大学自治の憲法論 ―その今日的課題解明のための一試論― 立山 紘毅(山口大学経済学部・憲法) 〓視角の設定  「大学の自治は憲法上保障されている」といわれるが、日本国憲法についていえば、明文で保障されているのは「学問の自由」であって、「大学の自治」ではない。しかしながら、憲法論上、両者はほとんど常に一対の文言ないし概念として論じられるのが常である。  従来、「大学の自治」は「学問の自由」を制度的に保障する概念である、という説明がなされることが多かった。これは、第二次世界大戦前のドイツ・ワイマール憲法下で唱えられた、いわゆる「連結的・補充的制度的保障理論」に由来するものである。この概念は、憲法の明文で基本権として保障された制度ではなくとも、基本権の保障と密接に関連する重要性に鑑み、本質的内容については立法者といえども侵害を許さない、とする概念であった。そして、一般にその例として、地方自治制度、職業官吏制度、大学の自治、家族および私有財産制度等が挙げられていた。  たしかに、立法者といえども万能ではない、ということを述べるために好都合な概念ではあったが、重大な問題があった。すなわち、何が制度的保障を受ける制度であるのか、一義明確な基準があるわけではなく、その本質的内容もまた決して明確ではない。実際、「『大学の自治』を構成する学説自身が、法律概念としての『大学の自治』の核心的な内容をきちんと示し得ていない」(奥平康弘『憲法〓』〔有斐閣・1993〕205頁)とも指摘される。したがって、たとえば職業官吏制度について際立っていたが、立法者(そこには、社民党や共産党に代表される無産者の代表がすでにかなりの勢力を形成していた)による制度改変に対する防壁を作る機能が期待されていた反面、どこまで侵害してもなお、本質的内容に及ぶ侵害ではないとして、侵害を正当化する機能さえ持っていた。さらにいえば、たとえばそれが大学の自治の場合、そこから人事上の決定に参加する「権利」が導き出されたとしても、それは真正の権利ではなく、憲法上、制度が承認された、いわゆる「反射的効果」にすぎず、いかようにでも侵害ないし改変されても致し方のない性質のものと理解されていた。  現在もなお、このような理解は、かなりの程度残存している。たとえば、教授会自治が大学の自治の本質であって、その他の構成員の参加権や意見表明権は反射的効果にすぎない、という考え方などはその一例である。しかし、個人の尊厳と基本的人権の尊重を根本精神とし、学問の自由や、個人の発達する権利ないし学習権をも保障する日本国憲法の下、このような考え方には重大な問題がある。  では、それにかわって、どのような考え方が対置されるべきか。  一つの考え方として、学問の自由が、大学という一つの社会的な存在において行われ、両者がかなりの程度密接不可分であることに着目して、相対的に独立した「制度的自由」の一要素として大学の自治を理解する方向性がある。このような理解の仕方は、ドイツの憲法学者に多く見られるが、アメリカにおける学問の自由の思考法にも、根底に類似の思考法があることが指摘されている(松田浩「合衆国における『二つの学問の自由』について」『一橋論叢』120−1(1998.7))。  この理解の下では、大学の自治が端的に憲法上の位置づけを得られるが、一方、個人の「生まれながらの権利」としての「本来の基本的人権」と、「大学」という「制度的な自由」とが憲法論の上でどのような関係に立つのかについては、いまだ不明確な点を残している。また、特に、ドイツ的な理解に立って議論を展開すれば、憲法に保障された学問の自由と密接不可分の関係にある社会関係の一つ=大学と把握して、大学という制度に対する立法者の立法任務が導き出されることになる。この理解が、具体的な制度形成にあたって、立法者の活動の余地の大きさを指摘する段においては正当であるとしても、はたして具体的な制度形成は「侵害」に及ぶことがないと言い切れるのかどうかは、なお疑問である。また、ドイツにおける憲法論はともかくとしても、個人の基本的人権を基軸として構成されている日本国憲法において、この種の「制度的思考方法」がはたして整合的に理解できるのかどうかは、明確ではない。いずれにしても、現在、学問の自由と大学の自治との関係は、憲法論の上で、それほどすっきりとした形で理解されているとはいえない状況にある。  しかしながら、学術研究、高等教育と大学という社会的実在との関係とを観察するとき、そこには、否定しがたい事実が存在する。  それは、少なくとも現在、学術研究および高等教育の展開にあたって、圧倒的地位を占め、むしろ現代社会の不可欠の一要素となっているのは、大学およびそれと同等の地位を有する機関に勤務する個人である、という事実である。scholarやschoolの語源が「余暇」を意味するギリシャ語に由来することはよく知られており、自らの財産の一部として研究手段を私有して研究に邁進する人々が顕著な業績をあげた「アマチュア研究者の時代」は歴史上たしかに存在する。また、現在においても、それらの人々の活躍が顕著な領域があるのも事実である。もとより、学問の自由は、大学教員の特権ではないのであって、あらゆる人々に保障された普遍的人権である。  しかしながら、「アマチュア研究者」の時代においてさえ、一方にすでに社会的存在としての大学等が存在したし、専門化・高度化・細分化した現代の学術研究や高等教育は、とうていそれにのみ負うわけにはいかない。むしろ、憲法論の重要な任務は、それら機関に勤務し、組織的に活動する研究者の研究教育の自由を担保するとともに、その活動をいかに促進するかにある。高柳信一のいう「研究手段から分離された研究者」(これが、「生産手段から疎外された労働者」のアナロジーで捉えられていることは明らかである)を基軸として、学問の自由と大学の自治を理解する必要性の学説は、その先駆的な業績であった(高柳信一『学問の自由』〔岩波書店・1983〕)が、それをさらに現代的に言い替えれば、憲法に保障された自由を、具体的な生活関係や勤務関係のレベルでいかに実効的に保障するか、そのための制度的な枠組として何が必要なのか(逆に、何を禁止しなければならないのか)を明らかにすることが第一の任務である。さらに、個人のレベルにおけるそれを補完するとともに、それ自身、一定の自律性をもって展開されている共同の研究教育活動について、その自由を実効的に保障するとともに、そのパフォーマンスを最大ならしめる制度的な枠組として何が必要なのかを明らかにすること、これが第二の任務である。なお、特に後者についていえば、それは個々の大学・高等教育研究機関のレベルのみならず、場合によっては、一国家を超え、一定の国家群ないし世界規模での基準形成さえ要求する場合があろう。  いずれにしても、古典的に理解された「学問の自由」=生まれながらの個人に対して、国家による介入・干渉を排除する武器として保障された「自由」にとどまっていることは許されない、というべきである。今日、その自由が「『社会的装置』の整備を待ってはじめて実現する精神的自由界」(この概念については、拙稿「現代的言論状況の一断面――「社会的装置」の整備を待ってはじめて実現する精神的自由界の存在についての一考察」石村善治先生古稀記念論集『法と情報』〔信山社・1997年〕所収参照)に属することを直視しつつ、その個人的自由としての側面と社会的装置自身の作用能力の双方を視野に収めた議論が必要となろう。そこでは、具体的な社会関係の中での自由のありようが問題になると同時に、社会的装置そのもののあり方やパフォーマンスもまた問題となろう。当然、両者は予定調和的では必ずしもありえず、連関しつつ相克的であることが予想される。また、後述する現代の高等教育研究機関の実体は、それにふさわしい社会的なコントロール・メカニズムをも要求すると考えられる。本稿はそのための準備作業である。 〓「改革」の動因と背景  ――その外在的要因  このたびの世紀転換期にあたって、ふたたび「大学改革」を求める声が高まってきた。もっとも、ことを日本に限っていえば、1991年の大学設置基準(文部省令)の、いわゆる「大綱化」にともなう「改革」の動きは記憶に新しいから、あえていえば、90年代2度めの「改革の波」である。その中で、大学関係者のみならず社会的にも大きな関心が寄せられたのが、この度の大学審議会答申であった。「答申」については、のちほど瞥見することとして、この度の「改革」にあたって、その必要性について検討してみると、立場の違いを問わず、種々の共通点が見られる。  たとえば、関西地方の、主として私学に在籍する研究者を中心に編まれた、細井克彦ほか(編)『大学評価と大学創造――大学自治論の再構築に向けて』〔東信堂・1999〕12頁以下は、次の理由を掲げている。すなわち、1)大学の大衆化、2)臨調行革路線の結果としての大学の荒廃、3)社会における大学の地位の低下、4)科学技術を国際交渉力(bargaining power)として世界をリードする財界戦略、5)大学の序列化と中等教育の階層化、6)日本の経済的環境の変化にともなう、海外からの「タダ乗り(free ride)」批判、7)少子化と生涯学習社会の到来、8)大学政策の決定過程の変化、9)自己点検・評価システムの導入がそれである。この研究は、政財界を中心に主張されている「改革」論を批判し、自主的・自発的「改革」論を対置するところに主眼がある。したがって、たとえば、大学審議会「中間まとめ」や「答申」に対して、厳しい批判的視座を維持しているが、大学の現状をすべてよしとするわけではなく、多角的に問題状況を指摘しているが、その指摘のいくつかは、大学審議会答申とオーバーラップしているのである。  眼を海外に転ずると、たとえば、1997年5月、当時の保守党政権の下で、ドイツの教育科学省は「21世紀の大学」と称する文書(Hochschulen fur das 21.Jahrhundert)をまとめたが、その中にも、ドイツの大学が学術文化の中心としての役割を担い続けてきたこととともに、今後とも、社会発展の主たる動因たる地位を担うべきこと、にもかかわらず「大競争時代」の中で国際的な魅力を失うことへの懸念、大学の大衆化にともなう怠学・退学者の増大を指摘して、その改革の必要性を論じている。ここにも、世界的な「大競争」への「勝ち残り」と、高等教育機関の「大衆化」現象という共通の問題意識を見て取ることができる。さらにいえば、効率至上主義的な「改革」論議に対抗する文脈でしばしば引き合いに出される、一連のユネスコ文書(「高等教育教育職員の地位に関する勧告」(1997.11)、「21世紀に向けた高等教育に関する世界宣言:展望と活動」(1998.10))において、高等教育の大衆化状況は、そのアクセシビリティの一定の達成と同時に、ある種の困難を引き起こすことを、いささか困惑気味に指摘してもいる。  おそらく、これらの問題状況は、大ざっぱに次のように整理することが許されるだろう。それはまず、外在的要因と内在的要因に分かたれる。  前者についていえば、その第一が、財政危機を発端とする行財政改革である。戦前・戦後を通じて、ほぼ一貫して追及してきたキャッチアップ型の経済成長路線が一定の「成功」を収め、これまでの戦略が機械的に適用できなくなってきたこと、それに加えて、失政の積み重ねの結果としてのバブル経済の崩壊が重なったこと、それを糊塗するために繰り返された財政出動が未曽有の財政危機を招き、もはやパイの拡大をもって矛盾を解消することを許さなくなったことがそれである。  もちろん、多くの論者が指摘しているとおり、この「危機」は、行財政全般にわたる構造のゆがみを着実に是正することのほかに解決しようがない。しかし、どちらかといえば、そのような状況は、本来の理性的な解決策の模索よりもむしろ、「ゼロ・サム」的な競争の雰囲気をかもし出す方向に作用しているように思われる。もとより、教育研究活動においても競争は重要である。それは、研究・教育上の他のアプローチやオルタナティブを生み出す要素であるし、それを通じてこそ多様性は生まれる。しかし、「ゼロ・サム」的環境ないし心性における「競争」は、他人の不幸を自らの幸福と喜び、自らの不幸を他人の幸福と怨嗟するような歪んだ状況を産み出しやすく、そのような環境に学術・文化・教育が置かれたとき、もはや実り豊かな発展は期待しがたい。この度の大学審議会「中間まとめ」と「答申」のサブタイトル「競争的環境の中で個性が輝く大学」に、失笑やシニシズムを隠さない向きが多かったのは、そのあたりの事情に対する鋭敏な警戒心のなせるものにほかならない。  今すこし述べた事情とも関連するが、第二には、かような経済的パフォーマンスの行き詰まりとブレークスルーを模索する文脈で、しばしば「個性」「創造性」の必要性が論じられ、その開発が大学に期待される、という背景が存在する。これは、アメリカ情報通信産業の圧倒的な競争優位と、それが成長の牽引車と機能している実態から、たとえば、ソフトウェア産業やコンテンツ産業におけるベンチャー企業礼賛に典型的である。それら議論からは、しばしばマイクロソフトの最高経営責任者、ビル・ゲイツの成功を引き合いに出しつつ、学生起業家を育てることを大学の任務とする論調が生まれる。また、キャッチアップ型の成長の余地が残されていないこと、欧米からの基礎研究ただ乗り批判に対応するための「フロントランナー」論の主張とそのかぎりでの基礎研究重視論が「中間まとめ」で論じられていたのは周知に属するが、この議論もまたその文脈の中に位置づけることができよう。さらには、かつて、バブル最盛期に横行した夜郎自大的な日本経済礼賛論に対して、ジャパン・マネーなるものの実態は、利ざやの厚い金融商品開発力に決定的に立ち後れ、それに起因する収益力の低さをカバーすべく、労働強化をもって対抗しているにすぎないことを指摘したのが、中尾茂夫『ジャパンマネーの内幕』〔岩波書店・1991〕であったが、その意図と目的をまったく別として(すなわち、バブル経済もう一度の「期待」をこめて)、金融技術の開発とその運用を担うべき「人材」開発の必要性が叫ばれることも、同じ文脈に属する。  このような背景からは、高等教育や学術研究、さらにはその主体たる大学等を一方的に管理・抑圧する方向性は生まれにくい。むしろ、一見したところ、その実力と役割に期待を寄せ、そのかぎりで育成と振興、しかも、具体的な財政支出と制度整備をともなったそれが論じられる傾向が生まれる。「中間まとめ」が第一の事情に貫かれた「論理」を正面に据えていたのに対して、「答申」において一定の「軌道修正」が図られた背景には、このようなモメントも作用していたのではないかと考えられる。しかしながら、第一に述べた事情が関係して、それらは資源配分における効率性を過度に重視し、当座の必要性に傾斜しがちであることはいうまでもない。中野三敏「読切講談・大学改革・第二幕――バランスならびに国の責任について」(『全大教時報』22−4(1998.8))が指摘する文系基礎学への手薄な配慮などは、その投げかける「影」を端的に指摘したものであろう。  さらにいえば、個性・創造性重視のコンテキストからは、端的に異能者・異端者を待望する議論さえ生まれる。このところ、戦後日本の復興と高度成長をリードした起業家たちが急速に幽明界を分かちつつあるが、彼らの異能・異端ぶりに対して、信仰にも似た憧憬が寄せられる現象はその典型であろう。そのような「個性」や「自発性・創造性」が、いうところの「資本家に買われた時間の中における」(稲葉三千男)それであることはいうまでもない。ただ、それを指摘した稲葉三千男の問題意識が、客観的な認識のレベルにとどまらず、いかにしてそれをあるべき姿に引き戻していくかにあったことに鑑みれば、公的財政支出をも伴った、(そのかぎりで限定つきの)個性重視・創造性開発論議を、批判しつつ克服する主体的な営みがきわめて重要であると思われる。  さらに第三の要因として、いわゆる少子高齢化の急速な進展という事情が挙げられる。これまで高等教育機関は、中等教育終了後の学生をほぼ一括して選抜・入学させて教育を行ってきた。このところ、帰国子女や編転入学、さらには社会人学生の選抜も広がってはきたが、それらは質的にも量的にも、高等教育への主たる「入口」ではなかった。ところが、その主たる年齢層の人口が急減するわけだから、これは大学、とくに私学にとっては存亡の危機と受け止められることになる。もっとも、ユネスコの行った「21世紀に向けた高等教育に関する世界宣言:展望と活動」(1998.10)が指摘するように、学校教育と生涯学習との峻別を前提として、高等教育を学校教育の最終段階ないし完成段階と捉え(場合によっては、そこにエリート選抜・養成の役割を割り当て)る見方から、生涯を通じてシームレスに学習機会を確保する中で、中等教育以降、生涯にわたる知的営為を負託されるべき機関と捉える見方に転換すべきものとすれば、必ずしも「存亡の危機」と捉える必要はない。ただし、それに応えるべき具体的な条件、とくにスタッフの確保が間に合うかどうか、労働強化によってそれをカバーする事態に陥る心配がありやなしやは別途検討を要する。 〓動因としての内在的要因  ――構造変化?  内在的要因の第一が、いわゆる大学の大衆化である。ここに、先に述べた日本特有の現象である少子化の急速な進展が重なって、必要以上に深刻に論議されているきらいもある。すなわち、大学進学率の上昇そのものは、高等教育へのアクセシビリティの拡大とその達成を意味するのであるから、けっして否定すべき現象ではない。たとえば、その問題性をことさらに強調して、大学教育の質の低下を憂え、在学期間のすべてを排他的競争と選別の期間にあてるべしといわんばかりの「キックアウト」論など、およそ高等教育の役割にふさわしい議論とはいいがたいし、むしろ、その任を果たす能力に対する自信のなさを表明するものといわなければならない。したがって、この状況を積極的に捉え返すとするならば、生涯学習の一環としての高等教育が、中等教育との接続をいかに実践し、能動的な市民として社会を支える能力をいかに発展させるかという両面から考察する必要があろう。おそらく、その一つの実践の場として、大学という自治の場は機能しうるのではないかと考えられる。  内在的要因の第二は、ビッグ・サイエンスやライフ・サイエンスに見られる科学の巨大化と先端化である。これら学術研究が、もはや一国の財政支出の枠内をはるかに超える存在と化しているのは周知に属する。当然、企業経営的な発想からすれば、採算性などどこにも存在しない。たとえば、先般話題となった大型望遠鏡「すばる」の建設など、いかに効率化を図ったところで、企業経営的なセンスからいうところの採算など取れようはずもない(いわゆる独立行政法人化の議論の浅薄さは、こうした単純な事実さえ見落としていることに象徴的である。さらにいえば、「企画」と「実施」部門の分離が教育研究活動に本質的に不可能なことも論をまたない。百歩譲ってそれが成立するとすれば、「検定済教科書」を「マニュアル」的に「教え込む」のが関の山だろう)。  ここで問題は二つに分岐する。一つの問題は、これら巨大化・先端化した学術研究が、個々の研究者レベルでは著しく細分化し、その全貌を把握し、コントロールするのが必ずしも容易ではない、ということである。すなわち、自律的・自治的な秩序は、その前提として、対象の全貌について、少なくともそのアウトラインを把握したうえで意思決定やコントロールに参加することによって成立する。その前提の成立が怪しくなるのである。  いま一つの問題性は、クローン羊や遺伝子診断・操作の問題がクローズ・アップしているように、人間存在の根源そのものをゆさぶりかねないインパクトをもっているところにある。すでに述べたように、学術研究の巨大化自身、その財政支出の巨大化は、たとえば素粒子物理学の基礎的な実験施設建設がもはや国民経済の許容するスケールを超えることに、国民的な関心が寄せられる段階に達している。それに加えて、研究遂行それ自身が抱えるかようなインパクトは、いやがおうでも社会的な関心と懸念の対象にならざるをえない。  従来、憲法が保障する学問の自由は、1)研究遂行の自由、2)研究成果発表の自由、3)教授の自由のカテゴリーで捉えられてきた。いうまでもなく、1)から3)に進むにつれて社会との切り結びが増大し、法的な関心事が増大する。そのことはすなわち、研究遂行の自由に対しては、内在的制約(たとえば、性科学研究の名目でわいせつ文書を配布することは許されない)といった留保はあったにせよ、内心の自由(思想・良心の自由)とのアナロジーで、むしろ絶対無制約に傾斜する方向性をもって理解されてきたといってよい。ところが、これら学術研究は、それにかかわる費用負担の問題にとどまらず、研究遂行自身、はたして社会的なコントロールのないままに、研究者集団の自治と自律にゆだねてよいのか、という問題関心を呼び起こすに至る。保木本一郎『遺伝子操作と法――知りすぎる『知』の統制』〔日本評論社・1991〕は、公法学の分野からの先駆的な業績であるが、それが提起したのは、そうしたコントロール手法のいかんよりもむしろ、その根底に横たわる、人間の知に対する哲学的な問いかけであったと見るべきであろう。  これ以外にも、各種の実験研究施設の建設にかかわって、さまざまな社会的波紋を巻き起こす事例には事欠かないが、ここでもう一つ注意しておくべき事柄は、高等教育や学術研究に対する国民的な負託ないし信頼の基礎に見られる変化である。  すなわち、これまで、高等教育や学術研究を憲法上位置づける際には、しばしば、研究者の学問の自由に加えて、国民の知る権利・学ぶ権利・発達する権利を負託され、それに応える責務が引き合いに出されてきた。その根底には、高等教育・学術研究機関とそれを構成する研究者・教育者と、それ以外の国民との間には、予定調和的な同一性と信頼関係が前提されていたといってよい。そして、その信頼関係の基礎とは、まさにプロフェッションの特質、すなわち「専門職能の従事する業務は、答えがすでに出ている仕事を型通りに実行するタイプのそれではなく、むしろ、正しい答えはなんであるか、或いは、業務の受け手にとって最善の解決は何であるかということを、専門的知識・創造力を駆使して追究し発見することを目的とする」(高柳・前掲書71−2頁)こと、それに専心することに対する信頼であったし、あえていえば、専門家のもつ権威や威信によるところの大きいものであった。  もちろん、現在もなお「かれらに特定の答えをおしつけ、その具体化を強制するなどというようなことがあってはならない……かれらは、長期の修練によって習得し、たえずさらに発達せしめようと努めている専門的知識に忠実でなければならず、外的な干渉に拘束されないという意味で、自由でなければならない」(高柳・前掲書71−2頁)から、その構成員に高度の自治が必要であること、論をまたない。その意味で、高等教育機関であれ学術研究機関であれ、その構成員にとって自治が必須であることは、ユネスコ「高等教育機関教育職員の地位に関する勧告」〓 A.19が、「高等教育機関の自治とは、学問の自由が機関の形態をとったもの」と定義しているとおりである。その意味で、自治は必要条件であり、それを侵害する各種の動きに対して強力に抗議すべきこと、いうまでもない。  問題は、それら機関のありようのみならず、研究遂行についても大規模な変容が進行する現在、はたして、社会的存在としてのそれら機関のありように対し、自治的な制度に基づくコントロール・メカニズムに加えた何らかのコントロール・メカニズムを構想する必要がありやなしやである。それは現在、情報公開やインフォームド・コンセントの問題において指摘されているような、各種の専門家集団の遂行する業務に対するコントロール・メカニズムの構築と同根であると同時に、信頼関係の基礎が、それら専門家の権威や威信に依存するものから、情報の公開と共有をベースとした理性的討論に基づくものへ移行しつつあることとも同根であろう。その意味で、社会的存在としての大学なり学術研究機関の適正な運営にとって、必要条件としての構成員の自治メカニズムに、十分条件としての社会的参加のメカニズムを付加した、新たな自治メカニズムの必要性を吟味すべきではないだろうか。  もっとも、問題はその制度的な具体化である。それら社会的参加のメカニズムが、いうところの議会制民主主義論や財政民主主義論によって代位されるとき、いかに代表制民主主義の論理をもって説明しようとも、それは政治的介入にほかならない。基本的人権の保障の意義の一つは、国民主権主義であろうが代表制民主主義であろうが、立ち入ってはならない自由の領域を確保することにある。その意味で、このような制度化・具体化は不適当である。一方、学生を大学教育なる「サービス」の消費者とみなし、その「選択」をもって大学教育のコントロール・メカニズムにあてる市場メカニズム的な方向性は、そこに学習する権利や発達する権利、あるいは社会のあるべき発展の方向性といった哲学的な視角を完全に欠いていることから、これまた厳しい批判を免れない。とするならば、それら手法に代わる社会的参加のメカニズムをいかに組み込み、従来からの自治的なメカニズムと相互補完させるか、あえていえば、市民の能動的・積極的な参加を構成要素とするオープンなメカニズムを、どのような原理の下に構築するかが、現代的な大学自治論にとって必須の視角ではないだろうか。 〓大学自治論の現代的課題  紙数も尽きてきたので、この度の大学審議会「中間まとめ」から「法制化」の流れを簡単に振り返りつつ、今後の検討課題を提示して稿を閉じることにしたい。  誤解を恐れずにあえていえば、昨年6月に始まる今回の経緯を見るとき、もっとも一貫した論理構造をもつのは、実は「中間まとめ」であった。それは、「科学技術創造立国路線」を前面に押し出し、それを達成するために、大学・高等教育機関をも市場経済至上主義に服従させ(これが「教科書的な新古典派理論」に基づくものであることを指摘するものとして、「座談会 日本的規制緩和と大学・高等教育を考える」1999年2月「全大教」新聞号外における、藤田稔・金子元久発言参照)、競争原理・効率主義の全面支配するものに「改造」しようとするものであった。それは、組織運営の原則のレベルでは「自治」論を徹底的に敵視し、危機管理・有事立法論において唱えられるそれと通底する「リーダーシップ」論に管理運営を委ねるべきことが声高に強調されていた。もっとも、大学をそのような色彩に染め上げて、一丸となって世界のフロントランナーを目指して驀進すべし、と「中間まとめ」やそれを礼賛する論説が説けば説くほど、そこに「キャッチアップ型国益論」(この場合は、ソフトウェア・コンテンツ産業とヘッジファンドで世界を席巻する現代アメリカへのキャッチアップ)がにじみ出てくるのは、非常に皮肉ではあった。  ところが、これが「答申」に至り、大きな変貌を遂げる。それは、「答申」冒頭が端的に示していた。すなわち、「中間まとめ」の「はじめに」は二段落で構成されていたが、それを前後からはさみ込む形で、「知の再構築」と「未来への先行投資」を強調する段落が付加され、四段落構成に変容していた。しかも、その「知の再構築」とは「人類的価値の追求」を意味するものとされ、それを実現するためには「未来への先行投資」としての公的財政支出の必要性が強調されるものであったから、それなりの普遍性と一貫性をもつものであった。また、各方面から厳しい批判を受けた「リーダーシップ」論に対しても一定の修正が加えられたが、その一方で、「中間まとめ」路線ともいうべきものが各所に残存しているため、全体として著しいモザイク状の様相を示す結果となった。  しかも、実際の「法制化」段階に至り、具体化されたものはさらに「小幅」なものであったことには、いささかの当惑を禁じ得ない。すなわち、そのほとんどは国立大学にかかるものであったこと、しかも、これまで数度にわたって導入が画策され、その度に社会的な大論争に発展した「大学管理機関」の文言が、今回の法改正によって、日本の法制度から完全に消滅したこと(さらにいえば、4月1日の衆議院本会議や4月14日の衆議院文教委員会における文相答弁が、「法制化の前提は『大学の自治』の尊重にあること」を繰り返し述べたことも、アメリカ型の・外部者による「大学管理機関」の前提と食い違う)、さらに、今回の法制化の眼目の一つである「運営諮問会議」の権限について、大学内部の諸機関と意見が食い違った場合、内部諸機関の意思が優越するものと理解すべきことが強調されたことなど、法制化の本質にかかわる論点というべきであろう。  このような経緯がいかなる諸力のなせるものか、現段階では検討の証拠を欠く。ただ、いわゆる「支配層」(これがいかなる実体のものかについての考察と判断は、さしあたり留保する)内部にも相当程度意見の分岐があり、それを強力に誘導し方向づけるだけのヘゲモニーがいまだ確立したとはいえない状態にあるのではないか、という推測が成り立つようにも思われる。もっとも、これはある意味で非常に危険な状態である。すなわち、明確な方向づけと指導性の欠如した状態で、漠然とした不満や不安が蓄積するがゆえに、たとえば、「キックアウト」論に見られるような、一見画期的で、不満を一挙に「解決」(実は先送りやしわ寄せにすぎないのだが)するかのようなデマゴーグがヘゲモニーを握る危険性が高いからである。  そうした危険に対処するためにも、いささか迂遠に見えるかもしれないが、大学に在籍するわれわれの側が、大学自治の今日的な理念と、その核心的内容を確立する必要があろう。実際、「かつて大学紛争期のイッシューは、教授会自治論に代わる現代的大学自治論の構成にあり、有力な議論の一つは、教育機関としての大学自治論であった。しかし、70年代に入って公法学をはじめとして大学自治論は急速に衰退し、見るべき成果を上げずに今日に至っている。大学の自治は、教員研究者個人の学問の自由保障の制度にとどまらず、大学の機能を発揮するための職能的自由である」(羽田貴史「大学審議会『21世紀の大学像と今後の改革方策について(中間まとめ)』を読む」『全大教時報』22−4(1998.8))という指摘も存在する以上、それは急を要する。  その際、いうところの「大学大衆化」は、大学像の今日的なあり方として、さきにも述べたように、高等教育へのアクセシビリティの達成を意味するものであるがゆえに、所与の前提として受け入れるところから出発しなければならない。そのうえで、「公教育」としての高等教育像を確立することが必要であろう。それは、筆者の専攻領域である憲法論からいえば、能動的な市民(この文言は、ユネスコ「高等教育世界宣言」におけるキー・タームの一つである)として行動するための教育であり、それを通じて国民主権と国際協調とを内実化させることのできる人間の育成ではないかと考えているが、もちろんこれにとどまるものではない。  さらにいえば、さきに述べたように、高等教育機関・学術研究機関の行う活動とそれをとりまく状況は、大学という社会的装置、学術研究という社会的装置にふさわしいコントロール・メカニズムを必要としている。これは運動論のレベルでいえば、大学の自治を「守る」運動から、オープンで能動的・積極的な自治を新たに構築する「攻め」の運動への転移を意味するが、もちろんそれにとどまるものではない。情報公開や、それに基づく参加論に見られるような組織原理、行動原理を大学にも析出することが求められよう。その意味で、たとえば、評価機関についても、必要条件としての大学構成員の自治の侵害・縮減に徹底的に抗議すると同時に、それら機関の組織原理や行動原理と責任原理の各レベルにおいて、徹底した第三者性と公平性、透明性、市民と社会と人類に対する責任性といった論理に加えて、実効的な参加を保障する論理を構築し、実践することによって、大学自治に新たな要素を付け加える必要があるのではないだろうか。  あるいはそれは夢物語の類という批判もあろう。また、主体の力量に由来する懸念もあろう。しかし、羽田貴史が指摘するような、長い間にわたる「大学自治」論の不在を超えて、今あらためて「大学自治」のルネサンスを見いだすとするならば、避けて通ることのできない課題であると考える。そうした建設的討論のための捨て石となることを念じつつ、本稿を閉じることとしたい。  鹿児島大学教職員組合は、3月8日、日本科学者会議鹿児島支部と共同して「『21世紀の大学像を探る』シンポジウム」を開催しました。このシンポジウムには鹿児島大学長をはじめ農学部長、理学部長も出席し、話題提供者として「私の主張」の報告がおこなわれました。以下に紹介する論文は、話題提供者の1人として出席し、「大学と教育―文系―」として報告された種村完司氏の「報告」を元に寄稿していただいたものです。(編集部) 文系からみた大学教育 鹿児島大学 『21世紀の大学像を探る』       シンポジウムから 種村 完司(鹿児島大学教育学部)  昨年の夏に大学審の答申が出て以降、この答申のことがずいぶん気になっており、自分の研究教育の立場からしっかりした理念なり方向なりの意見を提出しなければならない、と思い続けていました。実は今回の報告の前に法文学部の仲村先生から昨年の秋に出た「ユネスコの高等教育世界宣言」を送っていただき、原文で読むはめになりました。読んでみて本当に良かったと思います。今回こういう機会が与えられたので、レジュメの後ろに〔参考1〕として目次だけを紹介しておきました。一方の大学審の答申は読んでも少しも心が踊らない。一体何のために自分たちは大学で、高等教育機関で研究・教育をしているのだろう、どういう方向でしていったらよいのだろう、という理念が見えてこない。  それに比べてユネスコの高等教育世界宣言は、実にしっかりとした問題意識、大学人としてのあるいは高等教育の研究教育に携わる者としての社会的な役割、責任の果たし方を非常にはっきりと述べています。  そういう点では読んでいてずいぶん啓発され、こういう観点が今の大学にとって大事なのだと、痛切に思い知らされたわけです。この宣言に即しながら、今日の私の報告を述べたいと考えています。  私自身は教育をどのように考えているのか。今の社会の中で生きていかなければならない限り、我々が大学で教える学生たちにも、現在の社会に適応できるだけの能力を持ってもらう必要があります。しかしそれだけではないだろう。ある意味ではこれほど厳しい経済状況のもとで、いつリストラされるかもわからない。社会に適応するために培ってきた能力だけではやっていけない。実はもっと広い人間性や長期的な展望が要求されているのではないか。その点でいえば、すでに200年以上も前に、カントが次のような非常に優れたことを述べています。  「教育の計画を作るような人々がとくに念頭におくべき教育術のひとつの原理は、子供は単に人類の現在の状態だけにふさわしく教育されるべきではなく、むしろ人類の将来可能なよりよき状態にふさわしく、換言すれば、人間性の理念とその全使命にふさわしく教育されるべきである、ということである。」  カントは理性主義の哲学者です。彼にはやや楽観的な、オプティミスティックな人間性への信頼、理性への信頼があります。ややそれが固定的だと批判もされますが、私はカントの人間性、普遍的な人間性、あるいは人間的本質というものを少し流動化して捉えるならば、現在でも十分意味のある教育についての規定になっていると考えます。こういう教育の理念のもとで、では高等教育の理念、使命はどうあるべきか。この点で、私はこの高等教育世界宣言の内容に非常に深く共感しました。  それを私なりの言葉でレジュメにまとめてみましたが、やはり「今我々が実際に直面している国内外の諸問題を巨視的かつ的確に把握する。しかも従来の真理・正義の探究、文化芸術の享受発展という営みを基礎にして、自らの専門領域並びに学際的なアプローチをもって、知的倫理的な解決を目指す。そういう市民や専門家を育成する。」 こうまとめることができるのではないかと考えています。  そういう点ではユネスコの高等教育宣言は、非常に学生に期待しているわけです。次世代を担う学生、そして又同時に、高等教育機関で教育研究に携わる教職員を主体として考えている。少しその文章を読み上げてみたいと思います。  「高等教育機関およびその教職員と学生は、さし迫った社会的、経済的、文化的、政治的な諸傾向の継続的な分析をとおして、又、予測、警告、予防のための中心点を提示することによって、批判的で予期的な機能を強化すべきである。」  どれだけ時代の諸矛盾、直面している諸課題と向き合うか。それをどれほど真摯に誠実に受け止めるか、というところから高等教育機関の教職員・学生の使命をこのように規定しているわけです。  同時に学生に対して我々はどのような教育をする必要があるのか。「高等教育機関は学生たちを十分に情報が与えられ、深く動機づけられた市民になるよう教育すべきである。そうしてこそ彼らは批判的に思考し、社会の諸問題を分析し、社会の諸問題への解決を探求し、その解決を適用し、かつ社会的な責任を引き受けることができる。」  このように明言しているのです。私もそうだと思います。  教える側の人間自身が積極的に社会と関わりながら、時代の問題と向き合って、それを学生たちに伝えていく。そのことによって、実は学生自身が主体となって批判的に思考し、自ら社会の諸問題を分析しながら解決を探求する。こういう姿勢が初めて育つのだろうと私は思います。  それにしても、私は、このような高等教育の理念を大学審の答申の中では少しも見い出すことができませんでした。「不透明な時代」とか、「国際競争力のある大学」とか、そういう文言はたくさん出てくるが、われわれが直面するさまざまな国内外の諸問題をどう捉え引き受けるか。こういう面についての提言がほとんどないという点で、私は大変がっかりしました。  こうした認識のもとではじめて、われわれ大学人としての社会的な責任がもっと明確になってくるのだろうと思いますが、実は非常に多様な社会への関わり方、責任の果たし方があるのではないかと思います。この点は田中学長も指摘され、堀内、堀田両学部長も触れられましたが、私はやはりもっと強調されていいのではないかと思います。  社会とのつながりという点では、まず産業界があげられます。もちろん産業界も第一次産業から第三次産業まであります。さらに文化や芸術、公教育・私教育、医療や福祉、さまざまな市民生活やスポーツといった領域もあります。色々な大学教員が色々な形で社会と関わりながら、社会的な責任を果たしていると私は思います。これは意外に十分に総括されていない。これまで大学人が色々な形で社会と連携し、色々な問題提起をし、色々な寄与貢献もしてきたけれど、なかなかそれがしっかりと見られていない。十分なお金にならないもの、直接的な成果を示し得ないものについて、どうも大学人の社会的活動への評価は低いと思います。  ユネスコの高等教育宣言はそのあたりを非常に意識しており、地域社会へのサービス、コミュニティーへのサービスということを強調しています。レジュメにも引用していますが、「とくに貧困、不寛容、暴力、無学、飢え、病気などを除去することを目ざす諸活動を強化するのに必要なあらゆる処置を講じるべきである」こう言い切っています。大学審の答申にはこんな文章は一つも出てこない。  我々を取り巻く、実際に人々が苦しみ、直面している色々な問題、これをどう引き受けるかという点で、ユネスコの方がはるかに積極的な問題提起をしています。これにむしろ全力を挙げて取り組むべきだといっています。  大学審答申の第2章に、「地域社会や産業界との連携・交流の推進」があります。しかしここで言われている内容をみると、「地域社会」がほとんど抜け落ちている。コミュニティーについての言葉はあるけれども具体的な提起はない。実際にあるのは、企業と大学との連携だけです。  では、ユネスコの高等教育宣言は産業や実業界との連携について何も言っていないかというと、そうではありません。そういう点では、そこから学ぶべきものがある、それに対して大学は色々な形で寄与できることがあるし、しなければならない、とはっきりと言っています。ただし、「ワールド・オブ・ワーク」という言葉を使っている。「インダストリー」ではなく「ワーク」という言葉を使っている。実は企業もそこに含まれるでしょう。しかしそれ以外の自営業や社会の色々な分野で働く人たち、広汎な勤労者に対する目配りがされている点に、私は注目したいと思います。ですから、そういうパートナーシップを築き上げるためにも、活動の互恵的な調和、および差し迫った人間性の諸問題への解決から出発すべきであり、しかも全てそうしたことを責任ある自律性と学問の自由という枠組みの中でなすべきである。こういう規定の仕方をしているわけです。  企業との連携ということでは、「インダストリー」という言葉が一カ所だけ出てきます。それもむしろ開発途上国における産業の発展のための寄与、という点での強調です。とりわけ成熟した、発展した産業社会の中では必ずしもインダストリーということを強調しない。ワークという言葉で、大学の社会的責任を果たしなさい、実業界との関係を密にしなさい、そういう提起になっているわけです。私はこれは非常に注目すべきだと考えます。  私に与えられたテーマは、「文系、人文社会科学の教育責任、あるいは社会への責務」の問題です。この点についても先ほど触れましたように、実に色々な社会への関わり方を視野におさめなければならない。先ほど堀内先生のお話の中に、セツルメントの話がありました。私も学生時代数年間、セツルメント活動に没頭した経験があります。その経験が意外にも、私の社会的な関心の基礎になっているのかもしれません。  私は倫理学、哲学の専門分野の人間として、ここ10年ほど「鹿児島いのちの電話」の活動に参加しています。ボランティア養成をしながら、私自身も深夜帯で電話をとっております。それと共にここ数年、ターミナル・ケアの懇話会、研究会に参加し活動にも参加しています。これはお金を少しも貰えません。むしろ自分の方からの持ち出しの活動になっています。しかし私は、理系の人が産業界との連携の中で果たしている社会的役割と比べて、少しも引けを取ると感じていません。自分なりの活動がそこで初めて出来ていると感じ、またそれが自分の研究教育に直接・間接に大きな影響を与えている、あるいは研究教育を活性化する大きな要因になっていると感じています。  とりわけ文系の研究者・教育者の社会への関わり方というのは、理系の研究者・教育者以上に広範なもの多様なものになっているのではないか、そういう道が開かれているのではないか。その点では最近のNGOやNPOなど、さまざまな活動との連携も必要だろうと思います。最近はよく「エンパワーメント」という言葉が教育学、社会教育の分野で使われますが、もっと市民や国民の主体自身の力量形成という課題について、文系の学者が大きな力を発揮しなければならないのではないか。そういう時代が来ていると思います。  最後に、学長・学部長は言うのをはばかられたのか、そういう立場だからなのか言われませんでしたが、私は、やはり大学審答申の一番危険な、心配すべき所に一つだけ触れて終わりにしたいと思います。それは大学の管理・運営についてです。学長・学部長のリーダーシップ、これがやたらに強調されています。とにかく「機能的な大学の管理・運営」ということが言われ、教授会レベルでも最近の教授は大変忙しいから、そういう意味では、研究教育に専念できる体制を作る為にも必要だという理由で、非常に効率的な大学の管理・運営が言われる。あるいは教授会自治、学部自治の縮小削減が言われたりしていますが、これはやはり根本的に間違っているのではないかと私は思います。むしろ学長・学部長のリーダーシップというのは、学内・学部内のコンセンサスを形成する上でのリーダーシップの発揮であるべきであって、何かそれと無関係に特別な決定をし下部に指示をして、学内を引っ張っていこう、そういうリーダーシップであってはならないと思います。  また、教授会から人事権を剥奪しようという動きが出ています。大学審答申ではそこは明確には出ておりませんが、実は近々出される法律の中には教授会の審議事項を3つに限定して、事実上人事権についてはそこからはずすという形の法改正が行われようとしています。本当にそれでいいのだろうか。研究教育に固有の力を持つ教授会こそが、責任を持った人事を進める必要があるのに、そういうことに何ら関与ができない。責任の担い手の教授会と切り離されたところで人事が行われるということに、私は大変心配し危惧しています。この点について、ぜひフロアーの皆さんの意見も伺いたいと思います。 資  料 「21世紀の大学像を探る」シンポジウム報告レジュメ 種村完司(教育学部) 1.教育および高等教育の理念 1)現代社会の中で生きかつ活動していける知的文化的能力や公共性を育成すると共に、時々の社会変動に左右されないだけの自律的・普遍的な人間性を形成する。   「教育の計画を作るような人々がとくに念頭におくべき教育術の一つの原理は、子どもは単に人類の現在の状態だけにふさわしく教育されるべきではなく、むしろ人類の将来可能なよりよき状態にふさわしく、換言すれば、人間性の理念とその全使命にふさわしく教育されるべきである、ということである。」(カント『教育学』より) 2)今日直面している国内的・国際的諸問題を巨視的かつ的確に把握し、真理・正義の探究、文化・芸術の享受と発展という営みを基礎に、自らの専門領域ならびに学際的なアプローチをもって、知的・倫理的解決をめざす市民および専門家を育成する。   「高等教育機関およびその教職員と学生は、さし迫った社会的、経済的、文化的、政治的な諸傾向の継続的な分析をとおして、また、予測、警告、予防のための中心点を提示することによって、批判的で予期的な機能を強化すべきである。」(ユネスコ高等教育宣言 A2―〓)   「高等教育機関は学生たちを、十分に情報が与えられ深く動機づけられた市民になるよう教育すべきである。そうしてこそ彼らは、批判的に思考し、社会の諸問題を分析し、社会の諸問題への解決を探究し、その解決を適用し、かつ社会的な責任をひき受けることができる。」(同上 A9―〓) 2.大学の社会的責任 1)社会への多様なかかわり方、責任のはたし方   産業(第1次〜第3次)、文化・芸術、教育、医療・福祉、市民活動、環境保護・人権・平和運動、体育・スポーツなど   「高等教育機関は、地域社会へのサービス、とくに貧困、不寛容、暴力、無学、飢え、病気などを除去することを目ざす諸活動を強化するのに必要なあらゆる処置を講じるべきである。しかも、諸異議、諸問題、さまざまな主題の分析にさいして、学科間および学科を超えたアプローチをつうじてそうすべきである。」(ユネスコ高等教育宣言 〓6―〓)  大学審議会答申は、産学共同中心主義が濃厚  「地域社会や産業界との連携・交流の推進、国際交流の推進」(2―2―〓) 2)『実業の世界との連携』と大学の自治  「world of work」の意味、industryとの区別  「高等教育機関は、関係するあらゆる社会的行為者との効果的なパートナーシップを含む新しい基礎の上に、実業界との関係を設定すべきである。活動の互恵的な調和およびさし迫った人間性の諸問題への解決の探究から出発すべきであり、しかもすべてこうしたことを、責任ある自律性とアカデミックな自由という枠組みの中でなすべきである。」(ユネスコ宣言 〓6―〓)  産業界や企業への迎合ではない、内発的で自律的な提携関係 3)人文・社会科学と教育責任、社会への責務  これまでの科学的諸成果(とくにエセンス)の次世代への継承  今日の社会的・文化的諸危機にたいする関心の喚起  社会科学的・人間科学的アプローチの意義と役割  さまざまな社会的・市民的ニーズへの対応  ――文系の学者だからこそできる多様な市民的・教育的実践を 3.大学の管理・運営について 1)学長・学部長のリーダーシップと大学の自治 大学は研究・教育者の自治にもとづく知的共同体であって、コンセンサスを形成するためのリーダーシップこそ必要。執行と立法を兼ねるべきではない。 2)教員人事と教授会 今回の法改正の危険な点――教授会機能の削減、学部自治の縮小 教授会から人事権を剥奪して未来はあるか。 4.日本の大学の貧困 当局の「口は出すが、金は出さぬ」現状(cf.欧米諸国との比較) 〔参考1〕 21世紀のための高等教育に関する  世界宣言:ヴィジョンと行動     (高等教育に関する世界会議      1998年10月9日、ユネスコ) 前文 高等教育の使命と機能  第1条 教育、養成、研究の使命  第2条 倫理的役割、自律、責任、予期の機能 高等教育の新しいヴィジョンを形成すること  第3条 アクセスの公平性  第4条 女性の参加を強め、役割を増進させること  第5条 科学、芸術、人間性の探究とその諸成果の普及をつうじて知識を前進させること  第6条 適切な関連にもとづく長期の方向づけ  第7条 実業界との協力を強化し、社会的ニーズを分析し予想すること  第8条 増大する機会の公平性のための多様化  第9条 革新的な教育的アプローチ:批判的思考と創造性  第10条 主体としての高等教育職員と学生 ヴィジョンから行動へ  第11条 質的な評価  第12条 テクノロジーの可能性と挑戦  第13条 高等教育の管理と財政を強化すること  第14条 公共的サービスとしての高等教育の財政  第15条 国境や大陸を超えて知識や知的技術を共有すること  第16条 「頭脳流出」から「頭脳獲得」へ  第17条 パートナーシップと連合 高等教育の変化と発展に必要な優先的活動のための骨子  〓.国家レベルでの優先的活動  〓.システムや諸機関レベルでの優先的活動  〓.国際的レベルで、とくにユネスコの主導によってなさるべき諸活動 〔参考2〕 平成9年度 大学教員一人当たりの学生数    国立 10.4人    公立 10.3人    私立 26.0人     計  18.6人  (文部省『平成9年度学校基本調査』より) 教員一人当たりの学生数(高等教育)の国際比較    中国     7.2人(1995年)    ロシア連邦  7.6人(1995年)    イギリス   8.6人(1995年)    ドイツ    9.5人(1995年)    アメリカ  14.9人(1993年)    日本・大学 18.6人(1996年)       短大 23.3人(1996年)  (文部省『教育指標の国際比較 平成9年版』より) 高等教育への公財政支出の各国比較        対国民総生産比 一般政府総支出比 アメリカ 1.1% 3.3% イギリス 0.7% 2.7% フランス 0.9% 1.8% ドイツ 0.9% 2.1% カナダ 1.6% 4.8% オーストラリア 1.2% 3.9% デンマーク 1.4% 3.3% イタリア 0.7% 1.4% オランダ 1.2% 2.9% スペイン 0.8% 2.2% オーストリア 0.9% ―― スウェーデン 1.5% 2.9% スイス 1.1% 3.2% 日本 0.5% 1.5%  (『OECD教育インディケータ集』(1997年版)より) お 詫 び  全大教時報の発行予定が大幅に遅れ、購読者の皆様に多大な御迷惑をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます。(編集部) 原稿募集  全大教時報編集部では、今日、私たちの直面している「改革」問題についての原稿を募集しています。各大学・高専・大学共同利用機関の具体的な動き、とりくみなどについて、下記投稿要領によって、積極的にお寄せください。 ◇投稿要領  〇文体  自由  〇原稿  200字詰原稿用紙、横書(ワーブロの場合は、1行24字詰)。  〇字数  刷上がり本文については、以下を基準とします。   2頁 3500字 5頁 9500字   4頁 7500字 6頁 11500字  〇原稿締切り  毎奇数月10日 掲載論文の複写配布は、筆者と全大教の了解のある場合を除いては、認めておりませんのでよろしくお願いします。  〇掲載  投稿の翌月号(但し、投稿が多数の場合は次号以降、刷上がり本文が5頁以上の場合は分割掲載となることがあります)。  〇謝礼  規程により謝礼(図書券)を進呈します。  〇その他   〓投稿原稿は返却いたしません。   〓投稿にあたっては、標題、投稿者氏名、所属大学名の英文表示および、連絡先を明記の上、封筒には、全大教時報投稿原稿在中と朱書してください。   〓抜刷は、50部以上とし、実費で作成しますので、投稿時に、その旨の申込みをしてください。 講読料 年間購読料(6回刊)3000円 送   料(年間)2冊まで1500円 5冊まで1800円 9冊まで2000円 10冊以上全大教で負担 全大教時報 第23巻2号  1999年5月 (大学調査時報・大学部時報通算115号) 編集・発行 全国大学高専教職員組合   印   刷 株式会社日本機関紙印刷所 〒101―0051  東京都千代田区神田神保町2―14         朝日神保町プラザ201号     〓(03)3262―1671〓   振替口座     FAX(03)3262―1638  00170―6―1889 〒105―0003  東京都港区西新橋3―17―8          〓(03)3431―5131          FAX(03)3438―0014