなります。  今でも国立大学で考えますと入試が2回、そのほか編入試験だとか、聴講生試験だとか、大学院の試験だとか、その上に文系ですと、卒論とか、修論とか、学位論文とか、1年中何か評価評価とやっていて、その上に自己点検と自己評価をもっとちゃんとやりなさいと言って、ほかの人の業績の評価までやりだしたら、1年中評価をしていて自分の研究なんか進まないと思います。だったら外部評価にしたらどうですかと言って返ってくるのです。これが困るんですね。そんなに忙しくてできないのだったら外部にやらせたらいいじゃないですかと。それはもっと困るというので自分でやることになりますが、今回は、もう自己点検・自己評価ではなくて、外部評価を導入する、強化していくと言っていますから、これが実施されていけば外部から評価されていくことになります。それは大学の自由とか自治ということとたぶん拮抗してくる大きな問題だと思います。  時間がきましたので、4枚目の私はどう考えるのかというのは、まったく思いつきで書いていますから、後で読んでおいてください。どうも失礼しました。 (拍手) シンポジウム 質疑・討論  司会 シンポジウムでお二方からご報告をいただきました。司会のたいへん勝手な印象を最初に申しあげるのは失礼ですけれども、加藤先生からお話がありましたのは、まずご自身が携わっていらっしゃる非常に先端的な、しかも理科系の分野の研究の現場から、今の財政の研究への配分のありようについてのご指摘をいただいたように思います。  お二方目の高木先生につきましては、「中間まとめ」の中で出てまいりますキー・タームのいくつか、特に「競争」、あるいは「個性」、そして「自由」、「自治」というタームについて非常に緻密に分析をなさっていただいたように思います。  それぞれご意見、ご質問等、いろいろあろうかと思います。特に加藤先生のご報告はご自身、理科系でもわりに先端的な分野からのご発言ということもありましたので、ほかの研究分野、あるいは研究教育分野からは、もう少し違った様相がある、もっと違った面があるのではないかといったご発言もあろうかと思います。したがってそういったご意見も賜りたいと思います。  高木先生のご報告に関しましては非常に緻密な概念分析に対して、たとえばこのあたりについては、もう少しどういうことだろうかといったあたりを含めてご質問もあろうかと思います。  特に枠は定めませんので、どなたからでも結構です。ただ記録の関係がございますので、所属の大学とお名前を最初に告げていただいてからご発言いただくと幸いです。では、よろしくお願いいたします。 ○「教授会自治」の問題で、大学自治を破壊するということを批判する一方で、では自治をどうするかというところがいちばん重要なポイントではないかと思います。教授会自治だけではなくて、「職員参加」、あるいは「学生参加」等を進めて、ある意味では構成員自治ですね。こういうものを進めたらどうかというような文章が見えますが、この点をもう少し詳しく教えていただきたいと思います。  それから9月8日の、たしか総務庁長官の記者会見において、また、独立行政法人化を国立大学も対象にしてやるのだということが言われているのですが、それに対して、これは国立大学という組織をそのまま維持するかどうかということも関係する論点ではないかと思いますが、学校法人として、独立行政法人と違うかたちで先生が考えておられる内容とはどういう内容なのか、この点に関しても、もう少し説明していただければありがいと思いますので、よろしくお願いします。  高木 第1点目の前のほうの、大学の自治、特に教授会自治のあり方をどうするのかという問題ですが、このあり方にはいろいろなものがあって、いろいろな作り方が考えられると思うのですが、現行ドイツ方式的なものと書きましたのは、戦前の日本の大学の自治機構を考えていただきますと、全学的には評議会があって、各学部に教授会があって、その二つの合議制機関が中心になって大学の自治をやってきた;この方式はもともとドイツで行われていた大学の自治・管理機構をほぼまねをして取り入れていたと私は思っています。ですからドイツの戦後の大学の自治も、戦前・戦後の日本の大学の自治と同じように、教授会、評議会を中心にやってきていたものが、世界的な大学紛争、1960年代後半の世界的な大学紛争の中で、ドイツでは徹底的に教授会自治を変えるやり方をとった;ドイツだけではなくてフランスでもそうだと思うのですが、学生参加、あるいは職員参加というのを徹底的にやったわけです。その中で、助教授、助手が大学の管理運営にかかわるのはもちろんですが、学生も代表を送って参加します。  その大学紛争の改革の結果、たとえば助手も総長の被選挙権を持つことになったために、助手が総長になったという大学があちこちにできてきた;これは問題ではないか;つまり先ほど私が言いました四つの側面のAの側面、学問の自由、研究・教育の自由、そういう研究・教育を一体的に遂行していくことが大学の本質で、それを十全に生かすために自治が必要だから、その任務を最も中心的に遂行する教授が自治機関を構成して自治を遂行していくという仕組みでやってきていたのを、教授だからといってすべてのことを処理しているのはおかしい;当然助教授も参加させる、講師も参加させる、助手も参加するというふうになっていきますと、圧倒的に若い助手の数が多いわけですから、同じ選挙権を行使すればそういう人のほうが有利になって、助手も総長になっていく;たしかに助手も研究者の一部を担って研究・教育に携わっているわけだから対等だと言えば対等ですが、でも、経験に照らして考えてみても、あるいは研究成果の積み上げに照らしてみても、それは行き過ぎではないかという揺り戻しがあって、日本では僅かな改革も全部つぶれてしまったのですが、ドイツでは、それが全部崩壊するのではなくて、たしかに教授は一人前だと確認されて教授になっているはずですから教授が中心だ;だから教授は合議体の構成員の過半数を占めるようにする;たとえば教授会でいろいろな投票をする決定権を行使するときに、あるいは全学の組織にいろいろな代表を送るときに、教授も、助教授も、講師も、助手もそれぞれの選挙をして代表を選んで参加させるのですが、そういう合議体の構成員は教授が過半数になるようにしてあります。だから、それぞれの身分・ランクによって代表の数を配分したかたちに今はなっていると思います。  そのほかの細かいことになりますと私にもよくわからないことがあるのですが、教授会自治だからといって、教授だけがすべての決定権をもって物事を処理、決定していくというのはまたおかしいのではないか;そこで助教授も入る;日本ではいまは助教授も入っています。たぶん圧倒的多数の大学でそうだと思うのですが、助手は地方の大学に行くと教授会メンバーに入っているところもあります。  私は東北大学に移る前は山口大学の教育学部にいました。あそこは助手も教授会に参加していました。助手、講師、助教授、教授、ただしそれは拡大教授会と言って大きな教授会のほうで、人事と財政については教授だけで構成している教授会が権限を持つ;山口大学の場合はそういう構成になっているのですが、日本の大きな大学のほとんどは助手を参加させていないと思います。でも助手もそれなりの資格を認められて研究職に就いたのであれば、そういう人の発言の場があってもいいのではないかと思います。  そこに職員、あるいは学生の参加ということも書いていますが、これも全面的にすべての問題に対等にかかわるというのは、研究・教育の自由とか、2番目の「機能論的自由」という観点から見て問題があると思いますから、そのへんも事項、事柄によっては学生が参加するのもいいし、職員が参加してもいいような体制が作れるのではないかと思います。  日本の大学紛争のときに、しきりに構成員自治ということが言われて、構成員は皆対等だから皆参加させるという主張があったわけですが、私はあれは構成員とは何かということをもっと十分吟味してもらうと、まったく同じではないのではないか;かかわり方も、大学の自由とか自治と言っていますけれども、@の存在論的自由だけで考えれば皆対等で、皆平等に参加してその組織を動かしていけばいいわけですが、大学の自治というのはAのほうも入ってくるわけで、そっちから考えるとまったく皆が平等・対等とは言えないのではないかというふうに思っています。  ドイツの現行の多くは、大学によっても違いますから一律には言えないのですが、そういうバランスを考えながら、学生も、職員も、代表を参加させているという管理機構が多いと言ったほうがいいと思います。  ところが「現行の」とわざわざ書きましたのは、ベルリン大学とか、あるいはそのほかのある一部の大学で、先ほど出ていましたような大学運営協議会のような大学の代表と、政府の代表と、財界の代表を交えて協議する理事会みたいな制度が作られつつあります。そうなっていくと、これは大学の自治のあり方として十分検討しないといけないと思いますから、すべてのドイツの大学のあり方をそのままというわけにはいかないと思っています。  もう一つの問題も、それに若干かかわるのですが、先ほど「構成員」という言葉を使いました;大学紛争のころに使われたのは、大学にかかわっている、大学の中に身分を置いている人は皆構成員だから、皆対等・平等に参加すべきだという主張があったと思いますが、ドイツの大学の場合の構成員は、Mitgliedschaft(構成員資格)というドイツ語で呼んでいて、そのときの構成員というのは公法人の構成員です。ドイツの大学は今はすべて公法人です。公法上の社団と言ってもいいし、公法上の団体と言ってもいい;「大学大綱法」という法律が紛争後にできる前、それ以前はちゃんとした法的地位を決めた法律はなかったものですから、解釈上、公法人だという人と、いや「独立営造物」だという人がありました。営造物というのは19世紀あたりからドイツでしきりに使われてきた概念でありますし、戦前の日本にも採り入れられていました。国が設置して経営しているものは営造物です。国立大学も営造物、国立病院も営造物です。そういう営造物には営造物権力という力が作用していて、そこにたとえば国立大学に入ってきた学生は、その営造物権力に従わなければいけませんよと、一方的に規則を作られて押しつけられても文句は言えませんよという独特の理論を持っています。営造物に勤務している人も上司の命には忠実に従わなければならないという勤務関係が設定されているという風で、このオットー・マイヤーという人から始まるドイツ行政法学の考え方が日本でもずっと戦前から戦後のある時期まではかなり強く言われていました。  ただ日本の国立大学の場合は独立営造物ではないのです。営造物には2種類あって、法人格を持っている営造物もあるというので、ドイツの場合はややこしくなります。それを独立営造物と言っています。独立営造物も法人格を持っているし、公法上の社団、公法人も法人格を持っていて、同じような特権、権利を享受している;その境がわからないのですね。それでずいぶん長い間、独立営造物だと言う人と、いや、公法上の社団だと言う人が論争を続けていたわけですが、今は大学大綱法という連邦法ができて、ドイツは連邦国家ですから、各ラント(Land)、州と言ってもいいのですが、そこにも法律があって、そこでも国の大学はこれこれだという規定の中に公法上の社団だというふうにはっきり規定されていますから、ドイツの邦(州)立大学はすべて公法人で法人格を持っています。  また、アメリカの私立大学はもちろんですが、州立大学も法人です。アメリカも連邦国家ですが、プリントに書いておきましたように、連邦には教育機関を設置して管理運営していく権限はなく、したがって国立大学、アメリカの連邦立大学はありません。すべて私立大学か州立大学;あるいは都市立のものもあります。州立大学の法的性格はどういうものなのかということを考えますと、圧倒的大部分は法人格を持った公法人です。中にドイツの営造物と同じように法人格を持たない、いわば政府機関としての大学、たとえばアイオワ大学がそうだと思うのですが、それを表すためにエージェンシーという言葉を使っています。このエージェンシーという言葉がその次の問題にかかわってくるのですが、それは後でお話ししますけれども、アメリカの州立大学の大部分は法人格を持った公法人です。その中で特に大きな、有名なカリフォルニア大学とかミシガン大学とかという大学は、その法人格を憲法によって保障されていますから、その独立度が非常に高くなり、「憲法上独立した大学」とも呼ばれています。  憲法上独立しているということは、州の機関に対しても、州の政府に対してもその支配下に入らないということです。そういう意味ではすごく独立度が高いということです。ただし、管理機関は理事会方式という学外者によって構成されている理事会が絶対的な管理権を持っていますから、憲法上独立している大学だからといって、先ほどのAの視点、研究・教育の自由とか、学問の自由とかという視点から見たときに、憲法上独立した大学にはそういう自由が非常に高いのか、その独立度が高いのかと言われると、それはB機構上の問題で何とも言えませんという問題になってきます。  私が最後に日本の大学も公法人化したほうがいい、独立団体にしたらどうでしょうかというふうに言っていますのは、アメリカでも、ドイツでも、州立、公立大学はほとんどすべて公法人、法人格を認められた独立した団体になっているからで、そのほうがその視点の@のところで考えると、存在論的自由という観点から、独立度がはるかに高いじゃないですかということです。営造物であるよりは、法人格を持った存在のほうが独立度が高いと私は考えていますから、昨年の秋に独立法人にするという言い方がされたときは、ああ、それはいいんじゃないかというふうに最初は思っていたのです。でも、まだその情報が全然伝わってこないうちから、東大も、京大も、総長が、どっちも反対、国大協も反対と言って、皆、諸手を挙げて反対と言うので、何で反対と言っているのかというのがすぐにはわかりませんでした。後で、その構想の内容が伝わって来たのを見ましたら、確かに法人にして独立した組織にしますと言って、そこを前半では強調しています。でも、ずーっと後を読んでいくと、これは視点のBとかCにかわる部分で、管理機構を見れば、決して独立していないのです。あれは文部大臣とは限らないですね。大学ではなくて、郵政省なんかにもかかわる問題です。大臣が理事長なんかを任命していく;その任命した人が、さっきのトップダウン方式と同じように管理していく;そんなのは大学の自治の機構にはふさわしくないですね。だったら反対するしかない。  もう一つは財政問題だと思います。先ほど出ていたような問題でも、国から切り離して独立採算でやれ、国はお金を出しませんよというふうになると、これはもう大学の研究も教育も干上がってしまいます。金もうけをしているところではないのですから、国や公共団体からの財政保障がないと動かない。  ですから私は、独立法人化はするけれども、基本的な財源は公費で保障しないといけないのではないかと思っています。ドイツの場合はそうです。アメリカの州立大学もそうです。法人格を持っていても、基本的な予算は政府の手中から来ている、あるいは国から来ている;それを公費で保障しなければ、ほとんどの大学はつぶれていくしかないですね。そうでなかったら、学生から今の4倍も5倍も授業料を取らないとやっていけません。それであそこでなぜエージェンシーという言葉が使われたのか、ずいぶん長いこと私の疑問でした。アメリカで使われているエージェンシーというのは、独立法人ではなくて、法人格を持たない政府機関的な存在だというときにエージェンシーが言われているのです。  でも、ずっと後に何かを読んだときに、あの考え方はイギリスのサッチャー政権の中で考えられた案だということでしたから、あれはサッチャーリズム、あれがイギリスでどこまで進んでいるかわからないのですが、イギリスの新しいやり方から来ているのではないかと思います。詳しいことは知りません。以上です。  ○ 加藤先生に質問といいますか、お話の確認をしたいのですが、第二臨調以降、一般会計の歳出の伸びを見ますと、文教科学費は一般歳出の伸びを下回るか、どっこいどっこいなんですね。1980年以降、いちばん伸び率が高いのはODA費と防衛費なんですね。公共事業も80年後半に伸びますけれども。そういう中で科学技術予算を増やすというのがどういうふうに整合的なのかよくわからないのです。授業料をもっと値上げしていって、そういう経費は相変わらず財政赤字の下で削減していって、企業の競争力に直接にかかわるようなところを増やしていこうという、教育・研究の全体的なバランスから考えてみればアンバランスな問題があるのだろうというのは、私は予想だけで詳しくわからないので、加藤先生の今日の科学研究予算の、量的な問題はさしおいて、その配分の仕方、質的な面に関する検討を非常に興味深く聞いていました。その中でもう1度確認したいのですが、最近の科学技術研究予算の質的な面、つまり使い方、配分の面で検討した結果、問題点として加藤先生が指摘されたのはいったい何なのかということです。  一つはプロジェクト方式の比重が高すぎるのではないか。プロジェクトではない基礎的な、日常的な研究もあるのに、それが十分満たされていないのに、一部のところに、特定の人々の判断でプロジェクト方式でどんどん配分していくというのは研究・教育の自律という面にとって非常にひずみが出てきているのではないかという点を主な批判点、検討の結論だというふうに私は理解しました。  もう1点、公共事業型のプロジェクト方式、予算配分がされているということを指摘されていました。その点がよく理解できなかったので、その点を中心に補足していただきたい。それから、結論として、最近の科学技術予算の質的な面での配分の仕方、問題点というのはその2点でいいのかどうかということの確認、それが私の1番目と2番目の質問です。  3番目は、こういう現状、最近の科学技術予算の配分の仕方の問題があることで、今後科学技術予算を3兆円から5兆円まで伸ばしていくというけれども、こういう問題を引きずるのではないかという予想をもっての批判なのでしょうか。  以上3点ですが、特に1、2点について確認をお願いします。  加藤 科学技術関連予算がある意味では非常に大きな伸びをしているわけですね。ところが実際に先ほどお話しさせていただきましたように、それがどこに投入されているかという問題です。もちろんわれわれが関係する科研費とか、そういうものは伸びていますけれども、いちばん基本になる大学関係のわれわれで言う「当校費」とか、あるいは大学の施設費というふうなものはほとんど伸びていない。昨今問題になっている政府の財政政策の問題があって、一つは財政再建と一方で言いながら、一方で補正予算で景気対策をするという格好で、財政再建ということで、経常的なところでものすごく削られているわけです。いま問題になっています研究所での運用費とか、そういう問題では15%減というのが今年やられています。  具体的なことでいいますと、たとえば京都大学には大型計算機センターというのがあるのですけれども、それは校費が伸びないということで、実際には赤字で電気代が払えない。それは15%減をもろにかぶっているのです。  では何をするかというと、電気代はだいたい1日20万円かかるわけです。1週間とめると140万円を浮かすことができると考えられるわけです。ところが一方、計算機はもちろんレンタル料を払っているのですけれども、レンタル料は1日300万円払っています。そういうかたちで経常的な、あるいは大学の基本的なものを維持するためのお金はほとんど伸ばさない、あるいはつけないというかたちで、いろんな矛盾が出ているわけです。  では伸びているところはどこか。これはもちろん文部省だけが伸びているのではなしに、科学技術庁とか、あるいは通産省とか、あのへんはもっとすごい伸びなんです。文部省で伸びているところは基本的には科学研究費、あるいは大型プロジェクト、それと大学院重点関連、それと学術振興経費、そういうふうなところで研究所予算という格好で伸びているのですけれども、大学の研究所全体の研究条件がよくなるという格好にはなっていないという感じです。  2番目の質問で、私は「公共事業的」と言ったのですが、実は二つこういうふうな研究経費があります。未来開拓型研究というのは、何かの委員会で研究課題を決めて、全国の研究所を一本釣りするんです。そういうかたちで年間1億円、それを5年間続ける。これはたしか「ネイチャー」だったと思うんですが、外国でも研究費の獲得に、上から金をばらまくことはないんですね。それを批判されたのですね。そうしたら元東大の学長の、要するにこういうものは国のためにやっているのだから、国が決めて何が悪いというふうな話が出ていたのですけれども、そういうかたちとか、あるいは学術振興会のものでも、もらっている方には悪いのですが、やはり1億円で5年間続く。それも研究課題を見ますと、非常に先端的というか、あるいは非常に産業に結びつきやすいかたちのところに非常に大きな予算が来ているわけです。それはもちろんお金を使うと同時に、それがあるので研究費を使っていないわけですから、そういうかたちでいろんなところで産業界に還元するということも含めてやっているのではないかということです。  もう一つ指摘されるのは、これはちょっと差し障りがあるかと思って言わなかったのですけれども、われわれが科研費をもらうときは、1、2、3、4、5の5段階評価をされてもらうわけです。しかし、実際に日本のシステムというのは研究費をもらって、終わったら、ほとんど野となれ山となれということなんですね。たとえば5億という金をもらって、それは税金ですけれども、評価評価と言われるけれども、実際に成果が厳密なかたちで評価されることはないというのが日本の現状なのです。それであちこちで批判が出ているのは、そういうお金をもらいながら、実際にはその金額に見合う成果が出ていないということを聞くのです。  本来プロジェクト研究というのは、それだけのお金は普通に皆がもらえるお金ではありませんので、そのへんも本当はきっちりやるべきだとは思っているのです。  もう一つ、ちょっと言いましたけれども、特に補正予算関係なんかで来るのは、たとえば大学間の衛星通信、ああいうものは技術的にはまだ十分には確立されていないのです。使われた方もおられると思いますが、まだ教育、あるいは研究に十分活用できないようなシステムなわけです。あるいはネットワークでも、最近改善されつつありますが、ATMという通信の方式が5、6年前に導入されたのですが、それは技術的に全然確立されていないもので、京都大学でも幹線はできたのだけれども、それは各学部の教室まで来るのだけれども、それから以降はそれぞれのところでお金がないためにつなげなくて、去年から会計検査で重大な問題になったのです。  そういうかたちで、本当に研究条件がよくなるとか、あるいは研究が前進するというかたちでのお金の使われ方をしていないのではないかという点があります。  ○ いま加藤先生のほうから、大型計算機センターのことでお話がありましたが、私は大型計算機センターにいますので、簡単にもう一度お話しさせていただきます。大型計算機センターの運営は、実際に使ってもらう方の負担金で行っているわけですが負担金の収入になるものは校費で支払われたものだけで、科研費というのは一切収入にはならずに国庫に入ってしまうわけです。現在科研費は増えても、校費は減っている。それで計算機を動かしても逆に収入は減っていくばかりで赤字が出る一方なんです。保守契約は認めてくれません。もし故障したら、すべてスポットで修理してもらう。そういったことで赤字は増える一方になるわけです。  そうしたなかで校費の予算は減る。さらに15%がカットされるというかたちになります。運営経費が15%カットされますと、どう運営しようかという形になります。あまり使われないところは電気を少しでも削っていく。さらに館内の運用時間を減らすなど悪循環になっています。今後科研費が増えれば、こちらとしては逆に厳しくなる。今年東大の大型計算機センターは科研費で使われる部分の電気代を予算として出しているように聞いたことがあります。そういったかたちのものが実際に認められなければ、たぶん今後運営自体がやっていけないのではないかと考えられます。  加藤 いま言われたのはまさに象徴的なことで、私が思いますのは、先ほど科学技術予算が非常に増えているという話をしましたけれども、日本の予算の使い方、あるいはそういう増えた分の使い方というのは、たとえば既存のものをきちんと保守をして、そこを充実させていくのではなく、たとえば建物でもそうですが、既存のものはそのままにしておいて、新しい費目を作っていく。そこにお金を投入し、大学の中では一方で貧困化が起こりながら、一方で非常に問題を拡大させているというのが現状ではないかと思います。  ○ 先ほどの基調報告に関することで質問と意見を言わせていただきたいのですが、学生教育に関するところです。これはおそらく今日、パネラーのお二人がお話しになったことと合わせて、今回の「中間まとめ」の重要な柱になっていると考えますが、この点について基調報告では、「中間まとめ」は学生が教育を受ける主体と見なす視点がきわめて弱いと指摘されている。私が「中間まとめ」を読んだ印象は少し違っておりまして、「中間まとめ」では学生が教育を受ける主体と言ったらいいのか、客体と言ったらいいのか、随所で強調している印象を受けます。  大学の学生の大衆化、あるいは多様化に合わせて、多様な教育メニューをわれわれは提供しなければいけないということは、各所で言われているわけです。そのことをどうとらえるかという点からしますと、視点が弱いという言い方ではとらえきれないのではないか。  私に言わせれば、学生を主体というふうにつかまえる、主体のとらえ方のところにどうもおかしな、今までの大学なり、あるいは学問のあり方とは違ったところが出てきているのではないか。そういうふうにとらえたらどうか。  ですから学生を仮に教育のサービスの消費者というふうにとらえたとしても、まさに「消費者」というのは最近ではきわめて主体的なわけで、客体でも何でもない。むしろそういうとらえ方に対してわれわれがこれから提示しなければいけないのは、いかに現在の学生の状況を前にして、学問をする主体、学習する主体を、しかも個々ばらばらにではなくて、共同でやるおもしろさにいかに巻き込んでいくかという、そこのところではないかと思います。そのあたりのことについて、基調報告を書かれたときの討論、議論はどうなっていたのかというのを質問したいと思います。  もしこの種の話についてパネラーの先生に何かご意見がおありでしたら、それも含めてお願いしたいと思います。よろしくお願いします。  司会 ありがとうございます。いまの点は特に高木先生がお話しになった「対他的競争」「対人的競争」というあたりとも関連してくるかと思われますので、またご発言いただけるとありがたいのですが、まずその前に、教文部長からいまの質問の点についてお答え願えますか。  教文部長 いまの点を言いますと、最初に言いましたように、大学審の提起で、学生をどうみているかといいますと、人材の確保というかたちで要請しているわけです。われわれがいちばんそれに対応するものとして考えたのは、先ほどの言葉で言えば人格の育成とか、人間の育成とか、その面から考えた場合に、そういう意味で主体としての学生の成長とか、成長が強調されていない。むしろ人材の確保ということで、ほかの面で、何度も言いますように、産業界の要請だとか、が強調されています。だから学生については、授業の到達度をきっちり評価して厳しくやって、ニーズに合うような学生を卒業させろとか、そういう言い方をしている。主体としての学生を考えていないのではないかという立場で、基調報告を作る段階では考えたわけです。  もう一つ、現在の学生に対して教育をどういうふうにするかという点は、たしかにまだ不十分だとは思いますけれども、たとえば一般教育について少し反省らしきものがあるわけですけれども、ではどうするのかということがあまり具体的になっていない。総合的な教育をやらないといけないとか、語学とか、情報教育とか、そういうものについて訓練をやらないといけない、そういうことでも学生を評価の対象にしないといけないということですけれども、どうも少し実用主義的なところに入っているのではないか。この基調報告を書いた段階ではそういう議論で、少なくとも学生の成長という面や教育基本法で言われている理念がぬけているのではないかと感じています。  司会 高木先生、いかがでしょうか。その後、もしご意見がありましたら加藤先生からも出していただきたいと思います。  高木 学生を見るときに、学生は教育を受ける権利の主体だというふうに、この「中間まとめ」がとらえているかどうか、そこまではっきり私は読み取れていないのですが、たとえば60ページにある、「学生の主体的学習意欲とその成果の積極的評価」というところを見ますと、教育を受けるのは学生なのだから、その学生が十分勉強できるように教師の側、大学を動かしている側は、その学生の要求に応えるようにちゃんとしないといけませんよというふうに言っているように読めますね。  だけど主体、主体と言いながら、実際は、最初に申しあげましたように、学生も怠けているというので、学生も競争させないといけない;だから、成績優秀な人は3年から卒業できるようにしよう;ただし、それを原則にするのではなくて、よくできる者だけ;もう一つ、非常に優秀な人にはごほうびをあげようと言っている;だから、これは明らかにそういう褒賞制度を設けて、一生懸命勉強して頑張れば早く進学できるし、ごほうびまでもらえますよという;それは本当に学生の主体性を認めているのかなという気がするのです。だから、いまさら何で競争競争と言って駆り立てるのか、その点は非常に疑問に思っています。  ついでに飛び入学、飛び級というのがあります。これは私は基本的に反対だと考えています。あれは、たとえば物理とか数学の非常にできる子は、3年で大学院に入れますよということで、千葉大学はそうしました。たぶん物理とか数学というのは、私は専門ではないのでわかりませんが、あれは若いときにやらないとだめだ;若いときにどんどん伸ばさないといけないんだというのが発想の基にあるのかなと思います。本当にそうであれば、数学教育を早い時期にやらないといけないのだろうと思います。でも、だからといってほかの科目も全部できるわけではないし、ほかのそうでない人たちと一緒に共同生活をするというのを全然やらせないでポンと上のほうに上げていくというのは差別だというふうに思っています。本当に数学がものすごくできて、早く進んで大学教育まで受けさせる必要があるのであれば、その数学だけを近くの大学に行って、特別にその子に受けさせればいい。だけどほかの一般の学習は同じ学年の学生と勉強すればいいのではないでしょうか。  基本的に大学は4年間でやりますよと言っているのだったら4年間の勉強をさせるべきだと思っています。それは私の最後の思いつきの中に書いている、「協同生活学習」と「基本学習」と「応用学習」を、いろんな方式を考えながら組み合わせて学級編成をしていくべきだということです。これは大学だけではなくて、高等学校以下もそうすべきだと思っています。そういう意味でも「中間まとめ」の学生のとらえ方は問題だと思います。  司会 どうもありがとうございました。加藤先生、どうぞ。  加藤 教育の問題で、この答申を読んで思っていることを言わせていただきますが、答申の中にはいろいろな提案とか、あるいは競争原理の導入、さまざまなことが入っているわけですが、実際に学部あるいは教養教育の問題というのは、もともとは対等化から始まったわけですね。それでその対等化を導入すると同時に、各大学で教養部の廃止をずっと続けてきたわけです。実際には大綱化、あるいは教養教育、教養部が廃止されて、それぞれの大学で教養教育がどういうふうに変遷してきたのか。  たとえば京都大学でも、いま教養教育を考える集会とか、そういうものがやられていて、どうするかといういろいろな議論がされているわけですけれども、基本的な認識として教養教育をきちんと充実するという保障とか議論なしに、こういう大綱化というのが先行してしまった。全国でやはり非常に混乱しているというのが現状なわけです。それを導入したのは言うまでもなく大学審議会なわけです。だから本来はこの10年間を書いてあるのだったら、大学審議会がそこの分析とか、あるいは総括をきちんとせずに、今の矛盾を学生への転嫁、あるいは教員の問題に原因を押しつけて、拡大している矛盾を糊塗する印象を強く受けるのです。  ですから大学審議会ができてもう10年たっているわけですから、それが何をもたらしたのかということについても、われわれはきっちりした見解を持つ必要があるのではないかということを感じるのです。  司会 ありがとうございました。ほかにいかがでしょうか。  ○ 今日のお話で、あまりありきたりの議論だけではおもしろくないので、少し刺激的なことを申しあげたいと思います。要はご意見を伺いたいのですが、高木先生が提起されている法人化の問題、最初の財政の問題とも絡むのですが、大学審議会が言っていることは、乱暴だというのはそのとおりだと思うのですが、一方では、こういう面もあるのではないか。いまお話が出ていた財政面から考えると、現在の国立大学というのは実際的には財政的な自主権というのをほとんど持っていないというのが実態でありまして、私たちが大学改革をやった場合でも、財政についてはほとんど何もできない。すべてが「指定経費」で決められていて、大学の自主的な改革の努力というのは財政面ではほとんど何もできない。結局上から法令、規制で一切縛られていて、先ほど出されたような信じられないことが起こるというのが実態です。つまりそれは中央、文部省に、財政関係の規制、権限が全部あって、大学の自治というのはほとんど名ばかりで、財政の裏付けは極めて弱い。全部文部省のハンコで決まっていく。今はそういうシステムであると思います。こういうシステムが本当にいいのだろうかということを考える必要があるのではないか。  大学をスクラップ・アンド・ビルドするためにそういう「独立行政法人化」をもってきているわけですが、国立大学のシステムはそれでいいのか。現実問題としてお金を大学に渡して、大学が自分たちの創意と工夫で、考えて投資をしていく必要があるのではないか。毎年度、完全に消化しなければならないという会計法等によって完全に縛られている。こういうことが結局大学の予算の創造的な活用を奪っている。大学として無駄な経費を省いて、それを蓄積して新たな投資をするということを不可能にしているというのが現状ではないかと思うのです。大学の自治を実際問題として裏付け、拡大していくという観点から、もう少し創造的に大学審議会と対抗しないとまずいのではないかと思います。  大学審議会のやっていることは憲法、教育基本法の精神に反していますよということは、もちろんそうなのですけれども、しかしそれでは憲法、教育基本法の精神に基づいて国立大学をもっと自治を深めていくためにはどういう手があるのか、そのへんを考えなければいけないのではないかということなのです。そのためには一つは財政面の問題。今までのお役所的なやり方が大学としていいのかどうか、それを考えなければいけないのではないか。  いまの中央権限集中型の財政配分のやり方を続けていくと、最終的にはああいう信じられないことになってしまう。これはやや挑発的なのですけれども、そのことを議論しないと、「独立行政法人化」をやられたときに、結局は原則論を言っておしまいということになってしまうのではないか。それぞれの大学でこれに対抗していくためには、もう少し工夫も知恵も必要なのではないか。そんな気がするのですが、議論が深まるといいと思い、あえて出してみたのですが、ご意見を伺いたいと思います。  ○ 文部省の中では数十億とか数百億の大きな予算を、大学共同利用機関では何本も走らせているわけですが、全大教の中での位置づけが弱いので、ちょっと発言します。国立大学は「独立行政法人」の対象から外されたということなのですが、共同利用機関は逆に8月の末になって「独立行政法人」の対象であると文部省が言っていまして、その議論が非常に進んでいて、どうしようかと思っているところです。  先ほどの高木先生のレジュメの最後に、この問題については大学審がまったく無視しているが、なぜかということが書いてあるのですが、このあたりの解説もお願いできればと思っています。  もう一つ、省庁合併問題で大学の共同利用機関は国研の研究機関と研究テーマが非常に一致しているところが多くて、この合併問題を協議しろということを言われていまして、いまいろいろな大学共同利用機関で、どことどういうふうに研究を分かち合うのか、予算をどうするのかということが言われています。  国立天文台に関係するところでは、宇宙科学研究所と国立天文台は文部省なのですが、研究が非常に似ている。それから国立試験研究機関、これは科学技術庁の傘下ですが、宇宙航空技術研究所、それから宇宙開発事業団、特にロケット関係の三者については研究体制を考えろ、それぞれ独立でいられるという保障はないよということを言われていまして、いまその三者が議論されています。研究の内容からいくと国立天文台も関係があるということで、いま学術審議会の下でこの四者が集まって、月に数回というペースで議論されていますけれども、なかなか全体の議論になっていない。いろんな違いがあるわけです。  たとえば文部省の宇宙研と天文台はその基礎科学を主にやってきていて、教官身分としては教育職なわけです。それから国立試験研究機関の宇宙航空技術研究所は全員研究職で、私たちで言う技術系の人も教官の人もすべて研究職でくくられている。宇宙開発事業団はまた別の身分制度がある。この三者が、こんどの省庁合併の中でどのようにやっていくのか。  それから予算のことで言えば、天文台とか宇宙研は数十から数百億円規模、事業団にいけば数千億円の規模です。それから研究体制も違う。運営体制も違う。従ってそういうところで大学の自治、教官の自治だのなんて言っていられないという状況があるわけで、私たちはいま非常に悩んでいます。明日の研究所問題の分科会でもこの問題を議論しようと思っているのですが、なかなか指針が見えないというところがあるので、何かヒントを与えていただければありがたいのですが、よろしくお願いします。  高木 最初の方のお話で、大学審がめちゃくちゃなことを言ってけしからんというお話;私はそこまで言うつもりはありませんが、国立大学の財政が非常に不自由で、硬直化していてだめだというのは皆さんそういうふうにお考えになっていると思いますし、私も先ほど視点のところの第4番目が現状では弱いという趣旨のことを申しあげました。それにかかわって大学審の「中間まとめ」では国立大学の人事と会計と財務を柔軟化すると言っているのです。柔軟性を向上させるようにやらないといけないんだという、それはそれなりにわかっていて、いまのままではだめで、もう少し融通のきくものにしようと言っているのですが、どこまで具体化されていくかはわかりません。  それと、後の方のご質問の中に、今回まったく無視されているのはなぜかというのは私もわからないのですが、それはやはり「羹に懲りて」黙っているのかなと思いますね。去年の秋、猛烈に反対されたから、ここでまたぶり返しては元も子もなくなるというので、今回はほこをおさめています。でも、この問題は戦後、大学管理法という法律が何回も制定されようとした;ことの延長線上にあります。そのときの根本の骨子は、理事会という、アメリカで行われているような外部の人によって構成する管理機関が大学を管理運営していこうというシステムを作ろうとして、それが何回も何回もつぶされて、できなかったのです。それで筑波大学を作ったときに、やっと参与会という、諮問機関的なものを置いた;だからその後もまた何回も何回も出されて、その延長線上にあるのが今回の大学運営協議会という名前で出ているものだと思います。  財政問題にかかわっては、独立団体化、あるいは法人化と私が申しあげているときに、財政面はどうするのか、やはり公費で保障しないといけないと私は思っていますから、完全に独立採算で自前でやれと言われたら研究所だってだめだと思います。国立大学も成り立たない;授業料をボンボン上げるわけにもいかないですから、それは公費で保障していくというシステムを続けないといけない;たぶんその場合それは素人考えで考えても、金は出してくれ、あとはモノを言うな、黙っていろ;どんなに使ったってこっちの自由だ、というわけにはいかないのではないかなという面が残っています。  それで先ほどのプリントのところでは、そういう、たとえばその金をどう使ったかという経理上の問題で監査が必要ならば、それは受けないといけないのではないか;それも拒否することはできないのではないかと思いますから、そういう組織を作る場合も、やはり大学の本質、自由とか自治ということを殺さないというところを十分配慮しないといけないのではないかと思います。  具体的にどうするのかというところまでは、私は最初に申しあげましたように財政はまったく素人でわかりませんので、後の方のご質問にも、ちょっとようお答えしません。  加藤 私もよくわからないのですけれども、最初の大学の財政自主権というのはまったくそうだと思うのです。それと単年度会計で非常に硬直化しているので、去年、京都大学で科研費の不正使用なんていうことで新聞に出ましたけれども、もちろんするほうは問題がありますけれども、実際には科研費というのは8月ぐらいから使いだせて、年内にケリをつけないといけないのですね。そうすると、やはりああいう問題が現実に起こるので、先ほどの計算機センターの方のお話でもそうですけれども、非常に硬直化していて、それで逆に非常に浪費もされているというのが現状なのかと思います。  独立エージェンシーの問題は「中間まとめ」に出ていない。これは私も事情はわからないのですけれども、あるところで聞いたのは、要するに文部省にとって国立大学というのはテリトリーですから、そういうかたちではなしに、テリトリーの中につなぎとめておきたいということがあるのではないか。それと同時に、今回、ある意味では部分的にどうかと思われる表現があるのですが、そういうものは逆に言えばそれをしない場合は「独立エージェンシー」にすると言われているということで、そういう位置づけになっているのではないかと思います。  大学共同利用研の場合は私もよくわからないのですが、実は私も大学共同利用研に7年間ほどいた経験もありますし、あるところで運営協議委員をしていますが、ある意味では大学共同利用研というのはいくつの特殊なものを除いて曲がり角に来ているかなという感じを強く受けます。最近、大学院教育の問題でも、修士課程から大学院教育をするという議論も出ていますけれども、そういう場合に大学共同利用研としてのアイデンティティーとか、そういうものをどう保つのかという問題があると思います。実は予算面なんかでも、非常に大規模な予算が大学の研究室に下りるようになってきているときに、その研究分野のセンターとしての役割をいつまでも維持できる大学共同利用研と、必ずしもそうでもない大学共同利用研が現にできてきているわけですね。そのへんではこれから本当に曲がり角かなという感じはしています。  ○ 私が今回の「中間まとめ」、あるいはそれに続く答申の法制化に対していちばん危惧しているのは、いまガイドライン、あるいは周辺事態法という法律が出てくる中で、日本が戦争一歩手前にあると言ってもいいと思うんです。そういう中でこういうものが出てきているということは、大学が結局は技術的にも、思想的にも戦争に組み込まれてしまう。私たちはそういう過去の経験があるわけで、そういうことになることがいちばん恐ろしいと私自身は考えているんです。そして任期制というのはそういう意味で一つ外堀を埋められていると思うのです。  「全大教新聞」を読みましても、今回の「中間まとめ」に対する歴史的な反対運動を展開しようと書いてあるのですけれども、私はそれに大賛成なのですけれども、その際に、任期制反対運動で全大教が頑張ってくださってずいぶん成果をあげたと思うのですが、最終的には、敗北とは言いませんけれども、通ってしまったわけで、今回の反対運動に対しては、任期制法制化の際の教訓を生かしてほしいと思います。それと同じパターンをくり返すということでは、同じことがくり返されるだろうという危惧を抱くわけです。  では何をするかということですが、同じような問題で、東京の高校の先生方が、教員会議を校長の補助機関にするということが出てきて、その際には、高校の先生方はストライキをしました。そこまで高校の先生は頑張っているということをまず言いたい。  それから、私は、学生というのは同じ大学の構成員だと思うんです。しかし学生はこういう問題に関してほとんど関心を持っていない。学生を教育するということは現実に即してやるということであって、現実というのは最良の教科書だと思うんです。神棚にかかった理論を教壇から教えるだけが教育では決してないと思うんです。  私は何も学生運動をたきつけろということを言っているわけではないんですけれども、今の学生の現状を見ていると、やはり学生に対して、こういうことになっているんだよということを教えるということが最良の教育ではないかと思うのです。  それは一つの例に過ぎません。全大教の方にお願いしたいのですけれども、任期制の運動の教訓を踏まえて、それを超えるような運動を展開してほしいと思います。  司会 どうもご意見ありがとうございます。司会の不手際でたいへん時間が迫ってきてしまいました。まだご意見も多々あろうかと思います。特に学生教育の問題など、非常に重視されているにもかかわらず、なかなか議論しにくい部分があります。それからまた、いまの自治の問題等、分科会の中でもいろいろとさらに展開してご議論をお願いしたいと思います。最後に一言ずつ、今日のパネラーの先生方からご意見を伺えれば幸いです。  加藤 あまり言うことはないのですが、最初に紹介させていただきましたように、私は全大教の改革プロジェクトのメンバーで、もう少しそれを続けることになると思うのです。できましたら、そういう議論なり、あるいは調査を皆さんに返すとともに、できれば何か政策的にうって出ることができるようなものを作れればと思っています。  高木 最後の結びのところでまだ言っていないところを補足させていただきたいと思います。これからの大学、21世紀の大学がどうなっていくのかということ;これは社会情勢、世界の動きの中でも変わっていくので予言はできませんが、私のイメージとしては総合学園化が進むのではないか;全大教もそうですが、大学、大学院、そして短大、高等専門学校も含めて構成されている組織でありますし、「中間まとめ」の中ではさらに専門学校も入れていますね。高等教育機関全体をとらえて、そこでは大学像が何かと言って提言しようとしているので、大学と高等教育機関は同じようなものかなということを最初に疑問に思いました。  そこで、たぶんこれからまだ大衆化が進んで、大学院のほうに移ってもまだ大衆化が進んでいったときにどういうあり方をするのかと考えますと、総合学園化していくのではないか;大学院、大学、短大、高専といったようなものすべてをひっくるめたような組織が、あっちにも、こっちにもできていくという、つまり高等教育機関全体が一つの高等教育をやる機関だというふうになっていくのではないかというのが一つです。  そのときに、先ほど申しました協同生活学習と、基本学習と、応用学習で、そこのところをうまく調整していかないといけないのではないか。そうなったときにも、大学が本来持っている、研究と教育を一体的に遂行していくという、その本質を失ってはいけないのではないかというのが一つです。  もう一つは、「自己革新委員会」「自己浄化組織」を作るべきだというふうに言っています。それは大学の自由だとか大学の自治だと言って自己主張ばかりするのであれば、当然それに対して外部から批判が出てくる;サボってばかりいるではないかと言われるわけで、これは大学自らが自己点検評価をするという例ですけれども、自己浄化組織、自分たちで自分たちの悪いところを直していくという組織を作るべきではないかということを考えています。あるいは自己革新委員会でもいいですが。そのへんをこれからは検討しておく必要があるのではないかと思います。以上です。  司会 どうもありがとうございました。今日、資料として単組での検討をちょうだいしたところもあるのですが、討論の中でそういったものを反映できなかった点、運営の不手際をお詫びいたします。ぜひ明日の分科会の中で議論を深めていただきたいと思います。  それでは、本当にいろいろ不手際が多くてまことに申し訳ありませんでしたが、たいへん有益なお話を伺えた高木先生、加藤先生、お二方に拍手でお礼を申しあげたいと思います。(拍手) 課題別・職種別分科会、テーマ別交流会報告 立山紘毅 学生教育問題 司会 立山紘毅(山口大)    河原田博(京都教育大) 参加 20単組 25名  去る6月末に出された大学審議会「中間まとめ」が多大な問題点を含むことは、全大教の「基本的見解」等が指摘するとおりだが、にもかかわらず、かなり多くの人から「もっともな点も少なくない」といわれることの一つが、学生教育問題に関する指摘であった。もっとも、これ自体は大学審議会の「専売特許」に属するものではなく、学生の幼稚化とか大学のレジャーランド化などとして、広く一般にいわれていることであり、昨年の教研集会でも、「高等教育の段階において、『生きる力・学ぶ力』を発展させるためにはどうすればよいか」と真剣に論じられた課題であった。そういう、すぐれて現代的な課題としても、研究と並ぶ重要な活動の柱としても重要なテーマを扱う分科会であったが、今年の教研集会の運営にあたっては、懸念をもって出発し、いささかの反省を残して終わったのがこの分科会であった。  すなわち、これほどの重要なテーマにもかかわらず、事前に提出のあったレポートがなく、当日持ち込みのレポートがわずか一件という、運営側にしてみれば「冷や汗」ものの事態に直面したのである。そのレポートは、昨年の教研集会開催校である静岡大学の「静岡大学人文学部法学科における『導入期』教育――『知の共同性』の確立に向けて」というものであった。  法学教育といえば、マスプロ形式の講義と暗記中心の勉強の典型と考えられるのが一般的である(私事ながら、筆者が担当する一般教育の「憲法」を受講する学生のかなり多くが、日本国憲法の条文の暗記で勉強は終わり、と思いこんでおり、そうではないことをガイダンスで話したときの、ほっとした表情と落胆(?)した表情との交錯に苦笑させられることは年中行事である)。報告者の担当した「法政概論」は、専門課程で法律学を専攻する学生に対する「導入期教育」に属するものではあるが、この科目自体は、多くの大学で「法学概論」とか「法学入門」とかいわれるものと同様の位置づけが与えられるのが常である。そして、そのほとんどがマスプロ形式の講義とならざるをえないと思われている。  ところが、静岡大学においては、その講義を学生によるレポートと討論を軸として編成するという試みを続けている、という興味深い報告であった。すなわち、法学教育の場合、大教室での伝統的な講義形態の場合、一方的な知識の伝授にとどまりがちであり、自ら社会の課題を発見して解決策を考えていく、という契機を身につけさせることが困難であること、むしろ、通説や判例といった「正解」をいちはやく「発見」することが第一義となりがちであり、それはただちに「支配の論理」の注入につながりかねないこと、しかも、地方国立大学の場合、昨今の経済状況ともあいまって公務員志向が強く、受験勉強の延長線上に大学での勉学が積み上げられかねないことが問題点である。教育基本法第8条は「良識ある公民たるに必要な政治的素養」を尊重すべきことを謳っているが、現実の高校教育においては受験を意識してそれがスポイルされがちであり、大学における「導入期」ないし「転換期」教育が、それを担わざるをえないことへの認識が、そうしたスタイルを選択することの基礎にある。  もっとも、こうした教育の必要性の主張自体は目新しいものではないが、それを実施するにあたっては大きな困難がある。すなわち、この「法政概論」の受講対象者は約150人。それに対して、担当教員は3名だから、単純計算でも1人が50人の学生を担当することになり、提出されたレポートを事前に読み、講義を組織するプランを立てるだけでも、かなりの負担となることは明らかである。しかも、他の一般教育科目や専門科目の担当もあり、報告者自身、半年間の「苦闘」はさすがにこたえました、と苦笑せざるをえなかった。もちろん、それが多くの学生にとって多大の好影響をもったことは、レポートに添付された感想文の一端がそれを示している。しかし、その一方、いくつかの問題点も指摘された。  たとえば、こうしたスタイルの場合、ある参加者からも指摘するように、議論に参加すること自体を頭から拒否する空気も存在する。このレポートでも、「シロウト同然の学生に議論させて主体性云々とは何事だ。私は『普通の』講義を期待しているのに」という意見があったことが紹介されて、そういう学生の姿勢(しかも、どちらかといえば「真面目に」勉強したいという学生からそのような意見が出るところに難しさがある)をどう評価するかが課題として残された。ところがその一方、「従軍慰安婦」問題のコマにおいて、「自由主義史観」や「ゴーマニズム宣言」で「理論武装」した学生に議論を引き回されて、その他の学生との間で議論が乖離してしまう、という問題も提出された。異なる意見との切り結びをどう組織するか、という難しい課題がそこには控えている。  さらに、参加者からの意見として、教育・専攻分野によって、それがさらに徹底した形で可能な場合(たとえば、自分史から出発して、「自分のオリジナルの家政学」を作る、という試みの紹介は興味深い)もあるが、非常に一般的・普遍的性格をもっているために、それが困難な分野も少なくない、という指摘もあった。また、最近、このようなスタイルの教育実践が、全体に広がりつつあるが、教育学部のように、教員免許の関係で過密カリキュラムが常態化しているところでは、レポート準備に追われるあまり、自主性や自発性の芽を摘んでいるのではないか、という懸念も出された。手段が目的化してはならない、という点、重要な指摘であろう。  すぐれたレポートを得て、充実した討論ができたことは評価すべきであったが、その一方、諸般の事情が重なったとはいえ、参加者のアンケートにもあったように、これほどの重要な課題に対して、レポートが持ち込み一本だけ、という現状は厳しく認識しておく必要があろう。また、貴重な経験交流がなされたこと自体は評価すべきであるとしても、経験主義の陥穽に陥ることなく、どうすれば大学審議会に対抗しうる「高等教育論」に精錬することができるかは、なお今後の検討課題に属する。 立山紘毅 教育・研究のあり方と 学部・大学院改革問題 司会 斉藤安史(群馬大)    立山紘毅(山口大)    蔵元英一(全大教) 参加 31単組 38名  この分科会で報告されたレポートは2本。その一番めは「組合活動に関する意識調査――島根大学総合理工学部の組合員および非組合員に対するアンケート調査結果」と題するレポートである。  組合活動にとって、意識のありようが重要であることは論をまたない。すなわち、組合員がどのような意識で活動しているかという側面のみならず、なぜ組合に加入しないのか、どこを追求すれば組合の組織の発展・強化・充実につながるのか、ということを解明するために不可欠だからである。問題は、それがどういう形で教育研究活動の発展充実と結びつくか、である。  島根大学の報告で明らかにされたのは、全大教全体に広がっている組合員減がここでも広く見られること、新規加入の組合員にしても「つきあい」で加入することがほとんどで(もっともこれ自体は、人と人との結びつきを基礎とする組合活動にとって、日常的な人間関係が重要であることを再確認する意味はある)、組合活動の意義を積極的にアピールし、その「メリット」を認めた上での加入ではない、という事実であった。さらにいえば、組合活動に参加している人にしたところで、役員の分担といった日常的な業務を含めて多くの活動を負担と感じていることが改めて浮き彫りにされた。同様の実態は、質疑討論の中で多くの参加者から異口同音に語られたが、その背景として、職場の多忙化を指摘する声が多く出された。定員削減にともなう業務分担の増加に加えて、このところの「改革」続きの中で会議や各種資料の準備・提出等に割く時間が、本務である教育・研究活動にまで食い込み、いきおい組合活動への足を遠ざけている、との指摘である。そのような中からは、とくに若手教職員の間に「任期制賛成」とか「給与や期末勤勉手当の傾斜支給賛成」の声さえ上がる現状がある、との指摘は重大といわなければならない。  一方、学生に対する自治意識の低下・幼稚化を指摘する教職員の側にも自治意識の低下があるのではないか、との指摘は無視できない。学生の自治意識の低下が説かれて久しいが、すでにその世代が教職員として勤務する状態なのだから当然といえば当然ではあるが、そのような問題状況を改めて自己の問題として取り組まなければならないのは大きな課題である。  続くレポートは、「名古屋大学農学部における大学院重点化の現状から見た『中間まとめ』」であった。島根大学と異なり、名古屋大学は旧制大学の歴史をもつが、その一方、大学院重点化で先行する東大・京大に対して、キャッチアップを図らねばならない立場にある。しかも、農学部の現状は、日本の農業・農政全般の危機的状況と、先端科学研究の一つ・生命科学推進との狭間に立たされていることが明らかにされた。そのことは、重点化された研究科の名称には「農」の文字が消えたことに端的に現われている。しかも、大学院重点化にともなって、その他の大学、たとえば地方大学との間での種別化や「スクラップ・アンド・ビルド」(スクラップ=地方国立大学、ビルド=重点化大学であることはいうまでもない)が懸念されているが、それだけではなく、専攻する課題から「農」の文字の消えた大学院で、先端的分野とそうでない分野(ただし、それらはどれも地域や社会の基礎を支える重要な分野である)との間の種別化や「スクラップ・アンド・ビルド」さえ懸念される、との指摘があった。  しかも、重点化された大学院だけにとどまらず、たとえば補足して報告のあった群馬大学から指摘されたように、「生き残り」のために、任期制をにらんだ対応が否応なしに求められざるをえず、いわゆる「流動型大学院」への移行が必至と思われる。しかしながら、そのことは「農」だけでなく、先端的分野においてさえ、後継者を自力で養成し学問を継承するという任務を断念せざるをえない、という指摘はきわめて重大である。このような方向性が常態化したとき、大学や学問研究の状況は表面的には活況を呈していても、実は知的資源や人材を他から略奪して成立する、というおそるべき状況に陥る懸念なしとしない。実際、すでに多くの大学院で、留学生を労働力として研究がようやく成立しているという状況は存在する。ここでは、ユネスコの「高等教育教職員の地位に関する勧告」W15.が、高等教育機関相互における国際的な人事交流が、発展途上国についてはむしろ「頭脳流出」につながりかねないことを警告し、発展途上国へ適切な人材が派遣されるべきことを勧告した意義に改めて留意しておきたい。  もっとも、そうした重点化に伴うもろもろの事務の増大が、それに見合う人的・財政的担保なしに行われたため、多忙化が極限に達し、教職員の「過労死」さえすでに現実の問題になっている。これが「重点化」された大学たると、地方大学たるとを問わないことは、参加者共通の認識である。そして、それがもたらすものは、島根大学の報告が指摘するとおり、(ただでさえ高いとはいえない)自治意識の一層の低下に拍車をかけることは火を見るより明らかである。  おそらくわれわれの課題は、多忙化と自治意識の低下がスパイラル状に相互影響しあって、大学・高等教育機関の状況に百年の禍根を残すことをいかに避けるかにある。主体の確立と、たとえば、憲法・教育基本法が謳う普遍的価値にふさわしい大学という職場の確立、この二つを同時に追求しなければならないという、困難な状況が目の前に広がっている。 塚本一郎 教員養成系大学・学部のあり方 司会 河原田博(京都教育大)    谷井利明(北海道大)    鶴田英雄(大阪教育大)    塚本一郎(佐賀大) 参加 17単組 21名  昨年4月に文部大臣が表明した教員養成系大学・学部における学生定員5000人削減計画は、98年度より3年間でその実施が予定されている。分科会ではこうした状況を踏まえ、まず「教員養成系大学・学部学生500人削減問題検討会」がまとめた「教員養成系大学・学部学生5000人削減問題に関する『政策的論点整理』」(98年2月27日)の作成にかかわった大分大学の前田明氏より、5000人削減計画2年目特徴等について、論点の提起も含めた報告がなされた。続いて11年度概算要求に改組が盛り込まれた島根大学と福島大学よりそれぞれレポートの報告がなされ、これらの報告をもとに出席者の間で活発な情報交換と議論が行われた。  まず前田氏より、前年度と比較した今年の改組の特徴として、「福祉」と「地域」が新学部のコンセプトととなっていることなどが指摘された。そして、論点として「教育学部問題なのか、教員養成問題なのか」「学部としての一体性が追求されたのか」「学ぶ学生の立場から見た場合、改組はどうだったのか」「硬直的に教員免許に縛られることの問題」「大学全体として教員養成をどうしていくのか」「今日の学校教育の現状から教員養成システムをどうするのか」といった提起がなされた。  前田氏の報告に関する若干の質疑の後、島根大学より「島根大学における教育学部改組」と題して、96年に学生定員を300から240とする改組を行って2年も経たないうちに再改組が行われようとしている経緯とその現状、問題点について報告がなされた。報告によれば、島根大学教育学部では、昨年5月に定員削減への対応策・改革案作成を行うことを目的に「特別委員会」を設置し、学部再改組にあたり、現行の「学校教員養成課程」「生涯学習課程」の2課程堅持、両課程の定員比率にアンバランスを生じさせない配慮等の基本原則がたてられる。しかし、文部省との折衝過程で教員養成課程の190名から100名への削減、生涯学習課程の拡大・新課程の設置には責任ある指導体制、カリキュラム編成が必要との指示を受け、この方針は崩れる。そして、98年1月の教授会において「教育人間科学部設置構想」が提案される。しかし、文部省との折衝、教授会での議論を経て、新学部の設置は断念、教育学部のままで名称の変更は行わないことになる。3月の教授会において第三課程として、「新たな福祉共生社会の創造に貢献する」ことを目的とした「生活環境教育課程」の設置が提案される。これも文部省との折衝で「文化共生」では他学部と競合する、新たに担うべき領域として「福祉」をいれてはどうかという指摘を受け、福祉を前面に出した課程名称、カリキュラムの変更等が検討されるに至る。最後に今後の課題として、福祉を前面に出した生活環境課程の困難さ(実習をやるには人員が足りない)、教員養成に対する目的意識や新課程の指導体制等に関する各教官の意識のズレなどが指摘された。  福島大学からは、「教員養成大学・学部のありかた」と題して、95年に教員養成課程と生涯教育課程の2課程制に改組してから再び改組に至る経緯とその現状、問題点について報告がなされた。報告によれば、福島大学教育学部は、文部省との折衝の末、本年2月に入学定員を350名から330名に減らすことで合意に達し、教員採用予定数の漸減に伴い、教員養成課程を縮小・再編して学校教育教員養成課程を新設することになる。これにより学生定員は、学校教育教員養成課程(旧教員養成課程)が300名から220名に減、生涯教育課程が50名から110名に増となる。この間、文部省の対応は室長によって違い、二転三転する。最後に改組の問題点として、学校現場の問題への専門的で適切な対応能力を有する教員の養成を一体だれがやるのかという問題(関係教科担当教員の負担増の問題)、自然系コースの増員・新設に伴う関係教科・担当教官の負担増や免許法改訂に伴う教職専門単位増への対応の問題、教科専門科目の40単位レベルの維持問題(文部省も40単位ぐらいの実力が必要と認識。教科の充実は必要というのが教官の平均的な意識)と共通教育科目(旧一般教育)単位の削減問題に関する合意形成の問題(語学単位削減に厳しい批判)等が指摘された。この2つのレポートの報告に関する質疑の後、12年度の改組の対象となっている大阪教育大学、京都教育大学、金沢大学より若干の現状報告があり議論に移った。  以下、議論の特徴的な論点として、@改組の理念、A学部の一体性、B教免法との関係、C大学院問題、D教育行政との関係を中心に紹介する。まず@については、本当に改組が必要な理由はなくむしろ「外圧」で始まったのではないか、われわれ自身の「教育学部」論が必要ではないかのかという問題提起がなされた。Aについては、教員間の意識のズレの問題、すなわち新課程にかかわる教員とかかわらない教員の間での教員集団の二分、「教育くささ」を払拭したい教員との意識のズレといった現状が指摘された。Bについて、教員の意識が教免法に縛られており、意識改革だけではなく制度面の改革が必要ではないかという問題提起がなされた。Cについては、大学審等の答申も反映して、大学院を積極的に活用した教員養成として、通信制大学院の検討が開始されていること、それに伴う学部教育との関係、教員の負担増等の問題が指摘され、予算措置をして現職教員がきちんと学べる環境をつくるべきではないか、大学院を含め教育学部がどういう役割を果たすべきなのか考えていく必要があるといった問題提起がなされた。Dについて、文部行政は教員、大学に失敗を転稼しているが、初等中等教育の現場のことも考えて、これまでの文部行政の失敗を批判すべきではないのかといった問題、これと関連して、われわれ自身にもっと原則論が必要ではないのか、教育行政に対して、全大教と教育大学協会との共同した取り組みも視野にいれた運動が必要ではないのかといった政策にかかわる問題提起もなされた。 武市全弘 研究教育「支援体制」の 確立とその条件整備 司会 三宅 則義(全大教)    宮川 和行(全大教)    佐々木敏昭(東京大)    金子 一郎(北海道大)    武市 全弘(名古屋大) 参加 19単組 35名##  この分科会は昨年の第9回教職員研究集会から設けられ、今年で2回目の分科会となった。  この分科会は、教員と職員の「協業と分業」の立場から、「中間まとめ」に対する分析・批判とこの間のとりくみをふまえ、支援体制確立に向けた政策的・具体的課題について教職員共同による議論・交流を深めることを討論の柱として開催された。  レポートはいずれも名古屋大学からの持ち込み資料を含めて3本あり、これまでの単組内での議論をふまえて「中間まとめ」の分析・批判に引き寄せたものとして、(1)「大学の組織運営における事務職員・組織の役割と位置づけ(これまでの議論に大学審議会の「中間まとめ」を引き寄せて)」と、(2)「大学の事務業務の高度化と条件整備について(大学審議会の「中間まとめ」から)」、事務一元化が進む中での支援体制として(3)「名古屋大学理学部における事務体制の変更について」報告があった。  (1)のレポートでは、「中間まとめ」の議論を行うにあたって、休眠状態であった組合内部の大学行政問題検討会の復活があったことが紹介され、「中間まとめ」に対する分析・評価と私たちの課題について報告があった。  ここでは、大学には多くの職種がありそれぞれが協力しながら大学を支えているが、その中で事務の立場は何かという問題提起があり、大学内における事務職員の立場や役割、支援職員という職種は何かという議論から始まり、それぞれの職種から意見が出された。  ロケットと発射台の関係では発射台が支援であり、大学は研究者と学生がコアであり、寺子屋程度であれば支援職員は必要ではないという意見や、支援職員は必要不可欠だが定員削減で減らされていくのは仕方がないという意見、定員削減が行われつつも、様々な外部資金による業務増で人手が不足している問題が指摘された。不可欠なことと、支援体制という問題は分けて検討すべきとの意見もあった。  (3)のレポートでは、事務体制の変更として教室と学部事務を統合再編していく経過をレポートしたもので、教室事務の確立については組合事務部会内部で統一したものではないが、一つの支部として歴史的に教室事務の確立をめざしてきた中でのとりくみとして紹介があった。大学院重点化にともなう学部事務の事務量増加への対応と、教室事務の待遇改善をめざして発足したWGが、実は教室事務をなくすために発足したものであり、組合のとりくみによって大幅に修正されたとのことであった。同時に、統合再編に伴う新たな問題も起きているとの報告があり、研究現場からものを見た業務のあり方を検討していきたいと報告があった。  この報告を受けた後、各大学での事務一元化の状況や教室事務の廃止についての報告、教室事務と学部事務での業務が重複している問題や、人がいるから仕事を作り定員削減をパート等で対応する、そういう意味で中間を省き、教室事務を正当な仕事として位置づけ権限を持たせることが必要との意見、研究現場には教室事務を存続してほしいなどの教員からの要望や、定員削減に伴い事務サービスが受けられなくなっている状況と、様々な外部資金によるパート・アルバイトの増加についての指摘があった。  (2)のレポートでは、「中間まとめ」に対する分析・評価を行い、「中間まとめ」が事務組織の重要性を一定認めつつも解決の見通しを示していないとの報告があった。そして、改善策として、1)大学の管理運営への関わり、2)学内からの事務組織の管理者登用を増やしていくこと、3)事務組織の見直しとその方法、4)研修制度、5)教室事務の研究支援掛としての新たな確立、について報告があった。  このレポートについては、総長補佐体制についての質疑が行われ、とりわけ事務局長をその正式メンバーに入れるという政策に対する質問や意見が出された。  全体の討論として、様々な職種から発言があり、不補充政策による行(二)職員の減少と、それに伴う下請け業者の増加により、現場でのトラブルが多く発生していることや、図書館における合理化によってサービスを向上させるのではなく、人員を削減しようとしているなど、文部省人事の管理職による無責任な政策推進を指摘する声もあった。  また、一元化によって、大学本部の意向によって研究現場でのサービスがどうなるかわからないといった教員からの意見もあった。  当局サイドの一元化は定員削減を念頭に検討されていることが多く、教官には迷惑をかけないといった説明がされて強引に一元化された例、集中化によって合理的にはなったが、反面、学生とのつながりがなくなった例、組合のとりくみとして当局に説明会を行わせたり、他職種の意見を無視した一元化に対して学長交渉などで意見反映を行わせた等の紹介があった。また、一元化について、それぞれの職種の仕事で、こうすべきだという意見を出しあうことも必要という意見も出された。  今まで出された意見から、大学は様々な職種で成り立っているが、それぞれが必要不可欠な人員として構成されており、お互いの立場を理解しながら、運動をどう作り進めていくかを早急に検討していく必要があるとの問題提起を受け、分科会を終了した。 深見健児 今日的大学自治の あり方と管理運営問題 司会 寺川 重憲(神戸大)    深見 健児(京都大) 参加 31単組 40名  この分科会では、前半を5本(当日持込みを含め)のレポートの報告を受け、後半の討論は、@学長選挙制度を今日的にどうとらえるのか A大学審「中間まとめ」の批判・分析と新しい自治体制のしくみの2つの柱で行なった。  レポート報告では、名古屋大学から「大学の自治と管理運営のあり方」についての報告があり、名古屋大学職員組合として「中間まとめ」に対する見解は未だだが、意見交換を行なっている。個性が輝く大学がキーワードになっているが、大学の裁量といいながら現実には強くしばって来た。一橋大学の学長選挙制度の変更は、改革を認めないという文部省の圧力だ。名古屋大学では5年前に副総長制度が導入されたが、組合としての総長補佐体制の充実を要求してきた。その中では、事務組織の代表者である事務局長を含めることも提案してきたとのレポートがあった。つづいて、一橋大学から、「一橋大学における学長選考制度と大学の自治のあり方について」の詳細な報告があった。現学長は昨年6月に学長・学生部長選考制度検討委員会の設置を提案。現行制度の見直しを求めてきた。一橋大学では、学長選考制度への職員参加は、戦後大学紛争まで役付者に限られていた。大学紛争をへて、現行制度(@候補者選出にあたって職員の直接投票、A候補者に対する学生・院生の除斥投票、B4名の候補者に対する教官・職員の直接投票、但し、職員は役付職員数に調整)になっている。このことに対し、文部省は@教員以外の参加、A職員及び学生の総意を徴すること、B選考規則の改正は評議会構成員以外の者の承認を必要とすることの見直しを求めてきた。教特法の解釈をめぐって見解の対立が長年つづいていたが、文部省の学長発令のたびに「選考報告書補足」(メモ)で「早急に所要の措置を講ずる」という内容が提出されてきた。こうした経過をふまえて、組合として、選考制度をめぐっては、@現行の制度を維持する、A全構成員の参加による自治の原則を堅持し、これに反する文部省の見解はとらないという基本態度でとりくみ、職員に対するアンケートでは次の意見に集約される。@現行制度は必要、A大学改革の新しい文脈の中でも必要、B職員は不要、投票数が調整されるので意味がない。一橋大学の今後のためにも、C学長選に対する情報公開という条件つきならやむなし、D選挙制度より日々の運営参加こそ重要。  こうした結果をふまえ、組合として、その他の類型の意見も尊重し、新しい参加形態を追求したい。「中間まとめ」は個性がキーワードだが、一橋大学の学長選挙制度は個性なのか特殊なのか、又普遍性があるのか、全国的な状況からすれば「とり残された制度なのか」との問いかけがなされた。  名古屋大学から「大学の組織運営における事務職員・組織の役割と位置づけ」で総長補佐体制の必要性については、「中間まとめ」と一致するが、トップダウン方式は認められないとの報告があった。静岡大学から「勤勉手当差別支給反対のとりくみ」で「中間まとめ」は教授会自治に対する攻撃を行なっているが、差別支給はトップダウン方式が先んじて行われているものであり、待遇面での方向づけに留まらず、大学における研究教育活動とその支援活動の評価システムの問題にも連動するとの報告があった。  討論では第1の柱として学長選挙制度について行った。15名の学長候補者選出の際に職員の直接投票が保障されていた。発令のたびに念書が出されていたが、8年前に文部省の圧力により規定がなくなる。その後、意向調査という形で残るが、投票率は極めて低くなっている(大阪教育大学)。  大学自治の主体がどこにあるのかが問われている。全学的自治の主体は学長・評議会だが情報公開が充分でない。学長選は重要であり、なんとか保っていただきたい(島根大学)。  1990年度に予備選挙規定がなくなり、意向投票になった。意向投票になってからは自治意識が低下、事務職員の立場から意向投票に否定的な意見もある(神戸大学)。  大学紛争の際に、学生、職員に学長選への参加を認めた時期があった。念書をかわしていたことが表面化し、見直さなければ重点化を認めないという圧力がかかる。実質的な制度を残すことも必要だ(名古屋大学)。  学内内規にうたっているかどうかは問題でなく、実質的に参加できる(参考投票であっても)制度を残すことに意味がある(一橋大学・院生)。  こうした討論をうけて、現在の一橋大学の選挙制度は、「特殊」なものではなく、むしろ「普遍的」な大学のあり方を問うものであるとの意見が多く出され、一橋大学の組合に対する激励が寄せられた。又、規定化されていないが、学生・職員が参加している大学の調査も全大教として把握する必要があるとの指摘があった。  次に、第2の柱である「中間まとめ」についての討論では、事務職員の管理運営への参加問題が問われている。副学長制が導入されるときに組合は補佐体制が必要と提言したが、部局長会議との関係が難しい。教員の多忙化については、教授会や各種委員会が何んでもやるのがいいのかもっと整理が必要だ(名古屋大学)。「中間まとめ」は、悪文で量も多く重複もして読む気がしない。全体の構成は巧みであるが、個性化といいながら実際上は種別化だ。本学では改革委員会8人プラス学長で実質的にスタートし、風穴があけられている。理念や哲学を明確にした反論が必要だ(福岡教育大学)。「中間まとめ」は大学の自治がとりあげられる。定員削減による事務一元化、集中化の案が昨年出て、アンケートにとりくんだ。学長選挙については八者連合を中心に全学的なとりくみを行なう。制度はないが中身をとるようにしている(宮崎大学)。その他、大分、群馬、岡山、佐賀、室蘭工業、大阪、埼玉の各大学から一様に、21世紀の大学像がでてこない。悪文で粗雑である。経済戦略を大学に持ち込む。等々の発言が相次いだ。また、名古屋大学から我々自身が21世紀の大学をどうつくるのかの提起が必要であるとの発言があり、次年度教研ではそうした分科会を設定して欲しい旨の要望が出された。 斉藤安史 大学と社会 (「産学共同」問題を含め) 司会 斉藤 安史(群馬大)    塚本 一郎(佐賀大)    谷井 利明(北海道大) 参加 10単組 14名参加  はじめに中執から、さきの国会で成立した「大学等における技術に関する研究成果の民間事業者への移転の促進に関する法律」「研究交流促進法の一部を改正する法律」についての基本的な問題点と「中間まとめ」の大学と社会の関わりの部分について、基調報告を補強する形での問題提起が行われた。参加者から各大学での「産学共同」問題を中心とした近況と問題点などが出されたが、とくに「地域共同研究センター」のあり方をめぐっての情報交換がなされ、それが、多くの場合地域産業の育成等とは関係なく、産業界の「人材確保」をはじめとした大学との接触点としての役割しか果たしていないのではないかという指摘がなされた。  これらに対比するものとして、東北大学から「東北オープン・ユニバーシティの挑戦」は、昨年度の「構想」報告の成果と課題についてであった。「(1)『大学』の教育研究活動をとおして、平和・民主主義・住民自治という組合の課題の実現をめざす」など4点の意義に基づく、昨年度の事業が報告された。昨年11月15日の開学記念シンポジウムは「分権型社会の構築を目指してー情報公開と市民参加ー」として、3氏の報告と活発な討論が行われ、講演「井上ひさし東北を語る」では、井上氏の「オープン・ユニバーシティ」のイメージが語られ、それを携えて今後の活動を展開していきたいと報告された。その一端を再録すれば、「知的鼠小僧」として「困ったと注文があれば、何かマントを着てですね、先のとがった靴を履いて、夜ちょっと風の寒い日に、向こうを酒瓶を片手にしてですね、走っていく」姿であり、井上氏作詞の校歌も用意されているそうである。彼の色紙の「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに」という言葉とともに、「走りながら考える」大学が、専門・大学を超えての提携が進んでいる事が、他地区での「お湯ーとぴあ塾」「まなびや」の活動とともに紹介された。この報告に対して、「なぜ、東北地区でできたのか」参加された人の構成などについて質問があり、官制の公開講座などになると「形骸化」し、変貌する恐れがあるとの発表者の意見もあった。  総合討論では、「地域共同研究センター」が、当初から「産官学共同センター」として発足した経緯から見ても、一般的には否定できないにしても、「社会に開かれた大学のあり方」とのかかわりで、上述の2法に現れる「産官学融合」の急展開の中で、教員の認識の問題としても、多くの問題があることが指摘された。拡大している科学研究費補助金・科学技術振興調整費などが「戦略的」傾斜配分され、センターなどへの民間資金流入が「短期的利益産出」のものに重点化されつつあるとき、そうしたものの「受け入れ」をやめた方がいいのか、また、問題があるとすれば何処が一番問題か、それをどのように変えていけばいいのか、といった問題についての議論となった。  民需と軍事の区別がつきずらくなっており、科学技術の「軍事化」が国策として促進された戦前の歴史を見ても「お金のために魂を売ってはならない」のだから「辛抱しなければならない」という意見があり、懸念されるような例が多くあり、資金の運用過程でのチェック機能など大学の自浄能力が試されているという指摘があった。シンポジュウムで指摘されたように、「科学技術立国」という政策のもとに増加した研究費が歪んだ形で配分され、その評価もはっきりしないものにバラマかれる一方で、基本的経常経費に事欠くありさまの改善をこそ緊急の課題だとする提案もあった。 平山英夫 大学共同利用研究所問題 司会 平山 英夫(高エネ研)    宮地 竹史(国立天文台)    折野 稔(九州大) 参加 12単組 17名  大学共同利用機関をめぐる状況として大学に適用されるようになった「技術専門官・技術専門職」の大学共同利用機関等への適用を求めていく運動と「独立行政法人化」という2つの大きな課題があったので、この2つに絞って情報交換、意見交換を行った。例年に較べて活発な議論が行われた。 【技術職員問題】  午前中の「技術専門官・技術専門職」適用を求める運動については、大学付置の共同利用研を含めて「実状と組合としての運動」についての報告を聞き、その後自由討論を行った。  京大からは、大学事務局からは「付置研も適用しても良い」が、どうするかは部局に任せるという事であったが、センター長・所長は「省令の方がしっかりしている」という理由で、技術職員の要望を無視して「適用しない」という回答をしたという報告があった。  九大の応用力学研究所からは、技術室が室長、班長、掛長と技術専門職員で構成されているが、平均年齢が高くある年代に集中していることから、室長、班長については組織化のメリットはあるものの掛長についてはメリットとデメリットの両面があり、ポストに制約されず有資格者に適用される「技術専門官」の導入を要求しているとの報告があった、  国立天文台からは、省令に基づく技術部(教官の部長の下に、課長、課長補佐、係長、係員:計44名)と教育職の技術職員(技術助手50名、助教授10名程度)がある事、ライン制ではポストにしぼられ昇格が遅れるので、課長以下に技術専門官を適用する事を要求している事、ハワイ観測所の発足に伴い技術部に属さない技術職員が生じたので、これらの職員の処遇上からも導入が必要になっている事が報告された。  高エネ研からは、組合からの要求もあり機構長から「技術専門官・技術専門職の導入に関して検討するように」という指示を受けて、技術部内にワーキンググループを作る事になり、各研究系単位の代表で構成し検討を行った事、ワーキンググループでは,8級までとれる専門官、当面係長になれない技術職員の4級昇格,技術部および技術者の本来の姿についての議論が行われ,その実現のために『技術専門職を導入するべきである』という答申を行った事が報告された。  報告に対する質問や議論の中で役職ポストとその級別定数についてかなりの違いがある事があきらかになった。大学共同利用機関等への技術専門官・技術専門職員適用を検討する場合にも重要な点であるので、全大教として情報を集約する事の必要性が出された。また、大学への今回の措置が「技術が重視されるなかで職種として位置づけられた」という面もあり、技術職員の望む体制と処遇の面から大学共同利用機関等への技術専門官・技術専門職員の適用を検討すべきであるとの意見も出された。  今回の議論の中で、大学付置の共同利用研究所等における技術職員の状況は、技術室等の組織が確立している等教室系技術職員より大学共同利用機関における状況に近い事が改めて明らかになり、その点からも情報の集約を始め今後共同して運動していく事の重要性が確認された。 【独立行政法人問題】  独立行政法人及び省庁再編問題では、全体的な動きを知るために全大教の森田氏より、昨年からの「行政改革会議」の動向、8月中旬の行革審のヒアリングで「大学共同利用機関と大学付属病院」が対象となった事、成立した行革基本法と大学審「中間まとめ」の関連等の紹介があった。今後、適切に対応して行くためにも「正確な情報を全大教に集約」し、対応と分析をしていきたいとの全大教としての立場が表明された。  高エネ研からは、機構内に「独立行政法人に関する検討のワーキンググループ」が設置され、この問題についての検討が急ピッチで進められようとしている状況と学研労協を中心とする国研での「独立行政法人化反対」の運動と状況が、天文台からは省庁再編に関連して宇宙科学関連分野での国研を含めた統合の動きが紹介された。  この問題については、流動的で情報も不十分なためまとまった議論はできなかったが、・トップダウンで結論が出される危険性があり、機敏に反対が必要である。・省庁再編に関連して、教育職と研究職の並存が可能なのか。・性格の異なる研究機関を一緒にする事ができるのか。・公務員型と非公務員型の違いが明確でない。等の疑問や意見がだされた。  特に、「独立行政法人」問題については、大学共同利用機関の構成員はほとんどが理系であることから、その制度上の問題点などの分析を全大教として明確にし、組合として適切に対応できるようにして欲しいという要望が出された。 三田村道子(群馬大) 大学教育と図書館の役割  司会:村上 健治(大阪大)     日谷  守(金沢大)     山口 勝平(大阪市大) 参加 19単組 42名  レポートは事前に準備された6本(詳細は「基調報告・分科会レポート集」を参照)と当日レポートの計8本であった。  事前準備分は、@図書館オリエンテーション教育の試み(金沢大 日谷守)、A東京大学総合図書館における身体障害者サービス(総合図書館職員組合)、B「情報検索とその活用」授業の実践報告2(新潟大 小川 葉子)C京都大学全学共通科目「情報検索入門―図書館とインターネット情報の活用―」の概要(京都大 後藤 慶太)、D京都大学図書館の変化―1、2回生の利用―(京都大 堤 美智子)、E大学院重点化に揺れる図書館(京都大 竹村 心)であり、当日分は、@神戸大学附属図書館の電子図書館化について(神戸大 前田 哲治)、A米国における大学図書館の機能(一橋大教員 辻内 鏡人)であった。事前に準備された6本のレポートの詳細は、教研集会の「基調報告・分科会レポート集」を参照していただくとして、以下に報告と討論の主要な特徴点の概要を述べる。  標記のテーマによる討論も3年目を迎え、学生教育に図書館が果たすべき役割は何かを意識した取り組みが広がりを示していることを確認できた。それは、学生授業(教養科目)に図書館を活用する情報リテラシー教育を取り入れる大学が一昨年の新潟大から金沢大、京都大へと増えたことにあらわれている。またパソコンを使った情報検索だけでなく、二次資料を含めた図書館資料を使った論文作成や調査技術習得などの工夫がこらされてきていることからすると、質的な深まりをも見てとることができる。このテーマについての討論の中では、図書館職員の授業実践を継続させ安定的なものにするためには、図書館職員だけでは授業を持てないので、図書館職員の役割を明らかにし、館員の合意をかちとり教員との協力共同の関係をつくりあげることの重要性を認識させられた。このテーマとの関連性において、即ち学部生の学習を援助する図書館機能をどこに求めるかを考える判断材料として、各大学からガイダンスの実践例も報告された。  東京大の身体障害者サービスを含めてこれらの新たな図書館サービスは、図書館長などの積極的な推進者に支えられており、制度として定着しきれていないこともあり、絶えず縮小ないしは廃止の危機にあることも報告され、新潟大ではこの授業も今年度で中止となった。また東京大からは学内に身体障害者サービスの基準がなく、過去の貴重なノウハウも集中して蓄積されることもなく、当事者の卒業により中断・分散されてしまうので、学内に横断的連絡組織をつくり対応方針を定めるべきである、との提案があった。  大学院重点化、教養学部改組がもたらす図書館への影響については、前期のD、Eが報告され、図書館組織、図書館機能、図書館業務のあり方への模索が語られた。  当日持ち込みのレポート@では、補正予算で電子図書館システムが予算措置されたが、ハード面だけであり、運営などのソフト面への配慮を欠き、資料提供サービス面で具体的なメリットがまだ見えていない、また入力経費が措置されるかどうかが不明であり、電子図書館への予算措置が資料費の減少をまねきかねない実態が報告された。Aでは、米国における授業関連、ILLなどの図書館業務が紹介され、利用者側と図書館側の双方向コミュニュケーションの重要性が指摘され、図書館職員の専門性を考える上で示唆される点が多々あった。  時間の割にはレポート数が多く、討論時間が少なかったが、いずれもが今後の職場での実践活動を進めていく上で貴重な参考資料となるものであった。 佐藤守男(東京大) 図書館職員 司会 日谷  守(金沢大)    村上 健治(大阪大)    山口 勝平(大阪市大) 参加 19単組 42名  分科会での討議の対象は、当日持ち込みの3本のレポートと図書館職員部長提案の「大学図書館をめぐる情勢」、および3年越しで討議し図書館職員部委員会でまとめた「定員問題」、「学術司書制度(案)」であった。  この分科会での課題は、大学図書館におけるよりよい利用者サービスの実現と、それを保障するための職員制度の確立、待遇改善ならびに環境の整備の問題を有機的一体のものとして捉え、それらをいかに解決していくのか、その方向性を探ることであった。以下にその概要を述べる。 1 大学図書館をめぐる情勢(図書館職員部長提案)   大学図書館をめぐる情勢は、「行財政構造改革」を根拠として大学図書館関係予算の大幅削減と定員削減に象徴されるように依然として厳しい状況にある。また大学審議会の「中間まとめ」は大学における図書館の位置づけと役割についてほとんど触れておらず、「科学技術基本計画」、学術審議会の「(建議)」等の政策からも後退している。こうした中で、図書館職員部の目標は二つ、@学術の中心にふさわしい大学図書館づくり、A図書館職員の地位確立と待遇改善を運動によって実現していくことである。図書館職員部は、これまでも現場で働く図書館職員の要求を「要望書」にまとめ、文部大臣はじめ関係各方面に出してきたが、要求解決に向けて国立大学協会、国立大学図書館協議会にも意見反映の努力を続けつつ、文部省交渉を行いたい。また「大学図書館組合組織調査」の結果を活用し、図書館職員相互のネットワークを通じて現場からの要求汲み上げを重視していきたい。 2 「定員問題」、「学術司書制度」案(図書館職員部委員会提案)   昨年の教研集会(静岡大学)で政策提言を行った後、単組、個人から委員会に寄せられた意見を極力とりこみ、まとめられた案について前回案との相異を中心として報告があった。その概要は以下のとおり。 (1)定員問題    @定員削減以後、業務量増大、定員減を補うべく定員外職員の雇用が増大し、いまや40%の定員外職員の雇用で大学図書館業務が辛くも維持されているとの情報認識の下に定員外職員問題を1項目追加し、問題点と要求を記述した。A図書館職員の専門性について整理した。B図書館専門職員の担当業務に幅持たせた。 (2)学術司書制度    @職員組織を統括学術司書官―学術司書官―学術司書―大学図書館司書とした。A技術職員がかちとった成果にならい、学術司書官、学術司書を訓令に定める官職とし、その選考は学長が行うものとした。B各官職の号俸設定は技術職員と同様とした。C「実現のための条件整備」を付加し、事務職員の専門職員定数増や技術専門職員制度実現などの運動上の成果を図書館専門職員制度制定にむすびつけるよう、図書館専門職員ポスト新設、専門員ポスト増とその上位格付けを実現させるなどの条件を提示した。    以上の二つの提案は、10月の98年度第1回委員会で成案化し、全大教中央執行委員会の議論を経て全大教政策として発表し、国大協、国大図協とも協議の場をもち、文部省や人事院に実現を要請していきたい。 3 風通しの良い職場をめざして(群大工学部分館)   工学部分館は2係、職員は定員6名、定員外2名。96年4月から全職員によるミーティングを隔週1回続けてきている。そこでは、日常的な業務連絡をはじめ、業務改善、合理化についても話し合い、実行に移されている。全員が同じ情報を共有しあい、バラバラにしか見えなかった図書館業務を全体として見ることができるようになったことが大きな成果である。ミーティングでの結論を決裁なしにどこまでできうるかの自由裁量の範囲の定め方が今後の課題である。 4 人員問題の取り組みをめぐって(名大図書館支部)   昨年9月の図書館長選挙に際して、図書館支部はアンケートなどにより図書館職員の声を集約し、反映させるなどの取り組みを行った結果、図書館の改善に真面目に取り組もうとの意欲を持っている館長が選出され、学内的に図書館問題への認識は深まりつつある。ただ電子図書館などの新規事業要求が予算、人員獲得の手法として使われてきていることに危惧の念を感ずる。定員外職員問題も一層深刻になっており、人員問題解決の糸口がなく悩んでいる。明るいニュースとしては、名大図書館職員部会が結成された、との報告があった。 5 図書館職員の6級昇格改善(東職図書館部会)   資料は先日の事務部長交渉に使ったものであり、東大は組織規模に比して掛長ポスト数が少ないので、6級昇格できない5級高位号俸者が全学でたくさんいる。部会は図書館専門職員ポストの新設で改善をはかっていきたいと考えている。 6 討論   討論は、T委員会提案の3項目について、U3大学からのレポートについて、の2つに分けて行った。Tでは、@学術司書の格付けの根拠を問う。A技術職員の専門職制度を研究し、職場要求を汲み上げる形で成案化すること。B専門職制度は必要だが、現状の固定化を危惧する。C現状の力関係の中で、「実現のための条件整備」を要求していくことに困難さを感ずる、などの意見が出された。これに対して、図書館職員部長から、図書館職員は事務、技術に比べ昇格が遅れていること、事務は専門員、専門職員になることによって7級昇格が可能になり、6級昇格も改善されていること、技術職員は新しい職員制度発足による7級が標準で措置されたこと、8級以上の職は省令で職務規程が明示されること、図書館職員を省令・訓令などの中に位置付けさせる闘いの必要性が強調され、現実の昇格改善要求と制度要求を一体のものとして運動を進めていきたい、との回答があった。   Uでは定員問題の激しさを反映して、@定員化は無理なので待遇改善、特に給与面での改善を、A定員外職員に研修機会を、B期限付きの撤廃を、C管理職の交替に伴って、定員外職員の労働条件が改悪されないように、C事務の一元化、統合の中で定員外職員の業務がなくなったり、身分が喪失することを阻止すること、D昇格改善を前進させるために全大教昇格交流会に参加しよう、などの要求や意見が出された。   以上の意見を、98年度第1回図書館職員部委員会の次期活動方針案討議に反映させていくことを確認し分科会を終了した。 山本幸夫 事務職員 司会 三宅 則義(全大教)    深見 健次(京都大)    寺川 重憲(神戸大)    高島 悟史(東京大)    山本 幸夫(神戸商船大) 参加 13単組 26名  最初に、戸田氏(名大)から「職場と職員の状況を配慮し、差別のない人事異動を」と題して、レポート報告が行われた。これによると名古屋大学では、仕事の継続性や個人の事情、経験を無視した人事異動や教室系事務職員や、女性事務職員等の昇任の遅れ等が報告された。そして、これらについて納得できるルールづくりを確立すべきとの報告だった。  ひきつづき、菊池氏(東北大)より「事務職員部の運動の強化と発展をめざして」と題して報告が行われた。このレポートでも、人事異動問題が中心で、こちらは年代別にアンケートをとりその分析結果等が報告された。さらに、事務職員の研修制度の問題にも触れられた。最後に山口大学より「学生事務集中化についてのアンケート結果」について、報告が行われ、この件についての分析や質疑応答も行われた。この後、休憩をはさんで、三宅副委員長より大学審議会の「中間まとめ」の事務組織、職員の課題と現在全大教が提案している「事務職員の課題(第一次案)」の報告が行われ、この後討論に移った。この討論の中で、組合員として主張している立場、一事務職員として仕事にたずさわる立場と微妙に立場が違ってくる。お互いが理解する環境をどうつくるのか、今の事務職員が抱えている問題だという指摘があった。又、事務職の仕事の取り組み方にも問題がでてきているのではないか。とりわけ、大学生抜の職員が十年前と比較して無気力になってきている。私学の職員と比較しても私学の職員は「我大学の為」という自意識があって信頼ができるという意見もでた。自意識についてはこんな意見も静岡大学から出された。いわく、教員と同じように、事務職員の学生サービスが、実は学生を育てているのではないか、教員と職員の対立、教員が考える大学自治と職員が考える大学自治が違う。教員と職員が討論できる場をもつことが必要だ。又、大学の生抜職員だけでなく異動官職員もその認識がない等の意見がでた。  名古屋大学では、事務組織が管理運営機関の一部という立場から、朝鮮高校の生徒が出願し、それに対して無責任な対応をした事例をとりあげて、物事を機能的に判断できる現場の能力向上も必要だという意見もだされた。(初日終了)  二日目は、事務一元化問題について討論された。まず、東大より特定事務集中処理構想が報告され、問題の少いところが来年からスタートすることが報告された。神戸大学ではすでにこの四月から文系五部局が「社会科学系学部等事務部」として一元化がスタート、教務系は現状のままだが庶務・会計系が一元化され、担当者がいないと他の者が対応できない等の問題がおきている。その為か、自然科学系の学部事務集中化は白紙撤回。かわりに浮上してきたのが学生部の一元化、今回のことで大学当局も、現場の声を重要視している。山口大学でも五学部の会計事務の集中化を行った。学生センターは、学部の強い抵抗で大半が残ったが雑務が増大し、職員同志の対立も生まれている。又、教官とのコミュニケーションが従来より希薄になる等、教官からの不満の声もあがっている。一元化に移行するプロセスもほとんどがトップダウン方式ですすめられ、構成員(教員、職員、学生)への周知徹底も不十分である等の意見が次々にだされた。名古屋大学からは定員削減や将来の独立行政法人化も当局は視野に入れているといわれる。大学の事務は一般の社会ではなかなか理解されず社会に対して何をするか問われている。教員も独立行政法人化の方に関心があり、事務組織まで問題意識がいかないのが現状である。三宅副委員長は大分大等の例をあげながら、事務の組織率をどうあげていくのか、どう活性化させるのかが課題だといった。  「中間まとめ」の事務の専門性の件についても意見がでた。教研の基調報告では、事務の専門性について研修すればいいとしか読めず、「中間まとめ」の専門性を高めろというが、事務の人事異動が数年来、三年周期で現状でどう対応するのかという意見がだされ、それに対して、全大教から、大学審の「まとめ」もからめて、今後、あるべき事務職員像を提案したいという説明があった。又、専門性を高めるためには研修の問題も重要である。一般には、国家公務員としての研修や、実務の研修があるが、大学としての研修が必要ではないか。京大では初任者研修に評議会の見学をとり入れている。今後、各大学でどのような研修が行われているか、実情を調査するとともに、今後も事務職員のあり方をすすめていくことが確認され、討論を終えた。 益子一郎(茨城大) 技術職員 司会 糸井 茂(山口大)    吉田 純(岩手大)    佐々木敏昭(東大)    星野 富夫(東大) 参加 23大学 33名  技術職員分科会は、教研集会第2日目(9月12日)の15時15分〜17時30分と、第3日目(9月13日)の9時30分〜11時45分の時間で行われた。  第2日目(9月12日) 司会:糸井、吉田  はじめに、星野技術職員部長から挨拶とともに今年度から技術専門職が適用されるようになるまでの方針や取り組み等の報告がなされた。  司会から、今回の教研は従来の進め方により進行されている為に分科会としての討議時間が少ないことから、進行は重点項目を設定して討議することとし、○改組について○職の発令について○研修について○昇格について、等を中心的に討議したいとの提案がなされ承認された。 (改組について) ・レポート:熊本大学工学部の改組について 報告の概要  熊本大学工学部では1996年に学科長会議での学部長提案以来、学部検討機関のワーキンググループ(以下、WG)が中心になりまとめた「技術部組織規定改定案等」が、1998年3月の学部教授会で承認され、改組に向けた学部の方針が確認された。  最初に学部長から、技術部の組織改組に関する趣旨として次の3点が示された。 (1)学部の教育・研究バックアップ体制構築に向けた、実動できる技術部としての再組織化、及び対外的にも認知された組織の確立(学科・講座から独立させ実体化しやすい組織) (2)年功序列による昇格等の改善(昇格昇給への業務評価導入) (3)定員削減対策(学部内人事交流による学科間配置の均衡化と定員の確保)  同時に学部検討機関としてWG(構成員:学部長、組織委員長、教授2名、技官2名、事務長)が設置された。  WGで数回の討議がなされ、1998年1月のWG会議で組織は、技術部長、副技術部長、総括技術官、主任技術官、総括技術官補、技術官で構成し、訓令によって導入される「職」は、組織のポスト名には流用しないことが確認された。  3月の教授会で「技術部組織規定改正案」が承認され、技官に対する「技術部改組に伴う学部長の説明会および意見交換会」が行われた。  WGの発足と同時に、技官側は意見集約機関として技術部組織検討会を発足させ、組織改組に当たって次の3点を最大課題とした。 (1)改組された組織が現行以上に専門職群として確立されること (2)昇格昇給改善につながる (3)運営委員会設置による民主的な管理運営  1998年7月人事課から示された「熊本大学技術職員の組織等に関する規則(案)」では、「技術専門官」「技術専門職員」がポスト名として用いられていたため、事務局側と折衝を行った。事務局側は「職」を使った組織化を強力に推し進め、昇格・昇給などの上申に有利に働くとの見解を示した。結果的に、技術部長、総括技術専門官、技術専門官、総括技術専門職員、先任技術専門職員、技術専門職員、技術官の名前が使われることになった。  今後、規則等の見直しが行われ、1999年4月発足を目指している。  これらの質疑・討議では、岩手大学、京都大学(計算センター)、東京大学(生産技術研究所)からも技術部の組織についての検討・取り組みについて意見が出され、熊本大学からは、あくまでも学内組織の改組であり、概算要求する組織としては考えていないとの意見が出された。 (職の発令について)  佐々木副委員長から技術専門職の制定に伴う専門官・専門職員の発令状況と問題点ならびにこれらを受けた今年度の昇格状況の説明があり、東京大学では1998.8.19に2部局3名の技術専門官に対する専門官の業務についての人事院の調査があった事等の報告もなされた。  次に、全大教が用意した、“技術専門職数、級別現在員数等の調べ”をもとに、参加者の大学での昇格状況の確認を行ったが、定数の配置状況を掌握することが今後の上級の級の定数を確保する運動の要であることが確認された。  第3日目(9月13日)  司会 吉田、糸井 (研修について)  神代技術職員部委員から全大教の方針としてとりまとめ、文部省・国大協に要求した「研修制度に関するわれわれの提案」の資料をもとにしての説明を受け、現在各大学で行われている研修要項等の収集を行い、技術職員部会でまとめたいとの報告があった。  研修の実施状況、研修費、旅費の捻出方法などについては、大阪大学、福井大学、名古屋大学、京都大学、東京大学、岩手大学、北海道大学、大分大学から報告があった。  これらの討議で明らかとなったのは、研修単位としては、部局、大学、地区、全国とあるが、部局、大学単位ではほとんどの大学で行われている。また、北関東、中部北陸、中国四国地区で数大学合同の研修会が行われている。また、研究所などが中心になり全国規模の研究会等が以前から行われているとの報告があった。  技術部を名実共に発展させるためにも、研修費は校費から出させることが技官の研修権確立にもつながる、組織の研修委員会等を機能させることが重要であるとのまとめがなされた。 (昇格、その他)  時間の都合上、まとめて討議がなされた。  専門行政職適用問題についての意見が出され、佐々木副委員長より、資料の“1998年度全大教技術職員要求”等をもとに全大教としての取り組みの説明がなされた。  今年度の6級昇格の実態を見ると、団塊の世代対策を見据えた配置が見送られたとの説明に対して、団塊の世代対策としての昇格要求として、具体的に各大学で事務局に対してどのようにすればよいのかとの意見が出された。後日、具体的な要求方法を佐々木副委員長より示すことになった。  秋田大学より、技術職員問題等の資料、現状を早急に各大学で入手できるようにするためインターネットを積極的に利用するべきではないかとの意見が出され、数大学で大まかな案を作り、益子技術職員部委員がまとめて全大教に提示することになった。これらのまとめとして、当面の早急な要求として、団塊の世代対策と研修権確立であることが確認された。  最後に、このように多くの問題を抱える技術職員の分科会が短時間で行われ、実質的な討議がなされなかったのが残念である。 宮川和行 現業職員 司会 宮川 和行(全大教)    金子 一郎(北海道大) 参加 5大学 9名  1、分科会討論のはじめに、この間の昇格問題や全大教現業職員部委員会の活動状況が中執担当の宮川書記次長から報告された。昇格要求では看護助手の3級が拡大されたこと、部下数づくりが定員外職員、外注職員をカウントするとしても少なくなっているもとで、文部省も組織図での「集中化」などを行い上位級確保を行いたいと交渉で回答していること、また、ダイオキシン問題から廃棄物処理に各大学で分別収集などが行われ、業務の変化に新たな要求事項があれば集中してもらいたいとされた。また、大学審議会の「中間まとめ」から、大学運営をはじめ、ひきつづく「高度化」などからの「改革・改組」や定員削減と重ねた事務合理化の強行から、事務組織の統合再編など職場の変化が著しいこと。さらには、高齢者社会にむけた「新再任用制度」について人事院から意見の申し出が5月に行われ、実施に向けた検討が開始されようとしていること。さらに、8月人事院勧告で昇給停止制度改悪が強行されたことから、秋の人事院勧告実施にむけた行動づくりをはじめ、遠慮のない各方面からの、これらに対する要求づくりについて討論していただきたいとされた。 レポート報告から討論開始  2、こうしたことに、東北大菅原氏よりレポート報告がまずおこなわれた。内容は「行(二)職員の大幅削減・不補充反対・職務の確立と昇格改善」を標題にしたもので、外部業者の毎年の変更から、職務遂行上の注意点の指示など、業務内容が明確に整理されないままでの職務内容の変化が大きいこと。少数となった職種では、本人の意に反した職種変更の強行、予定をくりあげての外注化がおこなわれること、定年後の再雇用に対する不安など現在の現業職員のかかえる不安などが紹介された。東北大ではこうしたことに、月一回の行(二)職員部会を開催し、昇格・昇給、行(一)移行要求など待遇改善を求めて地道でも運動を起こしていくことの重要性が明らかにされた。  参加者からの意見は各大学でも同様なことがあり、病院での停電事故による呼び出しや守衛職でも夜間の緊急事態への対応など、外注に関わる要求が多方面にあることが明らかになった。このような中で要求をしっかりかかげて運動することが大切で、具体的課題として再雇用の現業職への適用、少人数での「長」の発令獲得が昇格に影響することから、先輩が到達した部分は必ず確保するなどの運動強化が重要だとされた。また、全大教全体としても現在、道がひらかれていない教室系技能職員の5級昇格の実現にとりくみを強めていただきたいとする要求が出された。再雇用問題では、各大学での状況の交流と個々の組合員の意識が紹介され、その中では仕事につくことを希望する方と、年金問題などにとりくみの重点を置いてもらいたいとする意見があることが明らかになった。定年年齢延長も組合では要求しているが、現在の人事院などの対応は少しでも安く雇用するしか考えていないことから、軍事増強や不良債権問題、銀行資本への公的資金導入など、国の財政運用についてもわれわれとして意見をまとめることが重要とする意見があった。 ねばり強く運動を  3、こうした意見交換から昇格問題を例に東大病院、琉球大学でのとりくみが報告された。内容は昇格要求で当局交渉をするなか、部局では「推せん」しているとしながら、東大からは文部省に要求されていなかったことが判明した。昇格要求をした組合員と同年齢に近いある同僚は昇格したのに対して、昇格されないことから数々の職務内容を示す資料を用意しねばり強く要求するなかで昇格を実現した琉球大学からの経験が紹介された。  こうした経験からしっかり学び運動強化をはかることとされました。  また、人事院の「新たな再任用制度」に関する意見の申し出などや、昇格基準、昇給制度改悪、年金制度などの資料提供を討論材料に提供してもらいたかったとする要望が出されたことは、分科会運営を準備する側の反省としてあげられる。 閉会集会  司会 発言されたい方もたくさんおられると思いますが、時間の関係上、運営委員会のほうであらかじめ意見を賜りました三つの単組から発言していただきたいと思いますが、よろしいでしょうか。  もし時間が余るようでしたらフロアからの発言も求めたいと思いますが、そのように運営をさせていただきます。  最初に、学内の課題でたいへん忙しいなかを本集会の準備をしていただきました一橋大学から、学長選挙制度の問題について、林さんから発言をお願いします。なお発言時間は8分以内でよろしくお願いします。  【一橋大・林大樹氏】 一橋大学の林です。今回、私は分科会のDで、「今日的大学自治のあり方と管理運営問題」という課題別分科会の中で報告する機会を与えられました。そこで私は「一橋大学における学長選考制度と大学自治のあり方について」というテーマで、一橋大学における学長選考への職員層と学生層の参加制度の概略を説明させていただきました。この参加制度がここ二十数年来、文部省から、教特法に照らして適当でないと指摘されてきたわけですが、それに対して一橋大学はどう反論してきたか。  反論の一方で、学長候補者の上申時に、学長の任命をスムーズにしてもらうために、文部省と大学の折衝過程で、「メモ」と呼んでいるのですが、「学長選考報告書補足」という文書を大学側が提出してきました。その文書の文言の蓄積が文部省との約束となって一橋大学を縛ってきたということも説明いたしました。  こういった過程の中で昨年6月、本学の阿部学長は、大学と文部省との間に突き刺さったトゲを抜いて、「メモ」を出さなくてもいいようにしたいということで、参加制度の見直しを提案しました。これに対して職員組合と学生は、職員や学生の投票権を奪うものであり、大学の自治、われわれは「三者構成自治」と呼んでおりますが、その原則を揺るがすものであるということから、現行制度の改廃に反対し、投票権の堅持を主張してきました。これを発端として、ここ1年ぐらいいろいろなことがありました。それは短い時間では説明できませんが、結局、学長選挙に間に合わせるためというタイムリミットが来まして、今年はともかく現行制度で学長選を行う、職員、学生が参加して学長選挙を行うことになりました。現行方式での学長選挙への取り組みをいま組合の執行部は進めております。  しかし依然として現行方式を見直せということも評議会から提案されていまして、そのことを受けて評議会との間で、その制度見直しを議題とする折衝が始められております。  こういったさなかにこの教職員研究集会が開かれましたので、この機会を活用させていただきまして、私どもの組織の活性化に役立てたいということで報告をさせていただきましたところ、分科会の司会のご配慮でかなりの時間を割いていただきまして、このテーマで各大学との経験交流ができました。  大阪教育大学からは、8年ほど前までは同大学もこうした参加制度を持っていたけれども、文部省から「一橋と、おたくと、国立大学ではもう2校だけになってしまった」ということで圧力を受けて、結局放棄せざるをえなかった。一橋大学だけを独りぼっちにして申し訳ないという言葉をいただきました。それ以外の大学でも、オモテの規則内規から外して意向投票というかたちで続けている大学、名古屋大学、神戸大学、群馬大学等から、その説明や経験について報告していただきました。  また制度とか規則ということではないのですが、学長選に絡んで情報の公開ということを求めて取り組まれている大学として、埼玉大学や宮崎大学等の経験も教えていただきました。  今後の取り組みについてですが、名古屋大学から、文部省の圧力というのは非常に露骨になってきていて、理想論と現実の両立は困難である。何とか頑張って実質を維持するように努力してほしいという激励をいただきました。  われわれは、この制度をどう考えるかということで、特殊性と普遍性という問題を提起いたしました。それはこの参加制度が世間の常識から外れて取り残された特殊な制度なのか、それとも住民投票等の流れに代表される参加の潮流の中で、普遍性、あるいは先駆性があるのだろうかという問題を議論したいと思ったわけです。島根大学からは、一橋の制度は先駆性があるということで、ぜひこの制度を残すように頑張ってほしいという激励をいただきました。  こうした経験交流の中で私どもの組合もたいへん力を得まして、これからの取り組みに役立てたいと思っております。以上です。(拍手)  司会 どうもありがとうございました。それではA1分科会で学生教育問題のところで議論になりましたポイントについて、立山執行委員からお願いします。  【山口大・立山紘毅氏】 立山でございます。「A1の分科会」は学生教育問題のセッションということで行われました。研究と教育を一体として推進していくのが大学の任務であることから、学生教育の問題といいますのは、全大教にとってみても非常に重要なところです。その一方、また「中間まとめ」の中では、学生が教育に対して熱心でないということが非常に一方的に指摘され、その中で、たとえば授業評価の問題ですとか、あるいは単位取得の上限を設けるとか、そういったいろいろな提案、ただしカッコ付きとしなければなりませんが、そういうものがもたらされてきたわけです。したがって、この学生教育の問題というのは、この教育研究集会の中でもまさに中心となるテーマの一つと言うことができます。それだけに逆にまたさまざまな専攻分野、あるいは担当科目の違い、また対象とする学生の違い、そういったところから、いろいろ難しい角度の違いというものもあろうかというところでした。  この分科会、具体的に申しますと、提出されたレポートをご覧いただければ一目瞭然ですが、基調報告で分科会レポート集のほうには1件もなく、結局持ち込みのレポート1本だけという状態で始まったわけです。実際のところ、いまさまざまに言われております学生の変化、たとえばいわゆる学生の大衆化と言われる問題ですとか、あるいはその連帯の欠如、あるいはこれは昨年の教研集会でかなり多くの方から指摘があった点ですけれども、幼稚化と言われるような現象、そういうものの中でいったいどうやって大学教育をやっていけばいいのか。  その一方、たとえばこの「中間まとめ」の中では、教育サービス論、つまり学生を教育というサービスの消費者と見なして、それに対してどういうかたちで消費者のニーズに合ったサービス、商品を提供していくかといった、そういうたいへん功利的な観点からの議論が仕掛けられてきています。これに対してレポートの1本であります「静岡大学人文学部の法学科における『導入期』教育」という、この報告はまさに教育サービス論と言われるものに対して正面からそれに対する違和感があるということで、実は教育を行う側から見て、大学としてどうしても外してはいけない課目があるのではないか。そういう問題意識から出発したということが報告されました。  これは私も同じ法律学を専攻しているということもあって、そういう意味での興味もあったのですけれども、法律学を専門とする学生が1年次に、最初に課される課目、専門基礎という課目の中で、3人の担当教員が150人の学生を担当して、レポートや、あるいは参加型の授業を中心とする「法制概論」という専門基礎に当たる課目を担当した。そういうレポートでした。  そのテーマの選択のありようとか、あるいは学生の反応といった点で非常に興味深い、いろいろな指摘があったのですが、その報告を基礎として、さまざまに議論が展開されたわけです。とてもすべてを再現するわけにはまいりませんけれども、たとえば、少人数教育ですとか、参加型の教育をやってまいりますと、確実に学生の中でそれに触発されて非常にアクティブになっていく部分がある。けれども、その一方で、かなり一定数、つまらないという、露骨に拒否する反応が出てくる。それをどういうふうにやっていったらいいのかという評価の問題点も出されました。  もう一つは、言ってみればそういうところで学生間の人間関係、つまり学生がどうやって共に学び合い、高め合う関係を作っていけるのかという問題点も出されました。  もう一つ、これは決してこういうような教育に対して否定的なことを言うつもりはないがという前置きの上で出てまいりましたのは、たとえばこれは教育学部ということで、教員免許制度という縛りがあるということから出てくる問題がありました。そういうところで、たとえば各課目で同じように少人数参加型、レポートという教育をやっていくと、その出席する学生がレポートをまとめるのに疲れ果ててしまって、大教室で受け身で聞く授業がひとときの心のオアシスになっているという(笑)、たいへん皮肉な指摘がありました。ある面でこれは一つの方向に教育のスタイルがすべて傾斜していくことの危険を指摘するものでもあり、かつまた、もう一つ言うと、そういう多様な、どうしても大教室でやらなければならないようなものと、少人数で参加をねらっていくようなものとのバランスをどういうかたちでとっていくか。そういうことの重要性を指摘するものであったのではないかと思いました。  そのほかに、こういう授業を展開するなかで、専門によって専攻課目、あるいはその担当課目によって、学生の自己体験を基礎にして、それを客観化するというベースによって展開できるものもあれば、その一方で非常に技術的側面が高いために、それではいっこうに学問という領域にスイッチできないという分野もあるのではないかといった指摘もありました。まさにそれぞれの専門分野や、あるいは担当課目によって、そのありようというものが多様に異なるということが指摘されたわけです。  もう一つ、A1の分科会で大変興味を持たれたこととして、学生による授業評価というものの現状について、いろいろと報告が行われたことです。実際にこれがかなり広く行われていますが、なおそのやり方、あるいはその評価の仕方、またそれをどのようなかたちで改善に生かしていくのか。特に厳しい指摘としてあったのは、もしこれをわれわれ自身が改善の資料としてきちんと生かしていくということをやらなければ、これは概算要求目当てのシラバス、あるいは評価をやっていますというアリバイを作るだけのものに終わってしまう。そういう指摘があったのは、たいへん重要であったのではないかと思います。  全体を通じて非常に活発な討論が行われたわけですが、その中で、これは非常に私的な感想ですけれども、教育というのは、こういう言い方をすると語弊がありますけれども、たとえ大学の設置形態とか何とか、そういうものが変わったとしても、これはまさにわれわれがやらなければならない重要な任務の一つである。そのときに個々バラバラに奮闘するだけではどうしても不十分な部分が出てくるし、場合によっては自己満足に陥る場合も出てくるであろう。そういうさまざまな経験をこういった場で交流して、相互に高めあうということの重要性が非常に印象的であったように思います。  また逆に、そういうものがないところでは、いわゆるファカルティー・ディベロップメントと称する、ありていに言えば官製の研修の押しつけが忍び込んでくるような余地があるのではないか。そういうことも感じさせられた分科会でした。 たいへん一方的で、ご発言があった方からは、そんなことは言ってないというような指摘もあろうかと思いますが(笑)、一応こういうかたちでまとめさせていただきます。(拍手)  司会 どうもありがとうございました。では最後になりますが、単組の中でさまざまな提案が行われていて、今回もそれぞれの分科会にレポートが出されました。名古屋大学からどなたか発言していただけますか。  【名古屋大・井上晶次氏】 名古屋大学職員組合の書記次長をしております井上と言います。名古屋大学で、もちろんどこの大学もそうでしょうけれども、学内にはさまざまな問題を抱えています。それは大学の運営をどうするか、それから教研集会でも言われています学生の教育の問題、また学内の環境の問題、さまざまな問題があるわけですけれども、名古屋大学職員組合としてこれまでいろいろな課題に対して、組合からその問題の解決はどうすればいいんだという政策を対置して当局に迫っていく、そういう観点で組合として取り組みを進めてきました。それは今回特別にレポートというわけではありませんけれども、学長補佐体制をどうするのかとか、留学生が増えてくるなかでどうするのかとか、事務が定員削減で減っていくなかで本当に事務職員が働きがいがあって、かつ仕事がきちっとできるようにするにはどうするのかとか、さまざまな問題で政策提起をしてきたわけです。  今回、そういう観点を押さえて、毎年開いているのですが、名古屋大学の学内で教研集会を開こうということにしております。毎年、全大教の教研集会の前に学内教研を開いて、そこで検討したことをここに持ち寄ろうということだったのですが、今年度はいろいろな理由がありまして、来週の土曜日、19日に学内教研集会を開きます。そこでは「21世紀を展望して私たちの名古屋大学像を語ろう」という大きなテーマを掲げています。そのテーマを全体で検討し、いろいろな意見を持ち寄って今後の政策づくりに役立てていこうじゃないかということにしています。  全体集会ではテーマを二つ挙げています。一つは、「21世紀の大学像と大学教職員の役割」、もう一つは「名古屋大学における環境問題」というテーマで、全体的な討論をしようということを掲げております。  一つ目のテーマの「大学像と教職員の役割」ということでは、大学審の「中間まとめ」の背景というようなことも含めて報告を受けて、その後、学内のそれぞれの各職種の役割を踏まえた自治のあり方を検討していこうということ。それから「名古屋大学における環境問題」というところでは、今年になって名古屋大学として「環境・廃棄物管理指針」という指針を出しましたが、その中では、大学が事業所として環境保全に責任をもっていく必要があるんだということが掲げられています。これは私たちも支持できる立場でありまして、事業所として本当に名古屋大学の廃棄物をどうしていくのかということでの名古屋大学の現状を、特にこの冊子を出された委員の方から報告を受けて討論を深めていく。それと同時に、名古屋市の、社会の中でゴミ処理がどうなっているのか。名古屋市には名古屋大学以外のさまざまな事業所がありますけれども、そういうところではどうなっているのかということで学外の方とお話をする。それが二つの柱です。  その後、課題別分科会ということで、三つの課題に分けてやります。これはそれぞれのテーマは一つの職種だけに偏って議論をするのではなく、さまざまな職種の方に参加してもらって横断的に議論をしよう。そういう議論ができるような内容にしようということで、課題別分科会では、「事務機構を中心とした教育支援体制のあり方」「名古屋大学での図書館のあり方」「大学教職員の勤務条件」という三つのことで討論をしていこうということです。  特に今年新たに掲げました名古屋大学での図書館のあり方について若干紹介しますと、どこでもそうかと思いますけれども、名古屋大学においても中央図書館というのがあって、そのほか学部に図書室があり、それ以外に各学科に図書室を持っているところなど、さまざまな形態があります。そういうことを含めて大学の図書館、それと室がどういうふうにあるべきかという全学的な視野でとらえる必要があるだろうということで、昨年来からの運動で、名古屋大学にもようやく図書館職員部会が発足しまして、これから運動を作っていくということがあります。この分科会では特に利用者の方に来てもらって利用者の意見を聞きながら、もちろん各部局の図書室の方にも来ていただき、図書館の方にも来ていただいて、利用者とともに図書館がどうあるべきかを考えていこう。そして今後の政策づくりに役立っていけばいいなということです。  時間が来ましたので、このぐらいの紹介で終わらせていただきたいと思います。(拍手)  司会 どうもありがとうございました。では、まとめを全大教書記次長で教文担当の森田さんにお願いします。 集会のまとめについて  【全大教・森田書記次長】 森田でございます。本日は書記次長という立場ではなくて、集会の運営委員会の事務局長という立場でまとめをさせていただきたいと思います。  まずまとめに入る前に、感想文を書いておられない方は、ぜひ、私どもの今後の運動に生かしていくということも含めて、その一つの出発点として位置づけておりますので、よろしくお願いしたいと思います。  まとめということですけれども、先ほど来の発言にもありましたように、大学審問題をはじめとして、非常に重大な情勢が現在展開されているという状況もありますので、本集会との関連で秋闘期の取り組みのポイントについても紹介させていただくということで、お疲れでしょうけれども、少しまとめの時間を取らせていただきたいと思います。  何はともあれ、3日間、日夜のご奮闘、ご苦労さまでした。参加者数は、全体で61単組、242名ということで、この間では参加大学の規模として、かなり大きな規模の集会として成功させることができたと考えております。  本集会のポイントとしましては、基調報告にもありますように、私どもの目的とした大きなポイントとしては、大学審の「中間まとめ」に対してレポートなど、各大学の実践的な取り組みに依拠し、その交流と、シンポジウムなどを通じて「中間まとめ」に対する真っ正面からの実証的な批判と、今後の大学のあり方を探るということを眼目にしてまいりました。このことにつきましては、これまでのご意見や各分科会等の議論、シンポジウムでの議論でも示されていますように、大学審の「中間まとめ」という段階とはいいながらも、この問題について全体を通じて相当深めた議論、これは当日持ち込みのものも含めましてレポートも全部見させていただきましたけれども、レポート自身が相当深めた展開になっているというのが一つの大きな特徴ではないかと思います。  その内容として、単に大学審議会への批判にとどまらず、大学の今後のあり方、これは先ほど名古屋大学からもお話がありましたように、私どもとして今後21世紀へ向けて大学をどう展望していくのかということについての、そういうやり方を含めた政策・運動の論点について、まだまだ深める点がありますけれども、その動きが始まっているのではないかと感じました。その意味では、守りから攻めの方向への胎動が全体として始まってきているのではないかと考えております。  こうした取り組みと関連しまして、秋闘期の取り組みについてのポイントを紹介させていただきたいと思います。この点につきましては、10月3日に全国の単組代表者会議を開きまして、全体の取り組みの提起と交流を行うということを前提にして、絞り込んだ点について提起させていただきたいと思います。  一つは人勧の改善部分の完全実施の問題です。この点につきましては、国会の会期自身、一面では流動性をもっているわけですけれども、現在の段階では10月7日が会期末ということで予定されております。ここまでに改善部分の完全実施のめどをつけていきたいということを一つの重要な私どもの柱として位置づけております。これは国会の流れの関係もありまして、もし会期が10月7日で終わった場合には、実質的な通常国会が1月からしか始まらない。ということになりますと、この臨時国会中に処理されないと年内支給が危ういという問題が生じてくるということからしても、この臨時国会内に決着をつけるという取り組みを重視していきたいということが1点です。  2点目につきましては、大学審の21世紀の大学像に対する取り組みの問題です。この点につきましてはまた改めて詳しい報告は10月3日の単代で行う予定でおりますが、10月26日に答申が予定され、現在、大学審はすでにそれに向けて審議を開始しているという状況であります。  各単組にお願いしたい取り組みの柱として何点かございます。一つは、すでに始まっているわけですけれども、徹底した学習・宣伝活動を実施していただきたい。その中で壮大な議論と、理系、文系の問題を含めた一致点を学内で広範に広げていくということが、いまの時期、きわめて大事ではないかというふうに感じております。  二つ目には、単組での「声明」、あるいは「見解」、そういう取り組みであります。この点では現在の段階で10大学ですでに「見解」が出されておりますが、さらにこれを大きく広げていきたいということであります。  最後に3点目として、教授会、学長への申し入れ、会見の追求、とりわけ自治との関係でいいますと、教授会での議論が行われるように、徹底してその問題について追求をお願いしていきたいということであります。  私ども全大教としましては、答申直後の11月7日に大学審議会のこの答申問題を中心にした、全国の単組代表者会議を開きまして、そこで答申の分析・批判と、今後の取り組みについての提起と議論、交流を行い、意思統一を図っていきたいと考えております。併せて、この期に大量宣伝を実施したいということで、当面、「全大教新聞号外」を9月末ごろには発行するということを考えておりますので、これらもご活用いただきたいと思っております。  秋闘期の取り組みの大きな柱の3番目として、こうした取り組みと併せて大学審問題の弱点に対して真正面から対峙する要求での成果をあげるため、要求署名運動の展開を図りたいと考えております。この大学審のアキレス腱、ウィーク・ポイントは何なのか。一つには、基準的経費の拡充という問題であります。改めて原点に戻って、総合的大学づくり。そのためには基準的経費の拡充という問題は避けて通れなということから、これを要求項目の一つの柱にしたい。  二つ目には、研究・教育基盤の充実。研究・教育支援体制という表現については議論も分科会であったというふうにお聞きしておりますので、その点については検討していきたいと思いますが、そういう基盤を充実させていく。そのためには、とりわけて予算・定員増をはじめとして、養成システムの確立を含めた課題。  3点目に、施設整備費の充実。  そういう三つの要求課題に絞った運動を展開していきたい。このことが大学審に対して、2番目に申しあげた点と併せた取り組みとして結合していくならば、かつてない、任期制法制化反対運動を上回る運動として盛り上げることが可能ではないかと認識しておりますし、それが大学審自身をも動かす原動力になっていくのではないかというふうにも考えております。  最後になりますけれども、まさに学術文化の町である国立、その中心である一橋大学での第10回目という節目にあたる集会は、非常に実りあるものとして成功したと言うことができるのではないかと思います。私ども執行部の未熟さによって運営上ご迷惑をおかけした点が多々あったかと思いますが、その点についてはお詫びしたいと思います。  集会をさまざまなかたちで支えていただいた会場校の一橋大学の教職員組合の皆様に対しては心から感謝を申しあげたいと思います。また集会の成功に寄与された関東・甲信越地区をはじめとした全国の各単組の参加者の皆さんの熱い思いに、感謝と連帯を込めて、まとめとさせていただきたいと思います。どうもご苦労さまでございました。(拍手)  司会 続きまして一橋大学の組合委員長にご挨拶をお願いいたします。  【一橋大・辻内委員長】 皆様、お疲れさまでした。3日間にわたる熱心な討議で、かなり有意義な経験交流ができたのではないかと思います。  先ほど、一橋大学が文化の中心であるという過分な言葉をいただいたのですが、実は今日は日曜日ということもありまして、このように平穏に見えますが、明日からさっそく大学の評議会、執行部側と組合との間で、激烈な、たぶんエンドレスな、時間を決めない折衝が予定されておりますので、大変なことになって、表面とは違った激しい対立が出てくるものと思われます。  実は一橋大学は、こういうことを言うのも恥ずかしいのですか、全大教、あるいは全国的なこういう経験交流の場にはあまり積極的には出て行かなかったほうでして、私が執行委員長になってから、全大教というのは専らファックスを通して出てくる(笑)、あるいは郵便物で全大教という封筒を通して見えてくるというような存在でした。それが、こういう場に顔の見えるかたちで来ていただいて、全国からの英知を、いながらにして、学ばせてもらえるという機会を与えていただきまして、本当に勉強になりました。  今回の教研集会をめぐる基本的な特徴は、大学審だったと思うんですけれども、個人的なかたちなのですが、アメリカ研究をやっている立場から、大学審の中間レポートを見ますと、ものすごくアメリカのものまねをしているという影響を感じました。  たとえばシラバスだとか、あるいは学生の授業評価とか、ちょっと前は任期制だとか、あるいはこんどはGPAという成績の評価の付け方、グレード・ポイント・アベレージという学生の評価の仕方とか、本当にそういうものまねが多いんですね。でも、肝心なところはまねしていないところがあります。それは何かというと、教育に対する国や政府の考え方がこれほど軽視されているところはないということです。アメリカのクリントン大統領はいまいろいろ問題を起こしておりますけれども、今年の年頭教書の中でもはっきり言いましたが、一大政策の中心に教育ということを重視する提言を出しています。どの学生も、希望すれば大学の教育を受けられるようにする。二千何年にはこういうふうにするというようなことを語っていますね。ああいったところをものまねしていない。  もう一つは、どこかのセッションでも科研費の話が出たようですけれども、お金に対する助成の考え方はまったく違うと思います。大学審の特徴は、一つは、ものすごく会社経営のアナロジーで、まったくそれと同じように大学経営もすればいいというトーンが貫かれていると思うんですが、そこでも違っています。アメリカの例ですけれども、たとえば100万ドルの助成金を民間企業が付けるときに、ある大学の先生がそういうプロジェクトを立てたときに、それの九十何パーセントの額を、九十何万ドルを、大学なり、そういった機関につけるのですね。日本は、どういうかたちで審査されたのか、だれがやったのかすら、わからないですね。アメリカでは、どういう研究者が、どういう実績のある人たちが、どういうところを評価したかというのをはっきり示します。そうでないと助成費を申請するときに、どこを改善していいのか、悪いのかわからないわけです。  科研費でも、当たったら、「当たった、もうけた」という、宝くじみたいな、あれだけの莫大なお金をいじりながらやっています。これほど無駄なことをやっていながら、そういう予算の配分の仕方について何にも反省もないし、そういうところを学ぼうとすらしていないようです。  これは私がアメリカ研究からだけ見た点ですけれども、都合のいいやり方のところしかもってきていなくて、これほどゆがんだ教育の展望なき構想といいますか、こういうのを見たのははじめてという気がしました。  今回の大学審の「中間まとめ」は、かつての大管法の新しいバージョンとして、出てきたというふうに私たちは考えていまして、明日からの評議会側との折衝の中でも、大学審というのをどういうふうに評価するのか、どういう問題があるのかというところを含めて議論する予定になっています。  今回得られたさまざまな教訓も、一橋のほうでも、もう一回かみしめさせてもらいまして、そういった折衝の場、これからの活動の場に生かしていけたらと思います。  そして、来年はどこでやるのでしょうか(笑)。そこの場には、今年の秋に、こちらの学長選考の仕方について何らかの方向性が出ると思いますので、いい報告ができるように頑張りたいと思います。  また、いろいろな経験なども教えていただけたらと思います。  実は私は現執行部なのですが、林さんは前期の執行部でして、私たちは現在の折衝のほうに当たっているせいで、教研集会の準備はほとんどできませんでした。その分、前期の執行委員長、あるいは執行部の方に全面的にお願いするような格好になりました。私がこんなところで開催校の挨拶をする資格はないのですけれども、身内でありがとうございましたと言うと変なのですが(笑)、皆さんに本当にお世話になりました。ありがとうございました。(拍手)