「働く意味、法的正義を問い直す」 名古屋大学大学院法学研究科教授 和田肇
1999年10月10日(月)付の「日本経済新聞」に掲載された和田肇全大教中央執行委員長(当時)の原稿↓
『国立大学の存在意義とは』 和田 肇 名古屋大学大学院教授
9月20日に文部大臣は、国立大学の学長等の前で国立大学の独立行政法人化に向けて本格的な検討に入ることを明らかにした。文部省は、それまで国立大学の独立行政法人化に反対であったから、姿勢が大きく変わったことになる。行政改革という政治の流れに抗しきれなくなったということなのかもしれない。しかし他方で、国立大学協会は9月13日に、従来の方針通り、国立大学の独立行政法人化に反対の態度を確認している。全大教も、一貫して国立大学の設置形態の変更に反対の立場をとってきた。また、この間のマスコミの論調でも、積極的に独立行政法人化を支持するものは見られず、国立大学の設置形態の変更に多くの問題点があることを指摘している。
我々大学人には大きな課題が課せられているにもかかわらず、この問題について大学人が何を考えているかは、納税者に向かって、あるいは教育の受益者に向かってこれまで必ずしも十分に説明されてこなかった。国立大学の設置形態の変更のどこに問題があるのか、私の個人的な意見を述べてみたい。
私が一番大きな問題だと考えているのは、国立大学の設置形態の変更が、高等教育や科学技術研究に対する国の責任の大きな後退をもたらすという点である。かつて日本の大学では牛乳瓶をビーカー代わりに使っているという話が話題になった。こうした状況は少しは変わってきているものの、日本の研究条件の相対的な貧困状態は基本的に今日でも変化がない。高等教育に対する公財政支出をGNPとの割合で見ると、アメリカが1.1%、ドイツとフランスが0.9%、イギリスが0.7%などとなっているのに対し、日本は先進国の中で最低で0.5%にすぎない。この条件で日本の大学は自然科学を中心に研究面でもこれまで欧米の大学に伍してきている。そのことの方がむしろ不思議なくらいである。
大学審議会や文部省などが公財政支出の貧困さを指摘し、改善を求めてきた。しかし、国の行財政改革の一環として今回の大学改革が出てきていることを考えると、今後高等教育に対する公財政支出が増額されるどころか、むしろ削減されていくのではないかという懸念が出てきても当然であろう。国立大学が独立行政法人化すれば、大学の経営責任が問われ、大学は民間資金の導入に積極的にならざるをえなくなる。しかし、現在の企業風土や法制度面等から、アメリカのように民間企業の研究投資が大幅に増額するとは考えにくい。また、応用科学研究が進行する反面で、基礎科学研究が蔑ろにされる危険も否定できない。
ヨーロッパの多くの国では、高等教育が無料かあるいはかなり低額で行われている。真剣に学びたい学生に平等に教育を受ける権利を保障するのは国の責任である、という明確な思想がそこにはある。このことがまた、ヨーロッパの大学が、他の国、とりわけ発展途上国から多くの留学生を迎い入れることにも役立っている。日本の現在の国立大学の授業料ですら高いが、国立大学に経営論理が持ち込まれるとそれはさらに高くなるであろう。そうすると、国民の教育を受ける権利が侵害されることになるし、おそらく外国人留学生は日本にいっそう興味を示さなくなるであろう。今回の国立大学の設置形態の変更は、こうした選択肢を突きつけているのである。
さて、このことを前提に現在出されているいくつかの疑問にも答えておきたい。
日本では学生数にして四分の三が私立大学で学んでおり、私立大学でも十分研究教育を担えるのではないか、という意見を聞く。私自身、教育研究における私立大学の役割を否定するものではないし、そこでの教育研究の一層の充実が必要であると考えている。その意味では、私立大学の経常経費に占める補助金の割合が、1980年度の29.5%を頂点に、以後下がり続け九六年度には12.1%にしかすぎなくなっている点にこそ問題がある。多くの私立大学では、教育科目の相当部分を非常勤の教員でまかなわざるをえないという異常な状況にある。
また、これまでの日本の高等教育は、国立(公立)大学と私立大学の間で役割を分担しながら担われてきた。一例であるが地震研究、宇宙物理学、素粒子物理学等の学問分野は、圧倒的に国立大学が担っている(もちろん私立大学にあって国立大学にないユニークな学問分野もあるが)。その理由は明らかであろう。国立大学の設置形態の変更には、その先に民営化=私立大学化もあると言われているが、そうなったときの学術研究には一体誰が責任を負うのか。経営論理が強く入り込むと、多くの学問分野が削減されたり、消滅していくことは、欧米の先行例が教えてくれている。そして、実はこうした分野は文化に関係しているのである。
以上、国立大学の設置形態の変更に反対する私なりの理由を述べてきたが、このことは国立大学が何も変革をしないでよいことを意味しているわけではない。例えば、大学設置基準の大綱化以降の改革によって大学の教養教育は破綻してしまっているが、これを立て直すことが急務であるし、大学院重点化によって教育研究に何がもたらされたのかを真剣に検証してみる必要がある。企業社会と同じようにセクシャル・ハラスメントが発生したり、非合理的な人事配置が行われることがあるといったことも、今後の改革課題である。大学と社会との関係のあり方を再検討する時期にも来ている。そして、何よりもこうした課題を我々が自覚する必要があるだろう。傍観と諦観からは何も生まれないからである。
<補足>
なお「日本経済新聞」のリ-ドは次のようになっています。「全国大学高専教職員組合(全大教)委員長を務める和田肇・名古屋大学教授は、行財政改革の論議の中で浮上した国立大学の独立行政法人化は、高等教育に対する公財政支出の削減につながる懸念があると指摘する。和田教授に、独立行政法人化の問題点について寄稿してもらった。」
また、見出しとして「国立大学の独立行政法人化の問題点」「乏しい財政支出 一段の削減懸念」「授業料の高騰や基礎研究後退も」が付いています。
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